川路でゆく潮干狩り (1951〜52年頃)
初めて潮干狩りを体験したのは、小学一、二年生のころだった。
子供会の行事で、参加希望を募った結果、目的地の桑名まではバスではなく船で行くことになった。同じ村の子供たちだけの行事だったので、私は母と一緒に参加した。
朝、墨俣から船に乗り、長良川を下って伊勢湾へ向かう。桑名に着くころには潮が引き、潮干狩りができるという段取りだった。
長良川は木曽三川の中央を流れ、輪中地帯を経て伊勢湾へ注ぐ大河である。当時は河口堰もなく、川は今よりずっと自然の姿を残していた。
船は途中、いくつもの渡し場を通った。両岸にはワイヤーが張られ、渡し舟は滑車を掛けて川を横切っていた。幼い私は、大人たちが口にする「わたし」という言葉を「私」のことだと思い込み、不思議に感じていた。
後になって知ったのだが、あの渡し舟は水流の力を利用していた。ワイヤーに沿って舳先を上流へ傾けることで、水の力を横方向の推進力に変え、対岸へ渡っていたのである。少々の増水さえ力に変えてしまう、昔の人の知恵だった。
やがて船は桑名沖に錨を下ろした。見渡す限り砂地が現れ、いよいよ潮干狩りである。
しかし、雑誌の写真のように次々と貝が採れるわけではなかった。今となっては母が何をしていたのかも定かではない。
ただ一つ覚えているのは、潮が満ち始めたころ、上級生たちが砂の上で白い小さなエビを見つけて夢中で捕まえていたことだ。どうやら私の記憶には、貝よりもエビの方が強く残ったらしい。

帰りは流れに逆らうため、船はなかなか進まなかった。堤防の上を歩く人の方が速いのではないかと思えるほどで、ひたすら時間だけが過ぎていった。
墨俣へ着いたころには、すっかり日が暮れていた。
暗い夜道を、私は母の自転車の後ろにつかまって帰った。途中で母は転倒し、足をけがしてしまった。手拭いを裂いて応急手当てをしながら、それでも家路を急いだ。
帰りがこれほど遅くなるとは誰も思っていなかったのだろう。一刻も早く帰りたい。その気持ちは皆同じだったようだ。
船の上では一番元気だった近所の上級生の兄弟が、暗い堤防道を泣きながら歩いていた光景を今でも覚えている。当時は街路灯もほとんどない時代だった。
川路(かわじ)という言葉を普段意識することは少ない。しかし木曽三川は古くから重要な交通路であり、揖斐川もまた水運の大動脈だった。
俳人・松尾芭蕉が「むすびの地」として知られる大垣から、水門川を経て揖斐川を下り、桑名へ向かったことも知られている。
私が体験したこの潮干狩りの船旅は、古代から続いてきた川の交通文化、その長い歴史の終盤に触れた一日だったのかもしれない。
幼い私にとっては潮干狩りの思い出だったが、振り返れば川路と渡船の時代をかすかに見送った、長い一日でもあった。
