「忍耐」の大切さ…
まずは今回「カバー画像」を提供して下さった「rdt」さまへ、この場を借りまして、御礼申し上げます、ありがとうございました!
さて…わたしの「メールアドレル」に、
牧師志望の友人より、
「メールマガジン」が届きまして、
そちらに、彼の「2026年7月度」(先月)における「説教」、
「動画」のリンク先がありました…。
「メールマガジン」が届いて、
「動画」を見て、
その「感想文」を「はがき」にて書き送る…
これが「わたし」の「彼」との「コミュニケーション」です。
今回の「感想文」も「短文」にて済ませました。
今回の「説教」は「忍耐(にんたい)」という言葉が「キーワード」なっていると感じました。
途中、アウグスティヌス(4世紀、ヒッポの司教)の言葉を引用されたのは印象的でした。
とくに「パウロ書簡」の影響なのですが…
「忍耐(にんたい)」と「謙遜(けんそん)」が「セット」になって、
キリスト教徒の「徳目」として、
これが「重視」されるようになっていく…
これは、その後、キリスト教が「定着」していく「古代ローマ時代」を経て、やがては西洋修道制のなかでは見落とすことができない「ベネディクト会則」のなかにまで、それは浸透してゆくことになりますが…
「キリスト教思想史」を「生嚙(なまかじ)り」している程度の…
この「わたし」でも、これくらいのことは書けてしまうほど、
この「忍耐(にんたい)」という、
キリスト教的に変化した後の(※ヘレニズム思想、ストア派的なものではない)、そこに「倫理的実践」も含まれる「それ」は、そう簡単で、単純なものではないのです。
ましては、ここ「日本」という「精神的風土」において、
この「忍耐(にんたい)」という言葉を、
儒教的な意味合いを払拭(ふっしょく)した「受容(じゅよう)」が、
そう、たやすく「おこわれる」のだろうか?と考えたとき、
まだ、キリスト教は、
日本に伝来して、江戸期はずっと「禁教令」が布かれていましたので…
わずか「1世紀」ほどの歴史しか持ち合わせていない状況で、
やはり「忍耐(にんたい)」という言葉は、
「キリスト教」の「専門用語(テクニカルターム)」としては受け取られず、
もっと「情緒的」な「意味合い」が強調されてしまい…
「我慢(がまん)する」といった意味合いだけが残ってしまう…
そんな「懸念(けねん)」も、ない訳ではありません。
そんな「日本」で「キリスト教」を「布教」してゆくことの「困難」を、
改めて「実感」させられる…
そんな「説教」を「拝聴」いたしました。
わたしの「感想」は、以上です。
