文明とは?「最古」の都市ウルクから考える・後編
5.「文明によって人間は幸福になったのか」という問い
ルソーによれば「人類を堕落させたのは鉄と小麦」
「文明によって人間は幸福になったのか?」という問いかけが、たまになされます。ギルガメッシュ叙事詩では、パンを食べビールを飲む文明生活を推奨していますが、それが人間にとって本当に幸せなのか?
1700年代のフランスで活躍した思想家ルソー(1712~1778)は、この問題に関わる古典的な考察を残した1人です。
ルソーは、『人間不平等起源論』(1755)で、「文明以前の自然状態の人間は平等だったが、文明や国家の発達にともなって不平等が拡大し、さまざまな苦痛が大きくなってしまった。とくに、暴虐な専制的国家のもとではそうなってしまう」というストーリーを語っています(「専制的」とは、政治学的な用語で独裁的ということ)。
ただし、ルソーは「これはあくまで仮説的なストーリーであり、史実かどうかはわからない」とあらかじめ断っています。また、「自然状態に帰れ」とは断言していません。彼は文明を全面的に否定するのではなく、文明社会が生んだ究極の不平等社会である専制国家を批判したのです。
なお、ここでは、ルソーの思想の全体的な主旨がどうだったかではなく、ルソーの思想のひとつの側面――「文明批判」的な側面を取り出して問題とします。
つまり、「文明によって人類は、文明以前よりも不幸になったのではないか」という主張です。
ルソーに直接・間接に影響を受けた人びとの多くは、その思想に「自然状態に帰れ」的な強いメッセージを感じて、惹かれたのでした。
また、ルソー自身も、最初のうちは人類の「自然状態」は仮説的な「憶測」だと述べていますが、その「憶測」について展開するにつれ、確信に満ちたトーンで語るようになっていきます。
この記事の前編でこれまで述べてきた農耕の開始などの技術革新について、ルソーはこう述べています。
《冶金と農業とは、その発明によってこの大きな革命〔農耕の開始や都市の成立にあたる変革〕を生み出した2つの技術であった。人間を文明化し、人類を堕落させたものは、詩人からみれば金と銀であるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである》
「人類を堕落させたのは鉄と小麦」――これは、ルソーによる文明批判の名文句といっていいでしょう。
ルソー的な「文明批判」の現代版・『サピエンス全史』
ルソー的な文明批判の思想は、さまざまなかたちでくりかえしあらわれ、現在も一定の力を持っています。
たとえば、「一般的な狩猟採集民の栄養や健康の状態はかなり良かったが、農耕中心の生活では、労働はきつくなったのに、多くの人びとの栄養状態は悪くなった」という主張があります。ルソーも『人間不平等起源論』で、「自然状態の人間の健康状態は良好で、ほとんど薬も医者も必要なかった」という主旨のことを述べています。
ベストセラーのユアル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上・下)』(柴田裕之訳、早川書房、2016年)には、ルソーと共通する見解に立つ箇所があります。「農業革命(農耕の開始)は詐欺だった」という印象的なフレーズがあるのです。
《人類は農業革命によって、手に入る食料の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は史上最大の詐欺だったのだ》
これは、「鉄と小麦が人類を堕落させた」というルソーの主張の現代版といえるでしょう。
そして、農耕の暮らしが多大な苦痛をもたらすようになっても、人びとはそれに慣れきって後戻りできない状態になっていたので、農業は放棄されることなく存続した。さらに、どんどん深みにはまっていった結果、文明が発展して今日に至っている、というわけです。
『サピエンス全史』では、《贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる》と述べています。贅沢品とは、文明のさまざまな産物です。そして、現代文明の家電や情報機器などを例にあげています。農業が詐欺ということは、文明は詐欺ということなのでしょう。
たしかに、一度靴をはく暮らしに慣れたら、もう裸足には戻れません。
また、初期の農耕社会の多くの人びとが、一般的な狩猟採集民よりも食物の多様性が乏しく、栄養的に劣った食生活をしていたということについても、一定の学問的な証拠があります(たとえば、マーク・N・コーエン『健康と文明の人類史』中元藤茂・戸澤由美子訳、人文書院、1994年)。
つまり、狩猟採集生活と比較した農耕生活のデメリットについては、先行する説や主張があり、『サピエンス全史』はそれをふまえているのです。
そして、農耕が発展した結果生まれた都市文明にも、人びとに苦痛をもたらす面があったことはたしかです。たとえば、ウルクのような過密な都市での暮らしが、衛生面などでさまざまな問題を生み、健康に悪影響をもたらしたということはありました。都市における衛生の問題は、都市文明以後の人類の歴史において深刻で普遍的な問題でした。
「都市は異常」とする「アンチ都市」の見解
たしかに、農耕や都市などの文明を構成する要素にはデメリットや副作用があります。自動車を使えば交通事故が起きます。国家という文明の要素についても、搾取や抑圧といった国家による害悪は、しばしば批判されてきました。
文字にも副作用があります。たとえば古代ギリシアの哲学者プラトン(前428~347)は、著書『パイドロス』のなかで、ソクラテスの語りを通して「文字を使うようになって、人間は自分の内側から思い出す精神の働きが衰えた」ということを述べているのです(『角川世界史辞典』2001年、田中克彦による「文字」の項)。
そして、大勢が密集して暮らす都市の最大の副作用は、先ほども述べたように健康や衛生の問題です。具体的には、感染症の被害ということです。
世の中には、「都市はそもそも異常」とする主張もあります。 文明に伴うデメリットを重視する「反文明」のなかで、とくに都市文明への反発は根強いです。
ほんの一例ですが、日本経済新聞(基本的には経済成長・開発志向)の論説でも、コロナ禍で都市が「非常事態」になっていた頃に、現代の都市化に根本的な疑問を投げかけていました。
つまり、《今や世界人口78億人のうち40憶人以上が都市に住む》が、《都市への集中による経済発展のモデルが揺らいでいる》というのです(日本経済新聞、2020年9月12日の特集記事「パクスなき世界」第6回「新たな〈都市像〉を描けるか」)。
そして、その根拠のひとつとして、2019年に中国の大都市・武漢で発生した新型コロナウイルスが世界の大都市を襲ったこと、中世のペストなどの歴史上の感染症が都市の発達と結びついていたことをあげています。コロナ禍では、「都市」はいろいろと非難にさらされました。
また、この記事では、人類学者・長谷川真理子氏が現代の都市化を《人類史上の異常な状態》と述べているのを引用し、さらに《規模と効率を追求した都市の存在意義が問われている》とも述べています。
この記事のベースには、「都市は、人間の本来の姿からは逸脱した異常なあり方だ」という価値観があります。いわば「アンチ都市」ということです。
6.脆弱性や問題を抱えながらも都市文明は持続した
初期の都市文明の脆弱性
しかし、文明や都市にいろんな問題があるからといって、「文明は詐欺」「都市は異常」というのは、やはり飛躍した話ではないでしょうか。
こうした主張は、多くは文明の問題への真摯な想いから出たものですが、文学的表現としてはともかく、現実を理解するための学問としては不適切だと、私は思います。
詐欺では、たとえばマルチ商法のような(一見魅力的な)偽のビジネスに人をひき寄せ、金集めをします。「偽のビジネス」とは、真の顧客や収益源が存在しないということです。
しかし、そのような偽のビジネスは比較的短期間のうちに破たんしてしまうものです。
だがもしも、そのスキーム(枠組み)が何十年も存続して加入者を増やしていったとしたら、それは正当な「ビジネス」だったということになるでしょう。たとえば成功したフランチャイズチェーンや投資ファンドは、そのようなものです。
ウルクを起点とする都市文明も、(あとで具体的に述べるように)千年単位の長期にわたって崩壊することなく存続しました。このスキームでは、ビールやパン、そのほかの快適さや娯楽、身の安全といったメリットで多くの人びとを都市にひき寄せました。
そして、さきほど引用した『サピエンス全史』の一節でいう「飽食のエリート」が権力者や専門家として都市をコントロールする体制が生まれたのです。都市はますます巨大化し、シュメル人のウルク以外にもメソポタミアだけでも十指に余る数の大規模な都市ができていきました。
しかし、一方で、文明の始まりの時代のメソポタミアの都市ではすでに、急激で多大な被害をもたらす感染症(麻疹や天然痘のような)の蔓延があったとみられます。
たとえば、この記事の前編で「パンとビール」の話のなかで引用したシュメルの文学『ギルガメッシュ叙事詩』には、疫病神の到来(感染症の流行)が「大洪水よりまし」な災厄(“オオカミ”“ライオン”による殺戮、飢饉、疫病、戦争)の1つとして挙げられています。シュメルの都市で何らかの疫病がくりかえされていたことを伺わせる記述です。また、疫病以外にも外敵、飢饉、戦争など、都市を脅かすいくつもの災いがあったということです(山本太郎『感染症と文明』岩波新書、2011年)。
メソポタミアなどにおける初期の都市文明の限界や脆弱性を強調した現代の著作として、ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(立木勝訳、みすず書房、2019年)があります。現代の考古学や歴史学のさまざまな研究をふまえた、政治学者・人類学者である著者による本です。
スコットは、次のように述べています。
《〔初期の都市国家は〕さまざまな形態での束縛〔奴隷狩り、戦争での捕虜など〕によって人口を捕獲し、縛りつけておかなければならならず、しかも群衆による伝染病に悩まされていた》
《〔初期の〕国家というものは、……臣民を取り込むだけでなく、吐き出してきた》
つまり、都市文明の成立は「輝かしい人類の進歩」として語られることが多いが、現実には都市文明にはさまざまなデメリット・問題があり、そのために都市から逃げ出す人びとも多かったのだと。
そして、スコットによれば《〔都市からの〕逃亡の原因は途方もなく多様》であり、《伝染病、凶作、洪水、土壌の塩類化、課税、戦争、徴兵など、すべてが着実な漏出の原因》になったというのです。
都市文明の持続・「詐欺」「異常」ではない
しかし、それでも、5000~4000年前のメソポタミアの都市には、多くの人が集まってきました。都市から逃れる人もいましたが、全体としては都市というスキームに参加する人びとの数は増えていったのです。
紀元前2900~2700年(4900~4700年前、考古学者が「初期王朝時代第Ⅰ期」と呼ぶ時期)に、メソポタミアの文明は、都市化率のピークを迎えます。
その頃、いくつもの都市が生まれたメソポタミアの南部では、人口の8割ほどが人口数千人以上の、当時としては大規模な都市に集中していました。これは正確にいうと、「この地域の遺跡調査で明らかな全居住面積の8割弱を、面積が40ヘクタール以上の集落(当時としては都市と言える規模)が占めている」ということです(中田前掲書、以下の数字含む)。
ただし、このような都市人口の占める割合=都市化率は、上記から数百年以上経った4000年前頃~3000数百年前のメソポタミアでは5割程度に下がっていきます(考古学でいう「アッカド王朝」から「古バビロニア」の時代)。
それでも、先ほどの日経新聞の記事にもあったように、2020年現在の世界全体の都市化率は50%ほどですから、かなり高い率です。また、後でみるように、1890年のイギリスは当時の主要国で最も都市化が進んでいましたが、都市化率は30%でした。
なお、このようなメソポタミアの都市化に関するデータには、それなりの誤差があるでしょう(とくに都市以外の居住地の遺跡が未発見でカウントされていない可能性はある)。しかし、文明の始まりの時代、その中心のメソポタミアで、相当に高い都市化率が千数百年は続いたことは伺えます。それだけ長く持続した状態は、「詐欺」「異常」とはいえないはずです。
「急激な都市化」から文明の歴史は始まり、それは千年単位の長期にわたって持続しました。このような事実から、私には「文明や都市は人間にとって根本的・普遍的なものだ」と思えるのですが、どうでしょうか?
そして、疫病については、それが大きな被害もたらしたとしても、それで都市文明そのものが滅びることはありませんでした。
感染症学者・山本太郎氏によれば、それは、麻疹や天然痘のような《急性感染症を保有する社会は、その流行によって一定程度の人口が恒常的に失われる》が、《生き残った人びとは免疫を獲得》するということがありました。だから、深刻ではあっても「(文明のすべてを破壊する)大洪水よりまし」ということなのでしょう(山本前掲書)。
結局、都市文明の行きつく先は破たんや崩壊などではありませんでした。個々の都市の興亡ということはありましたが、都市を核とするメソポタミアの文明は、ウルク以来3000年もの間、連続性を保ったまま持続しました。
ウルクにかぎってみても、少なくとも2000年ほどの間(紀元前1500年頃まで)は、メソポタミアの主要都市のひとつであり続けています。
ウルクが完全に消滅するのは、西暦200年代にイランやメソポタミアを支配するようになったササン朝ペルシアの時代のことです。その直前の、パルティア王国がメソポタミアを支配していた時代にはウルクはまだ存在し、そこに(すでに一般には使われなくなっていた)楔型文字を学ぶ書記の学校もあったのです。
文明の始まりの時代に生まれたメソポタミアの都市は、最後には消えてしまいました。しかし、それは詐欺的なものが破たんしたのではなく、100年単位で続いた老舗企業が時間をかけて衰退し、倒産あるいは廃業したようなものでしょう。
たしかに、農耕の開始から都市文明の成立・発展の歴史を「輝かしい進歩」とだけみるのは一面的です。初期の文明の脆弱性・デメリットに目を向けることは、歴史の事実を知るうえでは欠かせません。
しかし、いかに問題だらけであっても、都市文明そのものは崩壊することなく、持続・発展していったのです。このことは大前提として忘れてはならないはずです。
7.ウルク以後・都市文明の到達点
100万人都市ローマという到達点
ウルクやその他のメソポタミアの都市が衰退・滅亡したあとは、その伝統を受け継ぐさまざまな文明が展開していきました。ギリシア、ローマや、その他の地域で都市文明は発展していったのです。ここでは立ち入りませんが、ローマに影響をあたえた古代ギリシアの文明は、メソポタミアなどの西アジアの文明に影響を受けています。
都市の発展の重要な到達点として、ローマ帝国の首都ローマ市があります。ローマの人口は、西暦100年頃には人口100万規模に達しました。文明の初期におけるメソポタミアの最大級の都市よりも1ケタ大きな都市です。
大国の首都として巨大化して以後のローマの市街地の面積(都市壁の内側)は、1400ヘクタールほどです。これは、 ウルクの最盛期(600ヘクタール)の2~3倍ですが、ローマ市の住民の大多数は3~5階建ての集合住宅に住み、人口密度はきわめて高かったのです。また、城壁の外側にもある程度都市は広がっていました(長谷川岳男・樋脇博敏『古代ローマを知る事典』東京堂出版、2004年など)。
このような都市は、ウルクの時代よりも大幅に発達したハードや運営の技術のたまものです。
なかでも水道は、古代のローマ市を象徴する設備です。ウルクでは(前に述べたように川の水質に問題があったので)おもに井戸水を飲んでいましたが、ローマ市では大規模な水道が整備され、下水道も相当に発達しました。ただし、こうした水道は、ローマ以前にも古代ギリシア人などによる先行事例があります。
ローマ市の水道は西暦200年代の完成形の状態では11本が設置されていました。当時、郊外の水源と市街を結ぶ、地下水路や水道橋による幹線の総延長は、500キロメートルにおよびました。
市内ではおもに地下に水道網がはりめぐらされ、西暦100年頃の状況では、1日に1人あたり1000リットルもの水が供給されています。なお、2000年代初頭の東京都民1人あたりの水使用量は1日に200数十リットルです。
そして、この水道施設のメンテナンスを、水道長官が率いる700人余りの専従スタッフが行っていました。
ただし、富裕層を除いて各家庭用の水道はなく、たえず水が流れる無料の水汲み場が、300年代には市内に1300か所ほど設置されていました(ローマの水道については、中川良隆『水道が語る古代ローマ繁栄史』鹿島出版会、2009年、樋脇博敏『古代ローマ生活誌』NHK出版、2005年などによる)。
また、大量の穀物などの物資を穀倉地帯のエジプト、シチリアなどの属州から調達する物流のシステムが構築されました。1000トン規模の輸送船、その船も入れるローマ市に近い港や、大量の物資をおさめる巨大倉庫も建設されています。食糧倉庫の重要性は、ウバイド文化やウルクの時代から変わりません(青柳正親『皇帝たちの都ローマ』中公新書、1992年、J・G・ランデルス『古代のエンジニアリング』久納孝彦監訳、宮城孝仁訳、地人書館、1995年)。
そして、市街地にはいくつもの神殿、凱旋門、巨大浴場、公会堂などの公共建築がありました。このほか、西暦80年につくられた5万人収容の円形闘技場コロッセオや、今は遺構があまり残っていない収容人数15万人の大競走場キルクス・マクシムス(戦闘用馬車のレースを行う施設、100年代の状況)といった巨大施設が建っていたのです。
ローマ以後の大都市
ローマ市は400~500年代には、西ローマ帝国の崩壊やその後の戦乱で衰退しました。しかし、ローマ市に匹敵する大都市は、その後も各地でくりかえしあらわれます。
700年代後半に建設されたイスラム帝国のバグダード、700年代にとくに繁栄した唐の長安、北宋の開封(1000年代に繁栄)や南宋の杭州(1200年代に繁栄)は、最も代表的なものです。
また、500年代における東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の都コンスタンティノープルは「ローマ市をやや小型にして再現した」といえるもので、首都としてはビザンツ帝国が滅びる1400年代まで繁栄したのでした。そして、ビザンツの文明はイスラム帝国におおいに影響をあたえています。これらの都市の規模は、ローマ市とほぼ同程度の人口数十万~100万余りです。
これらの前近代の大都市では、麻疹・天然痘・ペストなどのさまざまな疫病が何度も蔓延しましたが、それでも大都市の伝統が世界から消えてしまうことはなかったのです。
史上初の近代レベルの巨大都市・1800年代ロンドンの環境改善
そして、産業革命以後の1800年代には、それまでの規模を大幅に超える都市が出現しました。
その先駆けは、イギリスの首都ロンドンです。1800年代半ばには、ロンドンは人口200~300万人の空前の巨大都市となりました。1851年の国勢調査によると、ロンドンの人口は270万人です。
新しい産業・経済が発達し、社会的な自由が拡大したことで、仕事や成功を求める人たちがロンドンに押し寄せました。鉄道の発達が都市へのアクセスを容易にして、人口集中はさらに進みました。ロンドンは、史上初の「近代レベルの巨大都市」といえます。
1883~84年には、ロンドンの人口は500万人を突破しています。当時の世界でダントツに大きな都市です。同じ頃、それに次ぐ規模のパリの人口は230万人で、ロンドンの半分以下でした。
なお、1800年代後半にはイギリスでは全人口の4分の3が都市に集中していました。 1890年の西ヨーロッパ諸国の平均の都市化率は31%、同年(明治時代)の日本は16%ですので、イギリスの都市化はとくにすすんでいたのです(川北稔『イギリス近代史講義』講談社新書、2010年など)。
そして、当時のロンドンでは、街は馬車がごった返して馬糞にまみれ、工場からの煙で大気は汚染され、コレラのような飲料水の汚染に起因する伝染病が流行するなど、環境悪化はひどいものでした。
しかし、1800年代後半には近代的な上下水道の整備が進み、地下鉄(1863年に最初の路線が営業開始)という新しい都市交通が馬車にとって代わることなどによって、環境が改善されていきました。
ロンドンでは、1848~49年と1853~54年に2度にわたるコレラの大流行があり、1858年には「大臭気」といわれる、テムズ川からのかつてない異様な悪臭の発生といった事件が起きました。たしかに当時のロンドンは、ある種の「限界」に達していたのです。
これらの出来事がきっかけとなって、これまで対応が鈍かった政治や行政が本格的に動き出しました。
そして、上水道については、1852年に成立した「首都水道法」に基づいて、ロンドンの水道の水源は汚染されていないテムズ川上流とすることなど、水の品質を確保するための措置がとられます。
当時のロンドンの水道は、「水道会社」という許認可を受けた民間事業者が運営しており、当時のロンドンには8つの水道会社がありました。一方、下水道の建設は、1855年の立法に基づいて進められました。建設工事は1858年から始められ、7年かけて全長132キロのレンガづくりの地下水路が建設されました。
巨大都市に適合した上下水道の整備は容易ではなく、相当な時間がかかりましたが、その効果は確かにありました。
1866年のコレラの大流行を最後に、1870年代以降のイギリスではさまざまな伝染病が減って、国全体の死亡率も下がっていったのです(ロンドンの環境改善については、リー・ジャクソン『不潔都市ロンドン』寺西のぶ子訳、河出書房新社、2016年による)。
その後、ロンドンの人口はさらに増えて、1895年には600万人、1907年には700万人に達しました。
これまでみたように、1800年代後半のロンドンは、産業革命以後の急速な都市の拡大による深刻な病=副作用におかされていました。しかし、技術や社会運営の力でその副作用をかなり克服したのです。
これは、「産業革命の副作用を、産業革命以後の技術である程度おさえ込んだ」といえます。この克服のあり方は、その後の世界の大都市にとってモデルになりました。
以上をまとめると、こういうことです――都市文明は急激な都市化とともに、5000~4000年前のメソポタミアで本格的に始まった。それを後の文明が受け継いで、都市をさらに発達させた。その発達を支えたのは技術である。都市の巨大化にともなう副作用を技術によって(どうにかでも)緩和することで、都市はさらに発展していった……
やはり、都市にともなう問題・副作用を解決して、都市を発達させることは人間にとって「異常」などではなく、本来的な普遍の営みです。素直に世界史の事実をみわたせば、それはやはり自明のことのように私には思えます。
文明国で都市が衰退した事例・崩壊後の西ローマとビザンツ
ただし、時代や地域によっては、文明国でありながら都市が後退していったケースもみられます。
たとえば、400~500年代の西ローマ帝国とその跡地はそうです。この時期の西ローマ(ローマ帝国の西半分、今の西ヨーロッパの主要地域にほぼ該当)は、ゲルマン人の侵入激化などによる混乱で、かつて栄えていた多くの都市が衰退していきました。
最盛期のローマ帝国では、都市が全人口に占める割合は10~20%程度です。西暦14年頃のローマ帝国についてのある人口推計によれば、当時のローマ帝国の総人口4500万人のうち、約500~700万人が都市に暮らしていたとされます(樋脇前掲書)。
このように、ローマ帝国の都市化率は現代よりもかなり低かったのですが、都市が経済や文化に占める比重は圧倒的でした。農村地帯が都市に政治的・経済的に従属する傾向が近現代の社会以上に強く、ローマ帝国には「都市の集合体」という面がありました。
そこで、都市が衰退することは、西ローマの経済・文化の激しい衰退につながりました。それは地域によっては「文明の崩壊」といっていいほどのものでした。
たとえば、西ローマ帝国の跡地では、出土した遺物をみると、陶器などの生活用品はローマ時代には多様で上質なものが大量にあったのに、帝国の崩壊後はそれが姿を消して粗末なものしか出てこなくなる――そんな著しい生活水準の低下が、地域によってはみられます。
なぜそのような変化が起こったか? 都市の衰退・消滅によってそこで活動する職人や商人、インフラ等を管理する官僚や現場スタッフがいなくなったからです。これらの都市で活動する専門家がかかわっていた、帝国規模の生産や流通のネットワークが崩壊して、一部の地域は自給自足的な経済に逆戻りしてしまったのです(ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊』南雲泰輔、白水社、2014年)。
また、600年~700年代おける東ローマ(ビザンツ)帝国における「都市の衰退」という事例もあります。
西ローマ帝国は400年代末には体制崩壊しましたが、それ以後も帝国の東半分である東ローマ帝国は存続し、首都のコンスタンティノープルをはじめとして、さまざまな都市も繁栄し続けました。
しかし、600年代になると、周辺の異民族(スラブ人やアラブ人など)による攻撃の激化によって、社会は混乱していきました。500年代から続いていたペストの流行も社会にダメージを与えました。
その後700年代末には東ローマは安定をかなり取り戻します。しかし、都市は衰退してしまいました。コンスタンティノープルなどの例外を除き、多くの都市が文化や経済の活気を失って、軍事や政治に特化した、限られた規模の「城塞」的なものに変わってしまったのです(井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版社、2009年など)。
むすび・都市が衰退するのは、きびしい時代
つまり、大規模な都市が衰退して、ムラや小都市ばかりになった社会の事例というのは、このように歴史上にあるわけです。
そして、当時の社会に生きる人たちにとって、それはきびしい時代だったのです。「アンチ都市」の知識人が説くような「都市という異常なあり方が後退して、人間らしさが充実する」といったものではありません。外部からの攻撃におびえ、政府の機能は低下し、生活用品が入手困難になったりする時代でした。
「私たちは、これまで築いてきた都市というものを、さらに大事に維持・改良していくしかない」と、私は思います。
高いレベルの経済や文化を維持しようとすれば、その時代の先端をいく巨大で整備された都市は、社会にとって必須なはずです。これまでの歴史的事例によれば、都市を拠点とする専門家の活動が低下すれば、社会全体の生活や文化の水準は下がるのです。西ローマ帝国の崩壊の際に起こったことは、それを劇的に示しています。
とはいえ、ここでは論じきれませんが、都市の維持・改良にあたっては、これまでのやり方の見直しはやはり必要でしょう。
たとえば、巨大な超高層ビルは、もう「時代遅れ」なのかもしれません(これは、先ほど引用した日経新聞の記事の関連で、建築家の隈研吾氏も述べていた)。IT技術をふまえて働く場所を再設計する必要もあるでしょう。省エネ・省資源や環境への配慮は、さらに重要になるはず。
しかし、それは大規模な都市そのものの存在意義をくつがえすような話ではありません。
「文明は詐欺」「都市への集中は異常(解体・分散すべき)」というのは、現実の文明におけるさまざまな問題・副作用を真正面から解決することを回避する思想=幻想ではないでしょうか?
(以上)
