セルフケア♯885+ξ【私、スポーツ鑑賞アスリート🏅🥋📺...】記憶。古賀稔彦という生き方が、教えてくれたこと。
この記事は、
以下に示す「note大学:みんなのスポーツ部」の
10月イベントに参加します。
私は、運動そのものがあまり得意ではありません。
日々の生活で積極的に体を動かしているかと言われれば、
少し口ごもってしまいます。
でも、スポーツを「鑑賞」することは、
とても好きです。
勝敗の行方だけでなく、
その舞台裏にある選手一人ひとりの物語や、
語られるエピソードに深く心を動かされるからです。
そこには、
スポーツという枠を超えて、
私たちの人生にも通じる、
たくさんのヒントと感動が
隠されているように思うのです。
今回は、
そんな私の心に深く刻まれている一人の柔道家、
故・古賀稔彦さんについて、
静かに語ってみたいと思います。
🥋1)小川直哉さんが語った、伝説のはじまり
先日、ふとしたきっかけで、
元柔道家でありプロレスラーの小川直哉さんが語る
YouTube動画を目にしました。
古賀さんと同級生だった小川さんが、
高校時代に出会った「古賀稔彦」という存在の衝撃を、
まるで昨日のことのように熱く語っていたのです。
当時、小柄ながらも「ソウルの星」と呼ばれ、
すでに天才として名を馳せていた古賀さん。
小川さんは最初、
その小さな体に半信半疑だったと言います。
しかし、
その疑念はすぐに、畏怖へと変わりました。
体重無差別の団体戦。
小川さんの学校の、
誰もが恐れる130kgの巨漢の先輩と、
まだ1年生の古賀さんが対峙した瞬間。
誰もが先輩の圧勝を信じて疑わなかったその試合で、
古賀さんは、いとも「普通に」その巨体を背負い、
鮮やかに畳に叩きつけたのです。
その光景を目の当たりにした小川さんは、
「立ったまま凍りました」と、
当時の衝撃を語ります。
この一件が、
小川さん自身の心に火をつけ、
「こいつに勝たないとまずい」と、
その後の彼の柔道人生を決定づけるほどの出来事に
なったそうです。
このエピソードは、
私たちが後に知ることになる
「平成の三四郎」という伝説の、
ほんの序章に過ぎませんでした。
しかし、
同世代の最強のライバルにさえ、
これほどの衝撃を与えた古賀さんの強さの原点を垣間見た気がして、
私は彼の柔の道を、
もう一度最初から辿ってみたくなったのです。
🥋2)若きエースの挫折(1988年ソウル五輪)
小川さんが語った「ソウルの星」という異名は、
古賀さんが1988年のソウル五輪代表に選ばれたことに
由来します。
若くして日本代表の座を掴み、
大きな期待を背負って彼はソウルの畳に上がりました。
しかし、
世界の壁は厚く、結果は3回戦敗退。
メダルには、手が届きませんでした。
多くの人が、
若きエースのまさかの敗退に落胆したかもしれません。
しかし、
今振り返れば、この最初の大きな挫折こそが、
その後の彼の柔道家としての精神を鍛え上げ、
技術をより深く洗練させるための、
最も重要な試練だったのだと思います。
頂点を目指す者にとって、
早すぎる成功は時に毒となります。
このソウルの悔しさが、
古賀稔彦という男を、
ただの天才から、真の求道者へと変貌させる、
最初のきっかけになったのではないでしょうか。
🥋3)痛みと栄光の金メダル(1992年バルセロナ五輪)
ソウルでの挫折を乗り越え、
世界選手権を二連覇し、
古賀さんは絶対的な金メダル候補として
1992年のバルセロナ五輪に臨みました。
しかし、大会直前、
運命は彼に過酷な試練を与えます。
練習中、
後輩でありライバルでもある吉田秀彦選手との乱取りで、
膝に大怪我を負ってしまったのです。
歩くことさえままならない、絶望的な状況。
誰もが出場を諦めると思いました。
先に試合に臨んだ吉田選手は、
見事に金メダルを獲得します。
しかし、
先輩を傷つけてしまったという自責の念からか、
彼の顔に笑顔はありませんでした。
その姿に、
古賀さんは何を思ったのでしょうか。
翌日、痛み止めの注射を打ち、
満身創痍の体で畳に上がった古賀さんは、
鬼気迫る精神力で勝ち進みます。
使える技が限られる中、
彼はもてる全ての知恵と勇気を振り絞り、
決勝の舞台へ。
そして、見事に金メダルを獲得したのです。
その瞬間、
前日笑顔を見せなかった吉田選手が、
涙を流して先輩の偉業を祝福しました。
この二人の友情と、
痛みを超越した「魂の柔道」は、
日本中の人々の胸を打ち、
今なお語り継がれる伝説となりました。
🥋4)30秒の油断(1996年アトランタ五輪)
バルセロナの栄光の後、
古賀さんは階級を上げ、
再び世界の頂点に立ちます。
そして、
三度目のオリンピックとなる1996年のアトランタ五輪。
彼は順当に決勝まで勝ち進みました。
試合終了まで、残り30秒。
古賀さんは優勢のポイントをリードしていました。
誰もが彼の五輪二連覇を確信した、
その瞬間だったのかもしれません。
ほんのわずかな心の隙が生まれたのか、
彼は一瞬の隙を突かれ、
逆転の判定負けを喫してしまいます。
信じられないという表情で、
呆然と畳に立ち尽くす古賀さんの姿は、
勝負の世界の非情さを物語っていました。
この銀メダルは、
彼にとって金メダルを逃した悔しい結果であったと同時に、
「最後まで気を抜いてはいけない」
という、指導者としての彼の哲学を形成する、
極めて重要な教訓となったのです。
🥋5)王者が見た厳しい現実(2000年シドニー五輪国内予選)
アトランタの後、
怪我の療養などを経て、
古賀さんは再び畳に戻ってきました。
目指すは、2000年のシドニー五輪。
しかし、時代の流れは残酷でした。
かつての絶対王者は、
若く勢いのある選手たちに勝てなくなっていました。
そして、彼は厳しい現実に直面します。
予選の会場に、
金メダリストである彼のための個人の控え室が、
用意されていなかったのです。
勝てなければ、
過去の栄光など何の意味も持たない。
そんな勝負の世界の掟を、
彼はその身で痛感したことでしょう。
それでも彼は、
最後までオリンピック出場を目指し続けました。
そして、この国内予選を最後に、
彼は静かに現役生活に終止符を打ったのです。
その引き際は、
王者の誇りと潔さに満ちていました。
🥋6)師として掴んだ、もう一つの金メダル(2004年アテネ五輪)
現役引退後、
指導者となった古賀さんは、
2004年のアテネ五輪で、
女子柔道の谷本歩実選手のコーチを務めます。
彼は、自身の経験、
特にアトランタ五輪決勝での「残り30秒の教訓」を、
谷本選手に繰り返し説いたと言います。
そして、決勝の舞台。
谷本選手は見事に一本勝ちを収め、
金メダルを獲得します。
試合終了後、畳を降りた瞬間、
彼女は畳の下で待つ古賀コーチのもとへ駆け寄り、
その胸に飛び込みました。
師弟が涙で抱き合うその姿は、
アトランタで彼が失ったもの以上の、
輝かしい金メダルに見えました。
選手としてではなく、師として。
彼は、自身の経験の全てを次世代に繋ぐことで、
もう一つの栄光を掴み取ったのです。
🥋7)柔道界のレジェンドとして
その後、
古賀さんは「平成の三四郎」として、
また柔道界の偉大なレジェンドとして、
多くの人々に愛されました。
バラエティー番組で見せる気さくな笑顔や、
自身の道場「古賀塾」で
子供たちに柔道を教える優しい眼差し。
彼は、柔道という競技の枠を超え、
その人間的な魅力で、
多くの人々に影響を与え続けました。
「強く、優しく」という彼の教えは、
畳の上だけでなく、
私たちが生きていく上での大切な指針として、
今も心に響きます。
🥋8)早すぎる、永遠の別れ
しかし、
そんな古賀さんとの別れは、
あまりにも突然やってきました。
2021年3月、彼はがんのため、
53歳という若さで、この世を去りました。
その訃報は、
日本中に大きな悲しみをもたらしました。
彼の生涯は、
挫折と栄光、苦悩と歓喜に満ちた、
まさに一本の映画のような物語でした。
彼が遺してくれた数々の伝説と、
その生き様から私たちが受け取った勇気は、
これからも決して色褪せることはないでしょう。
古賀稔彦という一人の柔道家が、
その人生を通して見せてくれたもの。
それは、
ただ勝つことの強さだけではありません。
負けることの痛みを知り、
それを乗り越え、
そして、
その経験を誰かのために役立てることの
尊さでした。
彼の物語は、
これからも私の心の中で、
静かに、
そして力強く輝き続けるのです。
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