天国に咲くガーベラ
#創作大賞2026 #エンタメ原作部門 #ビジュアルノベル #ヒューマンドラマ
〜あらすじ〜
人と関わることを避けて生きてきた成瀬ルキアは、孤独のまま死ぬはずだった。死神の記憶が刻まれたルキアは、「終わりの場所」に清掃員として導かれる。そこで出会ったのは、本来関わるはずのない女性看護師、星野アズリ。たった一度の選択が、彼の人生を決定的に変えることになる。アズリとの出会いは、ルキアに変化をもたらす。そして難病の少女、藤野美羽の死をきっかけに、ルキアは病院から逃亡する。それでもアズリはルキアを探し出す。二人の心は深く繋がっていくが、思わぬ出来事が二人を切り裂く。
■第一章『死神の記憶』
電子音だけが、響いていた。
……ピッ。
……ピッ。
ぼやけた視界の先。
白く眩しい円形の光。
「……ルキア」
遠くから女性が呼ぶ声。
「……ルキア」
誰かが、こちらを覗き込んでいる。
霧がかかったように辺りが白くなっていった。

気がつくと、湿った空気の漂う公園の一角にいた。
隣には漆黒の毛並みを持つ一匹の猫。
黒い影が自分を見張っているように。
怠い。疲れ。
何をしてたのかも思い出せないままベンチにもたれていた。

──次に目を開けたとき、俺は白い廊下に立っていた。
モップを手に、床を磨いている。 かすかに漂う消毒薬の匂い。
滑るように動く足元の感触。

俺はそこで働いていた。
「......成瀬くん、成瀬くん」
遠くから聞こえる女性の声。
驚いて顔を上げると、缶コーヒーを持った看護師がいた。
その顔には、俺の反応を待ち構えているような笑みが浮かんでいた。
顔は知ってる。
名前が出てこない。

俺は何も言葉に出せないでいた。
彼女はほんの少し目を見開き、呆れたようにため息をついた。
「はあ? もう......はい、缶コーヒー」
不服そうに、缶を机の上に「コトン」と置いて去っていった。
しばらく、呆然と缶を見つめていた。
活発で、どこか強引な印象の看護師。

そうだ、星野......。
星野アズリ。
何かを思い出しそうになった。
俺はただ掃除をするだけの毎日。
苦痛ではなかった、でも心は痛かった。
大切な何かを見失ったような。
妙にこっちを見てくる少女がいた。
点滴を勝手に外しては看護師を困らせていた。

少女は日に日に痩せ細り目の下に隈ができた。
そして、物を投げるようになった。
あの星野さんが少女の対応をしている。
暴れを制止しようとして、
足がもつれ、つよく頭を床にぶつけた。
「星野さん!」
俺はモップを置いて駆け寄った。
「星野さん!大丈夫ですか!?」
朦朧としながらも俺と視線があった。
「成瀬くん......」
かすれた声で口を動かした。
出血していた。
俺はすぐ医療スタッフに伝えた。

何も出来ない事が歯がゆくて、病院にいればいるほど辛くなる。
俺が休暇を取ってる時、少女は様態が急変したらしい。
いなくなった......。
しばらくして、星野さんは俺にカードをくれた。

「また会えたらいいね」......。
それ以来、星野さんを病院で見なくなった。
ある時、 俺は血を吐いた。体の倦怠感。
俺は突然倒れた。
入院した。
俺は......ひとり

だけど何だこの虚しさ。寂しさ。
どんどん意識が遠のいていった。
そのとき、心の奥に低い声が響いた。
「──これがお前の結末だ」
得体のしれない恐怖で、体が震えた。
それはまるで、何かが俺の体に注がれるように。
そして、俺の心に“死神の記憶”が刻まれた。
俺は──

■第二章『後戻りできない道』

祖母と住んでた家に、俺は一人で住んでいる。
人間関係は疲れる。
だから俺は一人でいる。
猫......は、いた。

ある日、猫のシャロンが外にとび出した。
妙に気になり、俺は後を追い外に出た。

まるで導くようにこっちを見ながら、
俺の歩くスピードを確かめると、ゆっくり先に進んでいった。
日が暮れ始め、雲が出てきた。
歩道橋が、少し先に見えた。

胸の奥がざわついた。
何かが触れたような気がした。
「家族でよく通った道......なのか」

さっきまで確かに何かを思い出しかけていたのに、
指の間からこぼれ落ちるみたいに掴めない。
その瞬間、低い声が心の奥底で響いた。
「あそこがお前の始まりであり、終わりの場所だ」

誰の声だ?
俺は得体のしれない恐怖で、凍りついたように動けなくなった。
雲が垂れ込め、湿った空気が肌にまとわりつく。
雨がポツポツと降り始めた。

俺はいつの間にか呼吸が早くなっていた。
手が痺れてるような感覚。
何度も握りしめた。
呼吸はどんどん早くなり、指先が冷たくなってきた。
足が動かない。
頭の奥で鳴り響く、あのときのサイレン音。
フラッシュバック。

「ここか......」
父がハンドルを握り、母が笑みながら振り返って
── あの日の記憶が、まざまざとよみがえる。
俺は膝をついた。
しばらくして呼吸が落ち着いてきた。

シャロンはただ、じっと俺を見つめていた。
遠くに見える建物のシルエットが目に入った。
そして、シャロンは又歩き出した。
脳裏によぎる記憶の断片に俺は恐怖を感じていた。
そっちは駄目だ。
俺の足は力が抜けるように、
そして諦めるように歩き出した。
気がつくとそこは病院の前だった。

「かざみの森病院──母さんが、いた場所だ」貼り出された一枚の紙。
「清掃員募集中」
俺は吸い込まれるように受付に向かった。
「何かご用ですか?」
「あの清掃員募集の張り紙をみて......」
働くつもりなんかないのに。

施設に漂う消毒薬とオイルの香り。
それは、幼いころの俺を慰めるようで、
そして母の勤めていたこの病院で嗅いだ、あの香りだった。
俺は母に抱きしめられているような、
そんな錯覚から逃られなかった。
その時。
「君、ルキアだろ?」
懐かしい声がした。
相馬さん......
「ちょうど帰ろうと思ってたところだったんだ。タイミング良かった」

「しばらく会わないうちに、大きくなったな」
「覚えててくれてありがとうございます」
「まあ、君の母さんには世話になったしな」
遠くの記憶を思い出すように相馬さんは目を細めた。
「ところで清掃員やってくれるのか?」
「ちょっと、張り紙をみて……」
「というか、自分でもよくわからないんです」
「なんでここにいるのか」
「うちの猫を追いかけてきたら、気づいたらここにいて……それで」
相馬さんは辺りを見回し、不思議そうに言った。
「猫?」
「え?あっ......なんでもないです」
「あ......で、」

「で、ルキアさえよければ」
「明日から制服と名札用意しておくよ」
相馬さんに、お断りなんか出来なかった。
結局了承してしまった。

■ 第三章『扉の向こうの少女』
朝の清掃は、まだ人の少ない静謐な時間に始まる。
俺はモップで床を磨く前にホウキがけをして病棟の廊下をゆっくりと進んでいた。

そのときだった。
一室のドアが、わずかに開いていた。
中では、看護師が少女に強めに言っていた。
「また点滴取っちゃったの?ダメじゃない」
「今付け替えるから、今度勝手に外しちゃダメよ!」
……なんか、きついな。
でも患者だって、意味もなくそんなことしないだろ。
ふと──目が合った。
淡い黄色のパジャマ。
固く閉ざした口
表情は氷のように冷たく、
どこか棘のある視線。
ベッドの上に静かに座る少女。

看護師が機器を確認しているあいだ、少女はじっと、こちらを見ていた。
やがてドアは、何事もなかったかのように静かに閉じられた。
俺はホッとした。
それから、時おり同じような場面があった。
廊下を通ると、ちょうどバイタルチェックの時間。
覗くつもりはない。
だが、目は自然とあの部屋を捉えてしまう。
見てはいけない気がして、すぐに逸らす──だが、また見てしまう。
──あの少女が、やはりこちらを見ている。
仕事が終わり、いつものベンチに座った。
考え込むのはクセだった。

無視すればいいだけなのに、妙に引っかかった。
そんな事が何回かあった。
なにか答えが見つかるわけでもないのに、
いつものベンチで又考え込んでいた。
少しだけ心が落ち着く気がした。
そして、コンビニ。
「牛乳、コーヒー、パン」
いつも同じような物しか買わない。
レジの人が言う
「以上ですか?」
「あ、これもください」

レジ横にあった、小さなアクリルキーホルダー。
俺は会計を済ませ無造作に、それをズボンのポケットへ突っ込んだ。
翌朝。
いつものように、設備整備室で掃除の準備を始めた。
いつものように制服に着替えた。
「カラーン」

「あの時の……」
落ちたキーホルダーを拾い、俺は無意識にポケットへ戻した。
この日も少女はルキアを探し当てたかのように、こっちを見ていた。
見るからに重荷を背負った少女に何が出来るのか。
俺の脳裏に、あのときの幻がかすめる。

そして、ある朝。
俺は答えを出せないまま、少女の前にたっていた。
気づけば、ポケットに入っていたキーホルダーを渡していた。
俺にとっては、意味のない行為のはずだった。

少女は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、手のひらに乗せたキーホルダーを、じっと見つめる。
……なんだろう。
そんな顔をしていた。
やがて少女は、ゆっくり顔を上げた。
俺は軽く頷いた。
そして、ほんのわずかに手を振った。
少女は少し驚いたような顔をしたあと、小さく微笑みながら手を振り返してくれた。

片付けを終えた看護師は、
そのやりとりを知らぬまま淡々とドアを閉めていった。
俺はホッとした。
何かやり遂げた、そんな感じがした。
そしてそれが消えない光として残った。
─ 看護助手への道
「成瀬くん、みつけた」
控え室に入ってきたのは、看護師の星野アズリ。

病棟で俺を見つけては、
「みつけた」と声をかけてくる少し押しの強い看護師だった。
内心、距離感に戸惑っていた。
「人手が足りないの。ベッドの移動、お願いできる?」
これだ......。
断っちゃいけない。
俺はそう思った。
だから応じた。
「あ......はい」

共有から個室への重症患者の配置換えだった。
俺は病室のベッドの向きと機器の位置を自然に整えた。
「やっぱり、わかってるわね」
星野アズリが感心したように笑う。

「ねえ、ソルラクト500わかる?」
「......普通の点滴ですよね?」
星野さんは「ナースステーション横の冷蔵庫にあるから」
と言うだけ。
まったく、なんのテストだよ。
俺は素早くソルラクト500を持ち出した。

アズリの目は、一瞬だけ細くなる──
何かを確信したように。

相馬課長とは控え室でよく談話をしていた。
缶コーヒーを飲みながら。

相馬課長だけは何かが違った。
幼い頃から知ってる人、だからといって距離が近いわけでもない。
「あの、母とは......」
「香澄さんはな」
「俺の命の恩人だよ」
「母が?」
相馬さんは少しだけ笑った。
「……昔の話だ」
視線をそらし、それ以上答えなかった。
「ところで......」
「ちょくちょく星野がここ来るけど、知り合いだったのか?」
知り合い......
どこかで見覚えのある顔なんだが、思い出せない。
「違い......ます」
「ほんとか?」
相馬課長はニヤけながら、心を探るように言った。

その時、星野アズリが現れる。
「成瀬君......」
聞かれた......。
俺は静かに言った。
「なんなんですか......」
アズリは真剣な顔になり、こわばった声で言った。
「ナースステーションまで来て」

やってしまった。
せっかく人生が変わったと思ったのに、
油断した......。
「いってら成瀬!がんばってな」
相馬課長......冷たくないか?
人間不信になる。

ナースステーションまで俺はゆっくり歩いた。
ベッド移動の依頼を受け入れただけじゃ駄目なのか?
ナースステーション。
そこには看護師長、医師、他の看護師がいた。

まずアズリが看護師長にルキアを紹介した。
「師長、こちらが噂の成瀬ルキア君」
アズリは振り返りルキアに笑みを見せた。

「あなたが成瀬ルキア君ね。お母さんに似てるわ。」
「ベッド移動は済ましましたし……他に何か用でしょうか......」
俺はもう、人との関わりで問題が起きるのが嫌だった。

「医療、勉強してたの?」
俺は小さい声で言った
「とっくに諦めました......今更なんで」
何でほじくるんだ。
触れられたくないことだってあるじゃないか。
心が締め付けられた。
「成瀬くん、医療現場で一番大事なことって何だと思う?」
またテストか...…

「看護師長が何を求めてるかわかりませんが、患者さんの立場になって考えることだと思います」
「でも、率直に言って時々、怖いって思います」
看護師長は表情を変えなかった。
「私はね、怖いと思うことは悪くないと思うは、むしろそう思っててほしい」
「変な言い方に聞こえるかもしれないけど……慣れって、時々人を鈍くするのよ」
「緊急時って、技術だけじゃないのよね」
「気づけるかどうか」
「……あなた、医療現場に向いてると思うわ」

褒めてくれてるのか?
とりあえず言い分を聞いてみることにした。
「看護助手として、正式に働いてみない?」
なっ?
俺は意表を突かれた。
そっち......なのか 。
数秒の沈黙が流れた。
看護師長に視線を合わせないようにしてるのに、視線を感じる。

なんて言ったらいいのか、複雑だ。
医療現場で働いていいのか?
中退したこの俺が......。
でもなにか答えないと。
「......あ、じゃあ......明日から......で......」
その瞬間。
突然、星野アズリが横槍に入ってきた。
にっこり笑いながら即座に言う。
「今からよ!」

「きゅ、急すぎないか......?」
なんだよこの人は。
せっかく一日考えたかったのに。
星野アズリは、淡々と言った。
「はい、制服と、新しい名札」
そう言って、当たり前のように俺の手に持たせた。

そしてアズリは思い出したように
「施設整備課長には、もう話してあるから」
あっ......だからか......あの不敵な笑み......。

その日、俺の肩には、母が働いていたこの病院の重みがあった。
だが、ここは俺の最後の場所......。
俺はその考えから、目を逸らすように胸の奥へ押し込めた。
■第四章『心の距離』
看護助手としての新たな任務が始まってから、俺の日常は一変した。
控え室で過ごす静かな時間は激減した。
ナースステーションからの依頼、医療機器の運搬、患者の介助......。

まさか俺が医療現場で働くことになるとは。
複雑な気持ちでしかなかった。
あの時断らなかった人生がこうなるとは......。

そして、あの星野アズリが、
いつの間にか仕事の支えになっていた。

そして、俺は看護助手として、初めて少女の病室に入ることになった。
307号室。
訪室を増やすよう指示が出ていた。
俺はノックをした。
「入ります──」

少女は窓の外を眺めていた。
俺の声に気が付き、ゆっくりとこちらを振り向く。
その瞳が、俺をまっすぐに捉えた。

点滴をつけてくれてる。
良かった。
「あ......その......また会えたね」
少女の目がふわりと揺れた。
そして次の瞬間、少女は微笑んだ。
俺はホッとした。

少女の名は藤野美羽。
白血病治療のため骨髄移植を受けたが、
重度の免疫不全状態に陥っていた。
体内では感染による炎症が慢性的に広がり、
声を出すことすら難しくなっていた。
「点滴落ちてるね」
そして、帰り際。
俺は静かに、ためらいがちに手を振ってみた。

少女は、一瞬だけ間を置いて、小さく手を振り返した。
意思疎通できた……。
「美羽ちゃん、またくるね」
美羽は、かすれた小さな声で口を動かした。
「ガーベラ」

声はほとんど聞こえなかった。
でも、口の動きでわかった。
あの花の名前だ。
美羽の少しの言葉。
少しの笑み。
それだけで、救われた感じがした。
でも──
病気が消えたわけじゃない。
俺は、その現実から目を逸らそうとしていた。
─ ガーベラと家族の距離

ある日。
ガーベラの花束を大切に抱えた若い夫婦が、4階の免疫・血液内科のナースステーションを訪れた。
二人の表情は固かった。

その夫婦は、藤野美羽の両親だった。
「免疫不全なので、病室に植物は持ち込めないんです」看護師は柔らかい声で伝えた。
「では、ナースステーションに飾ってください」
美羽の母は静かに答えた。

その花は、ナースステーションにそっと置かれた。
美羽にとって両親の定期的な面会はいつものことだった。
特別に喜ぶでもなく変わった様子もない。
父親は名残惜しそうに何度も美羽の頭を撫でた。
だが、美羽はその手をほんの少し避けるように首を傾けた。
それは行き場を失った感情が、かすかに漏れ出した瞬間だった。
「ガーベラ、美羽ちゃんが好きなんですって」 ルキアがガーベラを目にしたとき、アズリが教えてくれた。

美羽は検査で車椅子に乗って通路を通る際、ガーベラに目を向けた。
その目は、ほんの少しだけやわらいでいた。

──それは美羽にとって、ここで生きていくしかないという現実だった。
そしてルキアもまた、その風景の中に、いつの間にか溶け込みはじめていた。
─ ルキアの起点

帰宅まで、あと一時間。
夜勤ではないが、夜までのシフト。
点滴交換用のカートを押しながら、
俺はカルテを持った星野さんの後ろを歩いていた。

俺たちは回復室に入った。
大腸癌手術後の患者の経過観察。
一見、異常はない。
──だが。
星野さんの手が、わずかに止まった。
振り返り、俺を見る。
「ねえ、成瀬くん」
「術後10時間。この点滴……減りが早すぎない?」
その表情は、いつになく真剣だった。
「バイタル確認して!」

俺はバイタルを確認した。
「心拍、少し速い。血圧は正常値ですが……低下傾向」
星野さんは咄嗟に患者の手に触れた。

冷たい。
呼吸数も上がっている。
「それ……脱水ですか」
「そう、このままだとショックを起こす。バイタルチェック続けて」
「はい」
アズリは足早にナースステーションへ向かい
内線を手に取った。

「星野くんか」
「202号室、大腸がん術後の患者さん。術後10時間で点滴の減りが早いです。脱水と※サードスペース疑い濃厚です」
医師:「了解。今から行く。酸素つけておいて」

俺達は迅速に準備を整え、医師の診察を補助した。
モニターの数値が、ゆっくりと落ち着いていく。
呼吸も、次第に整っていった。

アズリは静かに息を吐き、小さく笑う。
「......やっぱり、成瀬くんって頼りになる」
「......ただやれる事をやっただけです」
ほんの少しだけ視線を落とした。

星野さんは微笑みながら、まっすぐ俺を見て言った。
「純粋に助けたいって気持ちがあるから......
その気持で私達は動かされてるような気がするの」
「そして、ここにいるのかも」

……助けたい。
気づけば、自分に向いてるかどうかばかり考えていた。
星野さんは、今日も俺の眼の前にいる。
俺の人生は、わずかに軌道を変えはじめていた。
■第五章『静寂崩壊』
─ 青空の下の笑顔
「成瀬くん、ちょっと来て」
星野さんの誘い?
どこに行くんだろう。
俺は疑心暗鬼のまま、ついて行くことにした。
辿り着いたのは病院の屋上だった。

「ここ......屋上?」
......っていうか屋上だよな。
星野さんとは言え一人の女性。
変に緊張して、変な発言してしまった。
「ふふ、知らなかった? ここ、私の秘密の憩いの場なの」
俺は心のなかで、少し安心した。
屋上からの眺めは予想以上だった。
広がる空、流れる風、遠くの雲。

広がる空と街並みを、ゆっくり見渡した。
友達がいなかった俺には、こんな事は今までなかった。
自分のお気に入りの場所を教えてくれる──
そういうやつだ。
良すぎてなのか、絶句なのか。
最初の一言はこれだった。
「や......すごいな......」
「ここ立ち入り禁止エリアだから、内緒」

星野さんでも自分の逃げ場所があるんだな。
勝手にそう思った。
俺たちはフェンスの前まで歩いていった。
鼻で深く呼吸するように。
そして、この青空に顔を向けた。

青く澄んだ空に、雲が流れてるのを見たとき、
俺は漠然と「何をやってたんだろう」と感じた。
屋上脇では室外機がかすかに唸り、
その向こうからは大通りの車音が遠くに聞こえていた。
「ねえ、成瀬くん。美羽ちゃん……骨髄移植したけど」
星野さんの声は、どこかかすれていた。
「肺炎もリンパ節の腫れも、何度も繰り返してるの……」

……その話をしたかったのか。
「……知ってます。夜間の酸素吸入の頻度が増えてますよね」
「今度何かあったら……」
遮るようにアズリは続けた。
「それが怖いのよ」
だからか。
俺の脳裏には死神の記憶が見え隠れしていた。
「でもまだ……」
アズリは息を飲み込んで続けた。
「……うん。美羽ちゃん今戦ってるよね、わかる」
「術後、一時的に持ち直したと思ったのに……」
「担当医は、両親にその事説明したわ」
俺は息を呑んだ。
「……ってことは」
「うん、正直、看護師の私でも辛い。」
「まだ喋れてた時の美羽ちゃん知ってるから……」
俺達、感情移入してる……のか。

風で揺れる星野さんの髪は、今までの見え方と少し違っていた。
そして話題を変えるように続けて言った。
「美羽ちゃん、前より笑顔が増えた。
……きっと成瀬くんのおかげね」
星野さんの微笑みは、どこか震えていた。
もう気づいてる。
「俺は......別に何も」
アズリは首を振って言った。
「成瀬くんの、優しいとこ。......いいと思うよ」

俺の奥を見てくるその視線。
離れられない。

星野アズリは静かに語り出した
「大学に入る前まで、ずっとSNSでやりとりしてた人がいたの。
医者になるのが夢だって、まっすぐに語ってくれた人。
でも、ある日突然、連絡が来なくなって......」
はっ?
俺は心のなかで激しく反応してしまった。

「だけどね、私はその人の言葉に背中を押されてここまで来たの。
看護師になろうって、心から思えたの」
星野さんは目線をそらしていた。
俺たちは一瞬無言になった。
短い時間のはずなのに、長く感じた。
ただそこに立っていた。

─ 配膳
ある日。
俺は引き継ぎ用の記録を確認するため、
パソコンを操作していた。
そこに現れるのが、星野アズリ。

まあ悪い気はしない。
相手にされないよりは断然マシだ。
今度は何を要求してくるのか。
もう星野さんには慣れてきた。
「成瀬くん、お願い。今日だけ配膳よろしくね?」
はい、来ました。
というか行動パターンがミエミエだな、この人
とりあえず受け入れよう。
俺の人生が変わったんだからな。
「はい」

人の食べ物を扱うと思うと、不安になる。
相変わらず俺は、頭の中で言葉を並べていた。
とりあえず、この仕事もこなさなくては。
慎重にワゴンを押し、各病室をまわった。
「えっと、ここで......いいですか?」
「はい、ありがとうねぇ」 年配の患者が優しく答える。

そして──307号室。
美羽の病室。
骨髄移植してから美羽は笑顔が増えた。
このまま行けば、
いや医療現場で楽観視はダメだ。
それでも、星野さんの言ってた笑顔が
俺との意思疎通の結果なら。
「......美羽ちゃん、ご飯だよ」
「ゆっくりでいいから。食べられるだけ、食べてね」

美羽は貧弱ながらも満面の笑みを返した。
いつもと違う、しがらみから解放されたような空気感に一瞬戸惑った。
貧弱になった腕に刺された点滴、鼻のカニューレは美羽の状態を明らかにしていた。
美羽には頑張ってほしい。免疫が少しでも上がるように
俺は静かに手を振った。
美羽も、いつものように手を振り返す。
それは、ふたりの意思疎通。
言葉のない会話のようなものだった。
美羽は、かすれた小さな声で口を動かした。
「ありがとう」

─静寂
ある日の午後。
ナースステーションには珍しく、あの慌ただしさがなかった。
急変もなく患者の容体 も安定。

穏やかな時間が流れ、スタッフたちもわずかな休息をとっていた。
消化器外科医、看護師長も揃い、
ちょっとした昼休憩のようだった。
俺と星野さんは、遅めの昼食をとっていた。
そんな空気の中で、誰かが冗談めかして言った。
「ねえ、二人ってお似合いじゃない?」
なっ……。
なぜこのタイミングで。
本当に勘弁してほしい。
冷やかしにもほどがある。
俺は心のなかで不快感を覚えながらも、
星野さんに迷惑かかってないか心配になった。

「すみません……星野さん、なんか」
星野さんは間違いなく恥ずかしそうに黙ってしまった。
そこ否定はしないのか。
なんというか……チャーミングな人だ。
俺があの時受け入れたから、人との関わりができてしまった。
そして今、困ってる星野さんが目の前にいる。
……嫌じゃない。
俺はそう感じた。
そのとき──
ナースコールが鳴った。
医療スタッフの空気が、一瞬で切り替わった。
「301号室です」
看護師が確認へ向かった。
ほどなくして戻ってきて言った。
「何で押したのかわからないそうです」

張り詰めた空気が、少しだけ緩んだ。
そのときだった。
また電子音が鳴る。
─ 子犬のワルツ
いつもの旋律じゃない。
俺は違和感を覚えた。
それは……子犬のワルツ。
俺は無意識で星野さんを見た。
その顔はこわばっていた。

部屋番号は……。
その場に居合わせたスタッフは、すでにモニターを見ていた。
遅れて俺もそれを見た。
307号室。
まさか。
それは、重篤患者専用に設定されたナース コール音だった。
数秒が、こんなに長く感じるなんて。
スタッフ全員が凍りついたように動かなかった。

「コードブルー……ですね」
誰かが冷酷に呟いた。
一斉に看護師たちが動き出す。
ストレッチャー。
医師への報告電話。
交差する中に、星野さんの声も混じっていた。
淡々としている。
だが、早い。

俺は、自分の足がわずかに震えているのがわかった。
──美羽は、敗血症性ショックによる急変で、危篤状態だった。
俺はこんな未来、知らない……。
でも……。
ナースステーションではスタッフが両親に連絡を入れていた。
美羽が運ばれていく。

俺は、その背中を見送ることしかできなかった。
……美羽の病気がどの程度のものかわかってた。
ふと足元を見た。
そこには美羽にあげたはずのキーホルダーが落ちていた。

「美羽......」
呟きにもならない声が喉から漏れる。
処置室の扉が閉まった。
それから──45分が経った。
最初に処置室のドアを開けて出てきたのは、星野さんだった。
その顔には、拭いきれない涙の跡があった。
俺は緊張しながら近づいた。

「......成瀬君」
言葉を絞り出すようにして、俺の名前を呼んだ。
結果が想像できた。
美羽が処置室に入るときの状態を知っていたから。
俺は覚悟した。
「俺は何もできなくて......」
星野アズリは首を振った。
「あなたの優しさが......
あの子に、笑顔を戻してたの......」
その時、俺は改めてわかった。
美羽はすでに、星野さんに不安をぶつけていた事を。
そうか……。
「俺も、少しは役に立っていたのか……」

気づくと、彼女の目から涙がこぼれていた。
ナースが電話をかける声が聞こえる。
美羽の両親は、まだ到着していない。
俺は、ただ、307号室の扉を見つめていた。

──まだ、そこにいるんじゃないか。
そう信じたくなるような、錯覚の中で。
俺はマスクを外し、丸めて手の中に握った。
それを、ごみ箱に放り込むように、通路の隅へ捨てた。
押しつぶされそうな無力感と、消えかけた熱を胸に抱いたまま。
いつの間にか、病院の外へ出ていた。

─ 静寂崩壊
外はいつの間にか夜だった。
俺は、肝心なところでいつも逃げてきた。
美羽の症状を知ってたのに。
星野さんと、あの屋上で話ていたのに。
美羽の笑顔が、俺を麻痺させていた。
自分が役に立ってる事が嬉しかった。
……そんな自己満足な自分に、嫌悪感が差した。
どのくらい時間が経ったのか覚えてない。
ただ空はいつのまにか雲が消え、
まるで広がる宇宙の中にいるようだった。

なんだよ、これ……。
誰にも届かない小さな声で俺は呟いた。
こんなにも美しい空がこの世界にあるなんて。
毎日淡々と掃除して、配膳して、点滴見て──
そんなループの中で美羽の笑顔が特別だった。

悔しさも、悲しみも、あとからやってきた。そして今、それら全部が胸の奥に溜まっていく。
「神様って、本当にいるのかよ……」
俺の声は震えてた。
命は、こんなにも短い。
一生懸命、毎日を生きていても、
あっけなく終わってしまう。

どうして──
美羽が笑顔になったのに。
治るって、思いたかった。
治るとかって……錯覚かよ。
なんなんだ……。
けれど、この星空を見ていると、
自分たちの存在の小ささが胸に刺さる。
儚い命。
一生懸命生きているのに、
それでも失われるものがある
── 気づけば、頬に一筋の涙が伝っていた。

■第六章『挫折の神童』

幼い頃、両親を事故で亡くした俺は、祖母に引き取られて 育てられた。
事故の記憶は断片的だった。
爆音と強い衝撃。
何度も母が俺を呼ぶ声。
突然外に引きずり出されて、
赤いライトが眩しくて。
それが脳裏にこびりついて離れない。
今思えば、あれが救急隊員で、救急車だったのだろう。

時は経ち、中学校。
俺は人付き合いが苦手だった。
休み時間も、本を読んで自分の世界にいる方が楽だった。
学ぶことは、自分の宝のように思えていた。
だからなのかこの頃、俺の成績は学年でもトップだった。
人生設計を考え始める時期でもあった。
医者になりたいと思い始めたのは、この頃だった。

特別な趣味はなかった。
SNSの中だけが、他人とのつながりだった。
運よく、異性のユーザーとつながった。
毎日、学校の出来事をやり取りするようになった。
それが俺にとっての、社会との接点だった。

俺にとっては、プラトニックに心を寄せる相手だった。
誰かわからない。
相手のハンドルネームは、うさまる。
本名は教えてくれなかった。
でも、共鳴しあえる感覚があった。
それだけで、ただただ嬉しかった。
毎日が、すこし楽しく感じれた。
どんな子なんだろう。
会ってみたいな。
会えるのかな。

二人のチャットが終わると、ベッドに横になりながら、そんなことをぼんやり考えていた。
「食事ができたから来なさい」
祖母の優しい声が、俺を現実へと引き戻した。
月日は静かに流れ
俺は夢だった医者になるため、まっすぐ医大へと進んだ。

医学部に入って三年目、解剖実習が始まった。
白衣を着て、手袋をはめ、まな板のように横たわる人体を前に立つ。
同級生たちは黙々とメスを手に取り、作業に入っていく。
その背中には、迷いも躊躇もなかった。
俺は──動けなかった。
解剖があるのは知ってはいた。
だけど、
目の前にあるのが、
かつての誰かであることを、どうしても無視できな かった。
震えが止まらなかった。

正直気分が悪くなった。
この状況は嫌だ。
何で医者になろうと思ったんだ。
ここを突破しないと……。
──嘔吐してしまった。
──ああ、やっぱり、俺には無理だ。
俺は実習中抜け出し、いつものベンチに向かった。
何だこのパニックは。
体の拒絶。
そして、キャンパスのベンチにひとり座っていた。
なぜこうなった。
なぜ逃げた。
俺は自分を責めていた。
手に持っていた教科書が足元に落ちていたことすら気づいていなかった。
「はい、あなたの教科書落ちてたわよ。......大丈夫? 顔色、悪いけど」

自分のことでいっぱいだった俺は
声をかけてくれた人に、まともに返事ができなかった。
明るく気さくな声。
気取らない口調。
学科のクラスで一緒だった人。
挨拶くらいはしたことがある。
顔は知ってた。

でも、この時の事は不思議とあたたかくて、
ずっと胸の奥に残っている。
──俺は医者になるべき人間ではない。
そう思ってしまったのは、たぶんこの時だった。
そして医学部を中退した。
医療から離れた日々は、どこか現実味が薄かった。
職を変えながらも、淡々と生きる毎日。
かつて抱いた志は、少しずつ霞んでいった。
それでも、なんとか普通に生活はできていた。

ある日、祖母に頼まれてた買い物を済ませ、帰宅した。
祖母が「胸が痛い」と言い出した。
冷や汗。
呼吸が早い。
小さな声で胸の痛みを訴える。
──これは、まずい。
場所が悪い。あの血管だ。
大学時代に学んだ記憶がざわりと蘇る。
大動脈解離の可能性。
俺はすぐに救急車を呼んだ。

冷静になれ。
冷静になれ。
震える手で、必死に状況を伝える。
その間、家にあった血圧計を持ってきた。
くそ……測るまでもない。
症状が、すでに緊急事態だ。
俺はパニックになっていた。
遠くからサイレンの音が聞こえてくるまでの数分が、
やけに長く感じた。
担架で運ばれ、救急車にのる。

救急隊の慌ただしい声が飛び交う
「もっと早く!」
「まだ決まらないのか!」
祖母は一瞬俺を見た。
──だが。
間に合わなかった。
病院に着く前に、祖母の心臓は止まっていた。
それが現実だった。
別れは、あまりにも突然だった。
葬儀には、滅多に顔を見せない親戚たちも駆けつけてくれた。
言葉をかけられ、肩を叩かれ、励ましの声をかけられた。

でも、俺はどこか他人事のように穏やかに応じていた。
悲しみや痛みは、心の奥に沈めたまま。
その癖は、いつのまにか染みついていた。
けれど、それは現実を遠ざける代償だった。
祖母は、親同然の存在だった。
たった一人の。
帰る家に、誰もいない。
そこには、寂しさとは違う“空白”だけが残っていた。

■ 第七章『アズリとラーメンと五分の命』
─ 公園のベンチ
「成瀬くん、みつけた」
あまりにも明るい声が耳に届き、俺はふと前方を見た。
──星野さん。

「…………あ、どうも」
「ずっと手を降ってたのに無視して、なんなの?」
「気が付かなかった」
「もう」
「たまたまこのへん通ったら、成瀬くんいたから……」
「たまたま……だったんですか?」

一瞬、言葉が詰まる。
「同僚が心配して何が悪いの!? 探したのよ!」
その言葉に、少しだけ気まずさを感じた。
人と関わらなければ、傷つくこともない。
俺は立ち上がり、歩き出した。

「待ってよ!」
背後から声が飛ぶ。
「話、させて」
俺は一瞬だけ迷い、
それでも、立ち止まった。
「……はい」
─ ラーメンと笑い
俺は気持ちを整理しながら、しばらく歩いた。
星野さんは、何も言わずに後ろをついて来た。
無言の時間が続いた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
そして、自然に言葉がこぼれ落ちた。
「なんか……どうでもよくなったんだ。
くよくよしてた事も、何もかも……」

星野さんは黙って聞いていた。
気がつけば、バイトのこと、祖母のこと。
思いつくままに話していた。
星野さんは何か言おうとするが、直ぐに口を閉じる。
気がつくとラーメン屋の前にいた。
「ラーメンか……」
「ラーメン……」
星野さんが目を丸くした。

「ん? 嫌い?」
「別に……ラーメン最高じゃん」
星野さんは小声で言った。
「メンマにラーメンの真理があるって、昔から言ってたし」
「……絶対言ってないでしょ」
「言ってたし」
「てか、何でメンマ!」

気づけば、隣に並んでいた。
そのまま並んで、のれんをくぐった。
白い湯気。すする音。
「……やっぱ、にぼし背脂醤油だな」
「へえ、意外。こってり豚骨とかいきそうなのに」
星野さんがくすっと笑う。
「……ラーメン、好きなのね」
「まあね……」
照れ笑い。

湯気立つラーメンが二人の前に置かれると、
自然と視線がラーメンに集中する。
スープを一口。「……うまっ」
俺は思わず声を漏らした。
星野さんを思わず見た。
「ん?」

視線が合う。
「ラーメン好きなんですね」
「ま、まあね……」
星野さんは照れ笑いを浮かべてた。
──そのとき。
「ねえ、成瀬くん! 大学のとき、いつも同じベンチにいたでしょ!!」

「なっ、え? 同じ大学?」
同じ学科じゃない。
あ、でもいたかもしれない。
1、2年の頃の基礎科目か。
どのクラスだ。
─ 緊急事態と心肺蘇生
──そのときだった。
「誰か……助けてぇえええ!!」
悲鳴のような女の声が、ガラス越しに飛び込んできた。

ラーメンの湯気が、急に冷たく感じる。
店内の客たちが一斉に顔を上げた。
俺は立ち上がる。
考えるより先に、身体が動いていた。
「星野さん!」
横を見る。
星野さんはすでに立ち上がっていた。
「行くわよ!!」

その目は、もう現場のものだった。
外へ出ると、商店街の中央に人だかりができていた。
母親が子どもを抱きかかえ、泣き叫んでいる。
その足元には──スーツ姿の男性が倒れていた。
人々は、ただ立ち尽くしている。
星野アズリがIDを掲げ、声を上げた。

「看護師です! 状況を確認します!」
子どもは泣きじゃくり、
妻と思われる女性は震えながら子を抱き寄せ、何もできずにいた。
「成瀬くん、男性に呼びかけて!」
「はい!」
「誰か! AEDを至急持ってきてください!」
「奥様ですか? 倒れたときの状況を教えてください!」

呼吸してない……。
ルキアは首筋に指を当てた。
一秒、二秒。
指先に、何も返ってこない。
「……脈、触れません」
誰かが救急車を呼んだことを告げる。
「今やらなきゃ、生存率が下がる!」
──迷いがない。
「心肺蘇生を開始します! 成瀬くん、吹き込んで!」
「……え?」
あのときと同じだ……
──美羽のとき。
何もできなかった。
だが今、目の前で命が消えようとしている。
「講習、受けてるんでしょ!!」

「……はい!」
「 気道確保!」
顎を上げる。
口を覆う。
人工呼吸。
胸骨圧迫。
「1、2、3、4、5──はい!」
「っ……!」
吹き込む。

繰り返し繰り返しが、不安と緊張のループ。
これで上手くいく確証がない。
それでもやらなくちゃいけないのが俺たちなのか。
体の動作とは別に頭にネガティブな言葉を並べてしまう。
時間が、やけに長く感じる。
──そのとき。
男の喉が、わずかに震えた。
激しく咳き込み、呼吸が戻る。
「気道確保します!」
男性を回復対位にさせた。
周囲の人から上着を借り、男性に何枚もかけた。
目は開かない。
救急車早く来い!
俺は遠くを見ながら心で叫んでいた。

直後、救急車のサイレンが近づいてきた。
「……助かった」
誰かの声が、震える。
─ 奇跡の拍手
星野さんは、救急隊員へ手際よく引き継ぎをしていた。
──これが、俺の知ってる星野アズリ。

慌ただしく救急車が走り去った。
誰かがふと手を叩いた。
それが合図のように広がっていった。
「すごい……」
「助かったんだ……」
「マジかよ……」
拍手が波のように広がった。
星野さんが近づいてきた。
「……いこ」
そう言って、俺の手を取った。

俺達はしばらく黙って歩いた。
気がつけば空は夕暮れになっていた。
何か喋りかけようとするが言葉にならない。
ゆっくりと、小さな声で星野さんは言った。
「……見つけた」
わずかな沈黙が、鼓動を早める。

星野さんは柔らかに、少しかすれた声で言った。
「もう……どこにも行かないで」
俺は何かに気がついた。
つないでいた手が静かに離れた。
この、言葉に詰まる感覚は何なんだ。
俺は……。
星野さんは俺に視線を合わせ、微笑んだ。

「ひょっとして……あの時、教科書拾ってくれたの……」
「私よ。あの時……足もとに落ちてた、医学概論」

「……じゃあ……」
「うん。ずっと知ってた」
……知ってたのか。
「ひょっとしてだけど……SNSも、星野さん?」
少し沈黙があった。
そして、静かにかすれた声で答えた。
「やっと、気づいてくれた?」
星野さんは顔を赤くしながら、照れ隠しのように頬をあおいだ。
「……あのときの言葉が、私をここまで連れてきてくれたんだから」

わずかな時間が、やけに長く感じた。
ずっと……。
俺がずっとずっと前から会いたかった人。
俺は気づかなかったけど、
大学の時も、医療現場でも、ずっと俺のそばにいた。
星野アズリ。
今、目の前にいる。
俺は息を吐くように言った。
「うさまる……みつけた」
星野アズリの目が広がり揺れた。
今度は、俺から手を握る。

空はすっかり茜色に染まっていた。
街灯が、少しずつ灯っていく。
言葉はもう必要なかった。
美しい景色に溶け込むように、俺達の時間は止まった。
■ 第八章『天国に咲くガーベラ』
─ 見えない兆候
「カウンセリング、順調?」
「……まあ」
アズリが気にかけてくれるのは嫌じゃなかった。
体調不良を伝えた、その日のうちに血液検査を受けた。
数日後。
内科医に呼ばれた。
血液検査結果の紙を渡され言われた。
「血液内科に紹介します。精密検査を受けてください。」

それだけで、十分だった。
軽作業への変更。
拒否する理由も、もうなかった。

俺はいつもの帰り道を歩いていた。
気づけば、足はあの公園に向かっていた。
あのベンチ。
俺は静かに腰を下ろし、
遠くを眺めるようにして心を沈めたとき。
隣に誰かが座った気配がした。
ゆっくり視線を向けてみた。
スーツ姿の猫が、そこにいた。

「猫……」
「……私は君たちが言うところの死神だ」
低い声が頭に響いた。
「……お前、死神なのか」
色々なことが頭に駆け巡る。
猫は、わずかに口元を歪めた。
笑っているようにも見える。
だが、その瞳を見た瞬間、背中が寒くなった。

「……少し人生が変わったようだね」
胸の奥がざわつく。
「っていうか、まったく意味がわからない」
俺は反抗した。
死神は低い声で言った。
「お前が、いくらあがいても運命は変えられない」
「ただ」
死神は言葉を躊躇した。
「ただ、なんなんだ!?」
死神は表情を変えず言った
「ただ今じゃないだけだ」
俺は叫んだ「ニ度と来なくていい!お願いだから来るな!」
──その瞬間。
世界が、音もなく沈んだ。
……気がつくと、ベッドの上だった。
さっきまでの光景が断片的に残っている。
ベンチ。
猫。
あの声。
……どうやって帰ってきた。

「おはよう、ルキア」
いつもの声。
「はい、コーヒー」
コーヒー……。
「ルキア、体調悪いの?」
覗き込まれて俺は少しだけ視線を逸らした。
「……なんでもない、最近よく寝れないだけだよ」
アズリは、静かに微笑んだ。
「無理はしないでね、なんでも私に言って」
「わかったよ、ありがとう」

目は合わせなかった。
それでも、アズリの暖かさには助けられた。
鼻の奥に、かすかな違和感。
ふと、息が重くなる。
……なんでもない。
そう思って、やり過ごしたかった。
このまま、どこまでやれるんだ。

─ ギフト
──ある雨の午後。
ナースステーションに、珍しく相馬課長の姿があった。
「ルキア、心配したぞ」
……相馬さん。
タイミング悪いな。
いや、ありがたいのか。
差し出された缶コーヒー。
「……ご心配おかけしました」
それ以上は、続かなかった。

「生きてりゃ色々あるからな。
良いこともあれば……そりゃ辛い時もあるさ」
相馬さんは窓の外を見ながら言った。
「よく時間が解決してくれるって言うけどさ。ルキアはどう思う?」
……踏み込んできた。
それだけ、心配させたんだろうけど。
「時間って……よくわからないです」
「自分がちゃんとできてるのか」
「無駄に生きてるんじゃないかって……つい、思ってしまう」
相馬さんはいつもの笑みを受けべながら言った。
「俺はな、ここの清掃員になる前は外壁職人だったんだ」
「職人?」
「ああ。若い頃、この病院の外壁工事に入ったことがある」
相馬さんは、自分の胸元に手を当てた。
「足場が崩れてな。落ちる途中で、鉄パイプにここを思いきり打った」

「後で聞いたよ。心臓震盪ってやつで、一度、心臓が止まったらしい」
心臓震盪(しんとう)。
一瞬で心臓が止まることもある。
怖いやつだ。
「その時、引き戻してくれた人がいた」
相馬さんは、俺を見た。
「香澄さんだ」

ほとんど覚えていない母が、誰かの命を救っていた。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
相馬さんは、穏やかに笑った
「ルキア……時間ってギフトだぞ」
そして相馬さんはそう言って去っていった。
……ギフト。
その言葉は俺には妙に重く、俺の心は揺れ動かされた。
─ 因縁の事故
視界の端を、黒い影が走り抜けた。

……何?
思わず顔を上げる。
だが、誰も反応していない。
……見間違いか。
そのまま視線を落とす。
──次の瞬間。
ナースステーションに、コール音が響いた。

「星野さん、救急から搬送連絡です。状態、重めです」
アズリがすぐ顔を上げる。
「内容は?」
「家族3人。車の正面衝突。女性が※CPA、男性が頭部損傷で意識なし。子どもは軽症。あと十分で到着です」
その言葉で、空気が変わる。
アズリの目が、わずかに鋭くなる。
近くにいた医師が立ち上がった。
「星野くん、先に第一処置室に行くぞ」
「はい」
看護師たちが一斉に動き出す。

酸素ライン・挿管セット。
「成瀬君、小児ベッドは第3処置室に確保して。できる?」
……来た。
指先が、わずかに震える。
それでも。
「……はい」
アズリはすぐに内線を取った。
「こちら病棟ナースステーション、コードブルー要請です。
処置室へ、心肺停止の患者搬送予定。あと五分」
受話器を置く。
振り返らない。
そのまま、第2処置室へ向かう。
──空気が変わる。
……なんだ、この感じ。
胸の奥が、ざわつく。
……来る。
※CPA:心肺停止(Cardiopulmonary Arrest)の略
2台の救急車が、ERの入口に滑り込んだ。
外は、雨だった。
ドアが開く。
ストレッチャーが、次々と運び込まれる。
男性。

そして──女性。
「CPAです!」
声が飛ぶ。
そのまま、処置室へと押し込まれていく。

……最後に。
小さな影が、視界に入った。
幼い少女。
車椅子に乗せられ、看護師に付き添われている。
医師たちは、情報を受け取りながら動き続ける。
ストレッチャーと救急スタッフが行き交う中──
その一角だけが、静かだった。
少女が、車椅子に座っている。
髪は濡れ、左腕に強く打った跡。
膝には擦り傷。

──美羽……?

そう見えた。
動けない。
視線だけが、そこに残る。
頬に、涙の跡。
まだ乾いていない。
目が合う。
逸らせなかった。

「第3処置室です」
そう伝える。
視界の端に、少女の目が入る。

「俺も、すぐ行きます!」
──その瞬間。
雨。
衝撃。
赤い光。
断片が、脳裏を走る。

手が、震えた。
……なんだよ、これ。
処置室の向こうから、電子音が響く。
一定のリズム。
何度も、何度も。
少女が、びくっと肩を震わせた。

「お母さんが……」
「……おかあさん……」
少女は、それだけを繰り返していた。
……わかってる。
言わなきゃいけない。
でも──
言葉が、出ない。

──そのとき。
「……っ」
若い看護師が、声を漏らし、
次の瞬間、涙がこぼれた。
……馬鹿……
娘さんが……ここにいるんだぞ……
喉の奥で、何かが軋む。
医者を諦めた。
看護助手だ。

それでも──
ここで、止まるわけにはいかない。
俺は歯を食いしばった。
ぎり、と音がした。
─ ルキアの願い
「肩書で人を助けられないなら──」
視界の奥で、何かが揺れた。
──美羽。
「……俺は」
言葉を、飲み込む。
名札を、折り曲げた。

震えは、止まっていた。
気づけば、足は処置室へ向かっていた。
懸命な処置が一瞬途切れた。
「電気じゃ戻せない」
医師の声が響いた瞬間、
病室の空気が重くなった。
その時女性の右手の小指が、かすかに動いた。
「今、小指、動きました!」
ルキアの声は、いつもより張っていた。

「心マ、入ります」
「できるのか」
問い返す声に、迷いはなかった。
迷っている時間もなかった。
もし、これが心臓震盪なら、まだ終わりじゃない
「できます」
両手を、胸に当てる。
叩き込む。
一回。
二回。
三回。
「ルキア……」
アズリの声が震える。
周囲が、止まる。
それでも、止めない。
押す。
叩き込む。
もう一度。

気づけば、周囲の音が消えていた。
人の気配が、消える。
処置室は、闇に沈んでいた。
その中央に──
シャロンがいた。
じっと、こちらを見ている。
瞳が、金色に光る。

「……お前が、クソ死神か!」
「俺の代わりにこの人を助けろ!」
一瞬の静寂。

医者になれなかった……。
失われていくものを……
引き止められなかった……。
それでも……
俺は……
誰かを助けたい……。
今この手で、届く命があるなら……。
その時シャロンの瞳が、強く輝いた。
──暗闇が、裂けた。
「……脈、戻りました!」

戻った脈は、まだ弱い。
消えかけたまま、繋がっている。
医師が、顔を落とす。
「……ここからが勝負だ」

視界が、白く滲む。
音が、遠ざかっていく。
……ああ。
アズリの声がする。
何かを、必死に呼んでいる。
……あたたかい。
身体が、傾く。

「ルキア!!」
強く引き寄せられる感覚。
その時。
「カラーン」
床に落ちたのは、あのキーホルダーだった。

─ 告げられた峠
別室のベッドでルキアの検査が行われていた。
目は、開かない。
呼吸は浅く、かすかに上下している。

電子音だけが、響いていた。
……ピッ。
……ピッ。
「ルキア……」
アズリの声が、何度も繰り返される。
返事はない。
指先ひとつ、動かない。
それでも、呼び続ける。
「……ルキア」
声だけが、残る。
──やがて。
音が、遠ざかっていく。
アズリの声も。
周囲の気配も。
すべてが、薄れていく。
白く。
何もない場所へ。
臨床検査室
モニターに映る血液データ。
「……これ、成瀬さんのだよな」
技師の一人が、画面を見たまま手を止めた。
「白血球、前よりかなり増えてる。血小板も落ちてる」
受話器を取った。
「……こちら検査室です。成瀬さんの採血結果を至急ご確認ください」

──数分後。
ドアが開き、静かな足音がした。
白衣の裾がわずかに揺れ、
無言のまま顕微鏡を覗く。
……長い沈黙。
やがて、低く息を吐いた。

「……急性だな」
「すぐに、担当医と連携を」
─ 訪れる人たち

夕方の病棟。
「……星野さん」
背後から声が届いた。
院長だった。
アズリは立ち上がり、一礼した。
「検査値は、すべて確認しました」
落ち着いた声だった。
「白血球は六万を超えています。血小板は、一万を切っています。ヘモグロビンも、かなり低い」
紙をめくる音がした。

「成瀬さんは以前、血液内科で精密検査を受けています。その時点では、治療に入る段階ではありませんでした」
わずかな沈黙。
「ですが……かなり無理をしていたのでしょう。
その間に、進行した可能性があります」
「このままでは──」
言葉が、そこで止まった。
「……今晩が、峠です」

アズリは、動けなかった。
院長は何も言わず、ただ一度ゆっくりと頷く。
わずかな間。
「そんな……」
さらに静かな間。
「検査のこと……何も……」
アズリの頬を涙が伝った。
院長は言葉を選ぶように続けた。
「私たちにできるのは──穏やかに見守ることだけです」

──夜の静けさが、病棟を包みはじめていた。
ナースステーションでは、誰もが声を落としていた。
ときおり、視線だけが307号室へ向く。
──あの部屋。
アズリは、ルキアの手を握ったまま離さない。
──コンコン。
控えめなノック。
ドアが、わずかに開き、相馬課長が顔をのぞかせた。
「……ルキア」
それ以上は言わない。
静かに、腰を下ろした。

──しばらくして。再び、ドアが開く。
看護師長だった。ルキアを見つめる。
「……なんで」
その一言を言うと、表情が崩れ涙があふれた。
両手で顔を覆い、それ以上は言葉にならなかった。

そして、外科医、病院長。気がつけば、ルキアのベッドの周りには、関わってきた人々が集まっていた。
悲しみを胸に、誰も何も言わない。
ただ、静かにルキアを囲んでいた。

─一筋の涙
「……ルキア」
声が、静かに落ちる。
「ほんとは……最初から知ってたんだ」
彼の頬に、そっと手を添える。
「あなたが、どこの誰なのか」

わずかな沈黙。
「SNSで夢を語ってくれてた時から……」
「ずっと、会いたかった」
指先に触れる肌は、冷たくなりかけていた。
「同じ大学に行けば、きっと会えるって……信じてた」
「見て、すぐわかった……ルキアだって」
言葉が、途切れる。
「でも……話しかけられなくて」
「気づいたら、いなくなってて……」

涙が落ちる。
止まらない。
「伝えたかった……」

「見つけてくれて……ありがとう」
手を握る。
──そのとき。
ルキアの瞼が、わずかに震えた。
一筋の涙が、こぼれた。

─ ガーベラの少女
「おかえり、ルキア」
隣から、声がする。
ベンチに腰を下ろしたまま、前を向く。
しばらくの沈黙。
そして、わずかに笑った。

ルキアは空を見上げた。
──半年後。
柔らかな風が、公園の木々を揺らしていた。
車椅子に乗った女性。
ゆっくり歩幅を合わせる男性。
そして、その前を少女が歩いていた。
花壇には、色とりどりのガーベラが咲いていた。

少女は、足を止め、ベンチにそっと花を置いた。

病院の出口を出て、アズリは足を止めた。
振り返り、ほんの一瞬だけ見つめた。
そして、前を向き静かに歩き出した。
─完

