文明とは?「最古」の都市ウルクから考える・前編
0.はじめに
「文明とは」「都市とは」を考える材料として
紀元前3500~3300年(5500~3300年前)頃、今のイラクやシリアにあたるメソポタミアという地域で、のちの世界に大きな影響をあたえた初期の文明が生まれました。シュメル人という人びとによって、ウルクという、現代につながる「最古」あるいは「文明の起点」となった都市が姿をあらわしたのです。メソポタミアでは、その後数百年のうちにシュメル人のほかの都市もできていきました。
この記事では、おもにウルクという初期の都市について述べ、その後のローマやロンドンといった都市にも少し触れます。そして、「都市とは」「文明とは」という大きな問題について考えます。
その答えは簡単には出ないでしょうが、ウルクのことは、都市や文明を考えるうえで重要な材料だと思います。
5000年前のウルクは、すでに相当に発達した、正真正銘の文明社会でした。そこには数万人規模の人口密集、街路や運河、数十メートルの高さの建造物、国家権力、官僚機構、専門職としての知識人や技術者、エリートのための学校、多くの文書(何万、何十万もの粘土板)、遠隔地からの資源の輸入と製品の輸出、豊富なビールやパン(あと高級品としてのワイン)、文化拠点としての神殿が存在していたのです。
このような、都市やそこで栄えた文明は、その後さらに複雑化・大規模化しながら何千年も続いています。
都市を、人間にとって「異常」なあり方だと批判する見解もあります。しかし、私はそれには賛同しません。
たしかに、都市や文明にはさまざまな問題があります。しかし、それが本質的・根本的に異常でまちがったものであれば、何千年も続く大きな流れにはならないはずです(そのような自己増殖や肥大化こそが文明という「病」の本質なのだ、という人もいますが)。
都市についての立場はどうあれ、ウルクという「文明の起点」について知ることは、やはり意味があるはずです。
1.都市とはどういう場所か、文明とは何か
「数万人」規模に達していたウルク
ウルクがあるメソポタミアとその周辺の広い範囲を、世界史の地域区分では「西アジア」といいます。
つまり、メソポタミアのほか、地中海寄りのシリア・パレスティナ、アナトリア(今のトルコ)、エジプトとその西側の北アフリカ、今のイラン、アラビア半島などを合わせた地域です。「中東」「アラブ」など、近い範囲を指す区分もほかにありますが、ここでは「西アジア」を用いることにします。

バビロン、ニネヴェは他の都市より後の時代に繁栄

薄い網掛け:前2000~前800頃文明が広がった地域
(地図は拙著『一気に流れがわかる世界史』より)
なお、シュメル人の民族系統やルーツはわかっていません。シュメルという名も、地名(メソポタミア南部=シュメル地方)に基づく、考古学者によるものです。
紀元前の西アジアで栄えた民族のうち、シュメル人のことはずっと忘れられていました。シュメル人の遺跡が初めて学問的に調査されたのは、1870年代のフランス調査隊によるラガシュという都市の発掘からです。
その後研究が進み、それまでに知られていたどの文明よりも古いことがわかりました。そして、1920年代までにはウルク、ウルといった主要都市の発掘・研究が欧米の学者によって始まりました(前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017年)。
シュメル人の都市は、チグリス川とユーフラテス川の下流(メソポタミア南部)で発生しました。直径300~400キロほどの、比較的限られた範囲でのことです。そのなかでウルクは、最古でかつ最大級の都市でした。
紀元前3300~3200年(5300~5200年前)頃のウルクの面積は100ヘクタールほどで、人口は1~2万と推定されます。1ヘクタールは100m×100mです。そして、紀元前3100年(5100年前)頃にはウルクの面積は250ヘクタールほどになり、推定人口は3~5万。「100ヘクタール」「250ヘクタール」は、城壁の内側の面積です。
その後ウルクの面積は、紀元前2900~2700年(4900~4700年前)には600ヘクタールに達し、全長9.5キロメートルの城壁に囲まれていました。当時の推定人口は、6万~12万。
日本では縄文時代にあたる5000年ほど前に、すでに「数万人」規模の都市が存在したのです。
このような紀元前の古い都市の人口は、「都市遺跡の面積×人口密度」という計算による推定です。人口を知る直接の手がかりとなる史料がないからです。
紀元前の西アジアの集落について、人類学者は「1ヘクタールあたり100人程度(125人)」として計算することが多いです。 また、「1ヘクタールあたり250人」とすることもあります。 本書では幅をもたせて「1ヘクタールあたり100~200人」として話をすすめます。
(ウルクの規模や人口の推定方法については、中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書、2007年、小泉龍人『都市の起源』講談社選書メチエ、2016年、前川和也編著『図説 メソポタミア文明』河出書房新社、2011年などによる)
シュメルの都市の様子
ウルクはまだほんの一部しか発掘されていないので、その全体像はわかっていません(ウルクのあるイラクやその周辺の政治情勢の影響などで発掘が中断)。 ただし、メソポタミアのいくつかの都市遺跡の発掘から、5000~4000年前のシュメル人の都市の一般的な様子は、ある程度わかっています。
都市の周囲は日干しレンガの城壁で囲まれ、建物の多くも日干しレンガ造り。大規模な建築では、竈(かまど)で土を焼き固めた焼成レンガや石材も使われています。乾燥した地域なので木材の使用は限定的です。
多くの都市の中心的な区域には神殿の建物があり、大規模な都市ではその頂点の高さは数十メートルに達しました。市街地の建物は平屋がほとんどです。住居はランダムな建て方で、びっしりと並んでいます。
ただし都市全体をみると、メインの街路や神殿や食料庫などの公共の建造物は、一定の都市計画に基づいて配置されています。住宅が立ち並ぶ居住区と、陶器や金属器などをつくる工房が集まる区域を区分することもみられます。
飲み水はおもに井戸水によるものでした。川の水は、生活排水が流れこむため不衛生だったのです。
そして下水の施設も、一定のものがありました。たとえば、紀元前3300年(5300年)頃の「ハブーバ・カビーラ南」という都市遺跡では、地面を掘った排水溝に土管(下水管)が埋められ、それが市街のあちこちに張りめぐらされていました。
ハブーバ・カビーラ南は、メソポタミア南部から900キロメートルほど離れたシリア北部にある、ウルクの衛星都市です。銀の入手のためにつくられたと考えられています。 銀の粒や塊は、当時のメソポタミアでは貨幣の役目を果たしました(当時、コインはまだつくられていない)。
また、市内には道路のほかに水路を設けることも一般的でした。都市を結ぶ水路や運河も建設されました(以上の都市の様子は、小泉前掲書による)。
このように、街路や大規模な建物、下水のインフラ、運河などが、ある程度計画的に整備されていたのです。
これは、王にあたる権力者や官僚などの専門家が存在したことを伺わせます。当時の文書(あとで述べる粘土板文書)には、「王」を意味する語や、公共におけるさまざまな職業・役割を列挙したものもあります(前川前掲書など)。
そして、ウルクの住民の大多数は、農業に従事していました。権力者の指揮に従ってウルクの城壁の外に広がる耕地を耕し、ムギ類などをつくっていたのです。一方で、陶器や金属器の生産や商業活動を専門的に行う人びともいました。
また、文明の始まりの時代のメソポタミアでは、ひとつの都市を核とする限られた地域が国家の範囲でした。「都市国家」といわれるものです。のちの時代のように広い領域を支配する「領域国家」は、まだ存在しません。
文明の始まりの時代のメソポタミアでは、いくつかの有力な都市国家が並び立つようになり、それが長く続きました。
都市とは、権力者と専門家が中核である集落
では、そもそも都市とは何でしょうか?
古典的な説ですが、考古学者のゴードン・チャイルド(1892~1957)は、古代都市の条件としてつぎの10項目を挙げています――「人口集住」「第一次産業以外の職能者」「生産余剰の物納」「神殿などのモニュメント」「支配階級」「文字」「暦や算術」「芸術」「長距離交易」「支配階級に専属の工人」 (表現は著者が簡略化、小泉前掲書)。
これらの項目は羅列的で重複する面もあるので、もっと整理してつぎのように定義できると、私は考えています。
都市とは「多くの人びとが密集して暮らし、食料生産に直接従事しない権力者と専門家が、住民の中核である集落」
この定義で「多くの人びとが密集して暮らす」というのは、一応はわかりやすいはずです。「どのくらいの人数なら“多い”といえるか」については、あとで述べます。
では、「権力者と専門家」とは何か。これは、王や貴族などの権力者のほか、役人や軍人、聖職者、学者や教師などの知識人、技術者・職人、商人、モノを運ぶ運搬者、そして医師や理髪師のようなサービス業の人びとです。それも、こうした仕事を、農業の傍らなどではなく、専従で行っているということが重要です。現代の産業分類でいえば、第二次産業や三次産業の従事者。
そして、そのような人びとが「住民の中核」とはどういうことか?
それは「住民の多数を占める」ことだけにかぎりません。たとえ少数派でも、権力者と専門家がその都市の運営の根幹をコントロールしているなら、それは「中核」といえます。
あとでみるように、5000年余り前の文明の始まりの時代の都市では、農業に従事する人びとが住民の圧倒的多数を占めていました。その点で、二次・三次産業の従事者が多数を占める、のちの時代の都市とはちがいます。
しかし、それでもこの集落を「農村」ではなく「都市」と呼ぶのは、権力者と専門家による支配・管理が確立していたからです。
当時の都市では、農民たちは権力者の指揮・監督を受けながら仕事をしました。収穫物も、権力者によって組織的に分配や保管がなされていました。前に述べた大規模建造物やインフラの整備状況なども、ウルクなどのシュメル人の都市が「権力者と専門家が中核」という「都市」の条件をまさに備えていたことを示しています。
文明は都市文明として始まった
このように都市という場所では、明確な社会的分業や身分差が存在するのです。これは、多くの人間が密集しているからこそ起きることです。たとえば、万単位の人間が集まって社会生活を営むとき、とくに役割の分担もなくみんな平等に、というのは不可能です。
では、どのくらい多くの人間が集まると役割や身分のちがいが明確になるのか、つまり、単なる集落ではなく都市といえる状態になるのか?
これもかなり昔の説ですが、文化人類学者のクライド・クラックホーン(1905~1960)は、「5000人」を「都市といえる人口の基準」としています。くわしくいうと「約5000人以上の人口規模」「文字」「記念儀礼的センター(神殿のような施設)」のうち最低2つの条件を満たしている集落が都市である、という説です(小泉前掲書)。
これは、さまざまな集落や都市遺跡について調べた経験的な感覚に基づいているのでしょう。おおざっぱに「数千人」というのは、「都市といえる人数」の目安になるはずです。なお、「数千」「数万」の「数…」とは、ここでは「4~7(4~5から6~7)」を指すことにします。
つまり、「数千人」が住んでいたと思われる集落の遺跡だと、神殿らしい公共建築や、計画的に建設された道路や排水設備のようなインフラが存在するということです。それらは、一定の権力や専門家が存在しないとつくれないはずです。こういうことは、「数百人~1000人」規模の集落が最大級だった時代には、はっきりしないのです。
そして、このような「都市の定義・条件」は、「文明社会とは何か」ということでもあります。
多くの人びとが集まる、権力者と専門家が中核をなす「都市」という場で、大規模な建築やインフラが建設され、文字記録、学問・芸術、発達したものづくりや活発な交易等々が生まれました。
それは、「文明」が生まれたということです。文明というものは都市における活動、つまり「都市文明」として始まったのです。
都市の権力者や専門家は、人びとを支配・管理するとともにさまざまなサービスを提供しました。
まず、最も重要だったのは、外部の略奪者などの脅威から守る、といった安全の確保です。そして、農業のためのインフラ整備や食料倉庫の運営による、食料の安定的な供給。さらに神殿などの宗教施設、高度の工芸品、嗜好品や娯楽による精神的な充足といったことがありました(大津忠彦・常木晃・西秋良宏『西アジアの考古学』同成社、1997年)。
外敵から守られ、食べ物にありつけて、さらに美しいもの・おもしろいもの・おいしいものを楽しめる――たしかに都市とは、求められる姿としてはそういう場所です。
そのような安心や楽しみにかかわる環境やサービスを、権力者と専門家が主導してつくり出している。だからこそ、多くの人びとが都市に集まり、権力に従う。このことは、遠い昔も現代も変わりません。
文明とは何か・「都市レベル」に達した人間の営みの総体
そして、結局のところ文明とは何か。それを定義するのはむずかしいのですが、あえていえば、つぎのようになると、私は考えています。
文明とは「(ここで述べているような)本格的な都市を築くレベルにまで発達した、人間の技術・経済などの社会的な営みの総体」
「本格的な都市を築くレベル(都市レベル)にまで発達」ということが、この定義のポイントです。では「都市」とは何かといえば、前に定義したとおりです。つまり「数千人以上が密集して暮らす、権力者と専門家が中核である大規模集落」が都市ということです。
この「文明」の定義には、以上の「都市」の定義が核として組み込まれているのです。
そして、「都市以前」レベルの人間の営みの総体については、「文化」と呼べばいいのではないかと考えています。そのような意味で「文化」という言葉を用いることは、考古学や人類学では一般に行われています。
さらに整理すれば、「文化」とは、人間の営みの総体の一般的・包括的な概念で、「文明」は、「文化」のなかの「都市レベル」に達した特殊なあり方を指すということになります。
そこで、たとえば縄文時代の人間の営みを「縄文文明」と呼ぶ人がいますが、私はそれはどうかと思います。やはり、「縄文文化」と呼ぶべきではないか。
縄文時代にもかなり発達した大規模集落はあったのですが、それはここで述べた都市の定義にあてはまるものではありません。ここでは立ち入りませんが、一般に縄文の集落では、権力者や専門家の存在が(萌芽的なものはあっても)十分に明確ではなく、その規模も「数千人」に達するレベルではないのです。
たしかに、青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやま、おもに縄文中期に繁栄)のように、40ヘクタールの広さで、数百~千人規模の人口を擁していたとみられる巨大集落もありました。これは、「都市の一歩手前」といえます。しかし、そこからさらに発展して、ウルクのような数万人規模の本格的な都市が生まれることはなかったのです。
2.文明の「起点」としてのウルク
最古の都市でないとしても、文明の「起点」
なお、「最古の都市はウルクではない」とする立場もあります。
そのひとつは、「メソポタミア北部のテル・ブラク遺跡がウルクよりも数百年~1000年早く数千~1万人規模に達しており、これが最古の都市」というものです。テル・ブラクを築いたのはシュメル人ではないようですが、この都市あるいは集落がシュメル人に影響をあたえた可能性はあります。
また、さらに古い時代の、アナトリア(今のトルコ)東部のチャタル・ヒュユク(ホユック)という遺跡を重視する人びともいます。
チャタル・ヒュユクは、紀元前6800~6300年(8800~8300年前)には数千人規模に達していました。ただし、人びとの住居(地下室になっている)や墓・副葬品に大きな格差はみられません。本格的な道路も整備されていない。つまり、権力の集中や役割の専門化が進んでおらず、「都市」「文明」としては未発達な面があったのです。
そして、チャタル・ヒュユクは紀元前6000年頃には人が住まなくなっています。そこに一定の「都市」が生まれていたのだとしても、その伝統は順調に発展することなく、途絶えてしまったようです。
(テル・ブラクについては常木晃「都市文明へ」『西アジア文明学への招待』筑波大学西アジア文明研究センター編、悠書館、2014年、チャタル・ヒュユクについてはマイケル・ローフ『図説世界文化地理大百科 古代メソポタミア』松谷俊雄監訳、朝倉書店、1994年などによる)
一方、ほとんどの専門家が都市(あるいは本格的都市)と認める遺跡として、ウルクは最も古いものです。ほかの遺跡では、そこまでの意見の一致はありません。そして、その後の西アジアの文明にきわめて大きな影響をあたえたという点で「元祖」的な存在です。
あとでも述べるとおり、世界最古の文字はウルクで生まれました。ただし、このことについても少数の異論は存在します。しかし、とにかく、ウルクで発達した文字のシステムはのちに西アジア全域へ広がりました。これは文字に限らず、さまざまな技術や文化についてもいえます。また、シュメル以前の数万人規模の都市は今のところ(2020年代現在)みつかっていません。
つまり、この記事は、つぎのような古代オリエント史家の見方に拠っています。
《……チャタル・ホユック遺跡などでは実験的ともいえる早期の都市化への微かな試みがみられるので、それにはちょっとまごつかせられはするが、本格的な都市化はメソポタミア南部、つまり……「シュメル」という名で知られるところで始まった》
岡田朋子訳、青灯社、2015年
ウルクなどのシュメル人の都市が「最古」であるかどうかはともかく、先行する都市的な集落をはるかに超える発展を遂げ、そこで開花したものが後世に多大な影響をあたえたことは確かです。その意味で、ウルクに代表されるシュメルの都市の成立は、文明の重要な「起点」なのです。
都市文明の広がり
ウルクを「元祖」とする、「数万人規模」の本格的な都市文明は、その後周辺に刺激や影響をあたえ、広がっていきました。
ウルクの都市文明が成立した紀元前3500年(5500年前)頃以降、メソポタミア南部やその周辺には、おもにシュメル人によるいくつかの都市ができていきました。紀元前2900年(4900年前)頃からは、メソポタミアで多くの都市が並び立つようになりました。
この時代の都市は、都市とその周辺を勢力圏とする「都市国家」を形成しました。大きな都市が近くの中小都市や村落を支配することも一般的で、その動きは時代が下るにつれさかんになりました。
そして、メソポタミアの都市国家は、たがいに勢力争いを始めました。この攻防は紀元前2600年(4600年前)頃から激しくなっていきます。 紀元前2300年代にはメソポタミアを統一してまとまった範囲を支配する「領域国家」もあらわれました(有松唯『帝国の基層』東北大学出版会、2015年、前田前期書)。
一方、メソポタミアに次いで古くから文明が栄えたエジプトでは、やや遅れて紀元前3200~3100年(5200~5100年前)頃には本格的な都市や文明が成立しました。エジプトの文明は、メソポタミアから影響を受けて成立したとみられます。
文明が成立する初期の頃(紀元前3500年頃~)のエジプトの遺跡からは、メソポタミアやイランなどからの影響が明らかな土器・印章・図像などが、数は限られますがみつかっているのです(高宮いづみ『古代エジプト 文明社会の形成』京都大学学術出版会、2006年など)。エジプトはその後、独自の文明を保持しながらメソポタミアに準ずる西アジアのもうひとつの中心であり続けます。
また、5000~4000年前頃、ほかの西アジアの地域(シリアや今のイランなど)にもさまざまな都市=都市国家が生まれました。ただし、ウルクなどシュメル人の有力な都市にくらべれば小規模でした。
なお、エジプトの国家形成はメソポタミアとはかなり異なるものでした。メソポタミアでは都市国家がいくつも形成され、並び立つようになりました。これに対しエジプトでは、都市国家があまり発達しないうちに、紀元前3100年頃にナイル川流域のさまざまな集落・都市を支配する統一王朝が成立しています。
当時のエジプトでも、王国の首都メンフィスなど万単位の人口を有する都市はありました。しかし、早期に統一王朝が成立したという歴史から、エジプトでは都市の存在感は弱いです。これには地理的環境などが関係しているはずですが、ここでは立ち入りません。
エジプトを除く西アジアでは長いあいだ、都市国家が国家のあり方の主流でした。その後、先ほども述べたように、複数の都市国家が統合されることでまとまった領域を支配する「領域国家」が形成され、新たな主流となっていきます。
メソポタミアから遠く離れた地域では、本格的な都市の成立はエジプトよりもさらにのちの時代のことです。
インド西部のインダス文明の中心であった、ハラッパーやモヘンジョダロなどの都市が繁栄したのは紀元前2600年(4600年前)頃からです。当時のモヘンジョダロは130ヘクタールの規模でした。 中国における初期の都市文明(黄河文明・長江文明)は、紀元前2000年(4000年前)頃以降です。
なお、インダス文明の成立には西アジアからの直接・間接の影響がありました。黄河文明や長江文明に対する中国の外部からの影響は、おそらくあったはずですが、よくわかっていません。
3.農耕集落から都市の成立まで
農耕の開始・ドメスティケーション
ウルクなどのシュメルの都市は、農耕社会の発展のひとつの到達点です。農耕は1万数千年前~1万年前頃に、西アジアで始まりました(以下、丹野研一「農耕の始まりを、出土植物から調査する」『西アジア文明学への招待』などによる)。
その頃、西アジアのいくつかの地域でコムギ・オオムギ等のムギ類やマメ類の栽培が本格化したのです。これは気象条件に加え、この地域でコムギなどの重要な作物が野生状態で存在していたことが大きいです。農耕の開始から数百年遅れて、ヤギやヒツジの飼育も行われるようになりました。
農耕が始まった場所については、研究者のあいだでは以前は地域を特定しようとする傾向がありましたが、近年は西アジアの各地で多元的に農耕が発達したという見方が有力になっています。
では、そもそも農耕とは何でしょうか。多くの学者は、「栽培に適した型に品種改良された植物の栽培」が本格的な農耕の始まりと考えています。
植物を栽培に適した型に品種改良することを「ドメスティケーション(栽培化)」といいます。
たとえば、ドメスティケーションを経た栽培型のムギは、収穫しやすいように種子が穂についたままですが、これでは自然界では繁殖に不利です。野生種のムギでは、実った種子はバラバラと地面に落ちていきます。
ドメスティケーションは、人間が自然を積極的に改造して利用する行為の原点でした。
考古学者や植物学者は、さまざまな遺跡から出土した植物を遺伝子解析などで調べています。それによれば、1万数千年前の最も初期の農耕は、野生種の栽培によるものでしたが、その後西アジアでは千年単位の時間をかけて、野生型が栽培型に置きかわっていきました。そこで、「農耕の開始は1万数千年前~1万年前」という大雑把な言い方をしています。
定住集落の大規模化、そして都市へ
本格的な農耕の広がりともに、人びとの定住化がすすみました。西アジアの一部では、紀元前1万年(1万2000年前)頃から定住生活が始まりましたが、このときはまだ狩猟採集や原始的な農耕が中心です(定住は本格的な農耕とともに始まったわけではない、ということです)。
その後、農耕の普及・発達で定住集落が増え、その大規模化がすすみます。紀元前7500~7000年(9500~9000年前)には、面積が10ヘクタール規模の大集落が西アジアの一部で生まれました。その推定人口は、これまで行ってきた方法によれば1000人規模です。
その後長いあいだ、最大の集落の規模は10ヘクタール級を超えませんでした(ただし、チャタル・ヒュユクのような、より大規模な「都市の先駆」といえるものも生まれたが、その試みは途絶えてしまった)。
紀元前5000年(7000年前)頃も、西アジアで最大級の集落は10~20ヘクタールです。こうした大規模集落の遺跡は、メソポタミアではなくシリアやアナトリアの東南部などでみつかっています(集落の規模等は、前掲常木論文による)。
そして、おそくとも紀元前4200年(6200年前)頃にはメソポタミア北部で、テル・ブラクのようなより大規模な集落または都市が生まれました。そして紀元前3500年(5500年前)頃には、メソポタミア南部でウルクという空前の規模の都市が生まれたのです。
都市の成立を支えた技術革新
ウルクのような都市の成立を根底で支えたのは、技術革新です。紀元前5000年(7000年前)頃から紀元前3000年(5000年前)頃にかけて、西アジアでは技術革新の大きな波が起きました。これは数百年単位の、現代の感覚ではゆるやかな変化ですが、当時としてはかつてない急速なものでした。
この時期(紀元前5000~3000年頃)には、犂(すき)、車輪、荷車、ソリ、帆掛け船などが発明されています。 天文観測で1年を認識し暦をつくることも始まりました。
冶金(やきん)の技術も発達し、紀元前3000年(5000年前)頃までには、青銅の製造技術が確立します。青銅は銅に数%~十数%の錫を混ぜた合金です。それまで利用可能だったほかの金属(金や銅など)よりも丈夫で硬く、これによって金属の刃物(利器)が実用化されたのです。 なお、鉄器の時代はまだ先で、最も早い西アジアでも紀元前1000年(3000年前)頃以降です。。
また、紀元前3400年(5400年前)頃にはウルクで世界最初の文字も生まれました。これらは「文明の基本」といえる技術・発明です。
(以上の技術革新については、H・ホッジズ『技術の誕生』平田寛訳、平凡社、1975年、デイヴィッド・W・アンソニ『馬・車輪・言語 上』東郷えりか訳、筑摩書房、2018年、小泉前掲書などによる)
シュメル人がこれらの技術をすべて生み出したのではありません。たとえば青銅は、シリアあるいはアナトリアで発明されたものがメソポタミアに伝わったと考えられます。 しかし、ウルクなどのシュメル人の都市で「文明の基本」の技術はさかんに用いられ、発達しました。西アジア全体のさまざまな成果がメソポタミアに集まり、都市文明が開化したのです。
灌漑農業とウバイド文化・「文明」の一歩手前
そして、さまざまな技術を総合した重要な技術革新として、灌漑農業(水路で水を供給する農業)があります。灌漑農業は、都市文明の直接の基礎となった技術です。大規模な灌漑農業によってはじめて、数万人規模の都市を養う食料生産が可能になりました。
これに対し、初期の農耕は雨水に頼る「天水農業」でしたが、それでは程よく雨が降るなどの条件に恵まれた、限られた場所でしか農業ができません。灌漑農業では、河川などの利用できる水があれば、さまざまな気象条件の土地で大規模な農業が可能になります。灌漑農業は、人間が大規模かつ計画的に自然を改造することの始まりでした。
紀元前5500~5000年(7500~7000年前)頃、メソポタミア南部では、チグリス川・ユーフラテス川(とくに水量の安定しているユーフラテス川)の水による灌漑農業が行われるようになりました。
メソポタミア南部は年間降雨量が200ミリ未満の乾燥地帯で、天水農業でのムギ類の栽培は困難でした。 そのため、もともとは人口は比較的少なかったのですが、灌漑農業によって多くの集落ができていきます。メソポタミアの南部は肥沃な土地の沖積平野で、水がうまくコントロールできれば農業には適していました。
紀元前5500頃~4000年頃(7500~6000年前)の、灌漑農業によるメソポタミア南部の社会のあり方を「ウバイド文化」と呼び、その約1500年間を西アジアの時代区分で「ウバイド期」といいます。ウバイド文化の担い手がどのような人びとだったかは、よくわかっていません。
ウバイド文化の集落では、精密な土器や石器がつくられ、原始的な機織りが行われました。銅などで初期の金属器もつくられました。穀物倉庫や神殿らしき建物もありました。そして、灌漑農業のための用水施設や耕地が整備され、集落をあげての管理がなされていたのです。
ウバイド文化は、「文明」の一歩手前まで来ていました。ただし、人びとの墓や副葬品をみるかぎり、身分や貧富の格差は大きくなかったようです。 また、ウバイド文化の集落の規模はせいぜい10ヘクタールほどで、それまでの集落の最大規模を超えるものではありません(ウバイド文化については、小泉前掲書、中田前掲書による)。
ウバイド期末以降の飛躍的変化
そして、ウバイド期末の紀元前4000年(6000年前)頃からの数百年~1000年の間に、かつてない大変化が起きました。
紀元前5000年(7000年前)頃にはウルクの場所にはすでに一定の集落ができていました。その大規模化が始まったのは紀元前4000年(6000年前)頃のことです(小泉前掲書)。
その具体的な経緯はわかりませんが、ウバイド期の終わり頃から、数万人規模の都市建設を可能にする技術や組織力の大幅な向上・拡大があったようです。
メソポタミア南部における都市文明への発展は、ウバイド文化という先行する段階を受け継いだものでした。新しい文明は、先行する社会の成果を継承することで生まれます。そしてその継承から、飛躍的な変化がときには起こり得るということです。
また、遠い昔であっても、つねに変化がゆっくりだったわけではない、ということも重要です。数千年前の世界でも、シュメル人の都市を生むような急激な進歩が起こることがあったのです。
4.正真正銘の「文明社会」だった初期の都市
交易のネットワーク
そして、メソポタミア南部は灌漑農業には適していても、天然資源には恵まれていませんでした。
石や木材が限られていたので、建築材料のメインはありふれた土を乾燥させ固めた日干しレンガです。金属器の材料の鉱石も採れません。そこでさまざまな資源は、かなりの場合、数百キロあるいは1000キロ以上離れた各地から輸入しています。
銅や銀の鉱石は今のイランの内陸部とアナトリアから、そして錫はイランやさらに遠い内陸のアフガニスタン方面からだと考えられますが、確かなことはわかっていません。木材はアナトリア東部やシリアの地中海側から。そのような交易のネットワークを築いていたのです(大津・常木・西秋前掲書)。
ウルクなどのシュメル人の都市からは、コムギ、オオムギなどの穀物、羊毛を利用した毛織物、その他の工芸品などを輸出しました。交易の輸送手段としては、当初は川による水運が中心でしたが、紀元前3400~3300年(5400~5300年前)以降はロバに荷車をひかせる陸上輸送も行われるようになりました。そして、このような遠隔地貿易は、当時は民間の商人ではなく、国家に属する一種の役人が担いました(小泉前掲書など)。
資源を外国の各地から輸入し、自分たちの発達した産業による製品を輸出する――これは現代の世界でも変わらない高度な文明国のあり方です。その原型はすでにシュメル人の都市で成立していたのです。
ウルクと交易をした各地では、ウルク的な遺物(土器など)や都市遺跡がみつかっています。ウルクは、それらの交易相手を政治的に支配したわけではありません。しかし、経済や文化で影響をあたえました。
ウルクにおける文字の誕生
大量の食料を生産・保管することや、交易による物資のやりとりが発展すれば、それらを管理する記録の必要性が高まります。そのような管理のための小道具や記号が発達した結果、最も古い文字が、紀元前3400年(5400年前)頃のウルクで生まれました。
この「管理の小道具」とは「トークン」という、管理されるモノのミニチュアのような小さな粘土のカタマリです。これは紀元前8000年(1万年前)頃に、おそらくは本格的な農耕を始めたことで生まれたのです。その後、文字の誕生に近い時代には、複数のトークンを「ブッラ」といわれる中空の粘土の球で包んでまとめるようになります。
そして、備忘としてブッラの表面に中身のトークンの数や内容を抽象的な記号で書いたのが文字の起源だと考えられています。私たちは文字の誕生について、「絵文字的なものを何かに書きつけることからはじまって、そこから文字が生まれた」とばくぜんと考えがちですが、じつはそうではない、ということです。
こうした文字の起源は、デニス・シュトマント=ベッセラという研究者が1970年代以降の20年余りにおよぶ研究で明らかにしたものです。彼女は、大きな功績を残したといえるでしょう(文字の誕生については、ハロー前掲書、中田前掲書、小林登志子『シュメル』中公新書、2005など)。
この「最初の文字」は、葦(あし)の茎を斜めに切ったペンで粘土板に刻むという方法で書かれました。粘土板はかなりかさばるものの、きわめて低コストで、乾燥して固まると耐久性が高いという長所がありました。
最も初期の文字は、絵文字的なところもありましたが、しだいに画数も整理されてさらに抽象的になり、複雑な文字のシステムが整っていきました。紀元前2500年(4500年前)頃には文字としての体系がひとまず完成します(小林前掲書など)。
こうして発達した文字は、その形状から「楔形(くさびがた)文字」と呼ばれます。これはひとつひとつの文字が一定の事物や概念をあらわす「表意文字」の一種です。
ウルクで生まれた文字システムは、その後シュメル人のほかの都市にも広まり、西アジア全体にも影響をあたえました。
エジプトでは、紀元前3300~3100年(5300~5100年前)頃に初期の文字が使われるようになり、のちに「ヒエログリフ(聖刻文字)」といわれる表意文字に発展しました。これにはメソポタミアからの影響が考えられますが、エジプトの文字そのものは楔形文字とは別物です(高宮前掲書)。
また、エジプトでは、紀元前3000年(5000年前)頃から紙に似たパピルスという記録媒体も独自につくられ、粘土板などとともに用いられました。パピルスは、パピルス草という水草の茎をタテに薄く切り、それをタテヨコに組んで貼り合わせたもので、そこにインクで文字を書きます。パピルス草は、エジプトとその近辺の特産品です。
初期の粘土板に書かれていたこと
そして、シュメルの都市では文字記録をあつかう「書記」という専門家も生まれました。「粘土板の家」と呼ばれる、書記を養成する学校もありました。
文明の始まりの時代には、読み書きは特別な教育を受けた者だけの専門的スキルでした。王のような特権階級の人でも、多くは読み書きができなかったのです。エジプトでも書記という専門家は同様に存在しました’(小林前掲書など)。
文字の最初期から紀元前2900年(4900年前)頃までのウルク出土の粘土板を、考古学者は「ウルク古拙(こせつ)文書」と呼びます。
ウルク古拙文書は、これまで(2000年代初頭まで)に断片を含め約5000枚が発見されています。そこには1000種類ほどの文字がみられます。この5000枚は、何万、何十万枚と存在したはずの同時代のぼう大な粘土板のうちの、発掘された一部ということです。
では、そこには何が書かれていたのか? 古拙文書の8割ほどは、穀物や家畜などを管理するための、国家による記録です。当時は、民間人による文字の記録はかなり限定的でした。
そして、古拙文書の残り2割は「語彙リスト」と呼ばれる、書記をめざす生徒が書き残した単語帳のようなものです。そのなかには、国家組織のさまざまな職業・役割の一覧である「官職リスト」や、約90の都市名・地名を記した「都市リスト」といわれるものもあります(古拙文書については前川前掲書)。
国家の財産を帳簿で記録する書記。エリートの「知識人」をめざして単語帳で学習する生徒――そんな人たちが、5000年近く前の世界にいたのです。そこにはまちがいなく、都市的な文明生活が存在していました。
パンとビール・文明的な暮らし
シュメル人は、コムギやオオムギなどでつくったパンを食べ、ビールを好みました。パンを定義すれば「穀物を粉にして水を加えてこね、焼き上げたもの」ということです。 ビールは、おもにオオムギを発芽させた麦芽を発酵させてつくります。
シュメル人のパンは、平たい生地を焼いた固めのもので、私たちになじみのある、酵母で発酵させた柔らかいものではありません。このような無発酵の薄いパンは、今も西アジアで食べられています。
ビールも、ホップを含んだ苦みのあるものではないです。ビールにホップを使うことは、11世紀のヨーロッパで始まりました。
パンやビールは、都市文明以前の農耕社会ですでにあったと考えられますが、いつ頃生まれたかはわかっていません。シュメルの都市では、より洗練されたものが豊富に手に入るようになったのです。
また、ワインもすでにシュメルの都市で飲まれていましたが、おもに周辺の山間部から輸入した貴重品で、非日常的なものでした。 ワインの古い痕跡としては、7000数百年前のものがイランや黒海沿岸のジョージアでみつかっています(パンや酒については、トム・スタンテージ『歴史を変えた六つの飲物』新井雛嗣訳、楽工社、2017年、小泉前掲書など)。
シュメル人は、パンを食べビールを飲むことを都市に住む者のよろこびであり、文明人の証だと考えました。
シュメルの代表的な物語で最古の文学ともいわれる「ギルガメシュ叙事詩」には、その価値観が表現されています。ギルガメシュは、紀元前2600年(4600年前)頃に実在したとされるウルクの王です。この叙事詩の最古の写本は前2000年(4000年前)頃のものですが、その原型や素材の成立はさらにさかのぼるとみられます。
この叙事詩のなかに、エンキドゥという裸で暮らす野生児の男に、文明人の若い女性(正体は女神)が都市のパンやビールをすすめる一節があります。
「これを飲み食いするのは人が生きるうえでの決まり」だと、女性は言いました。そして、腹いっぱいパンを食べ、ビールを7杯飲んだあとで、エンキドゥウは汚れた毛髪を油で拭き、服を着ました。それでこざっぱりと文明人らしくなったということです(スタンテージ前掲書、原典は矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』ちくま文庫)。
このような、都市文明を礼賛する価値観を「権力側によるプロパガンダ」とみることもできるかもしれません。しかし、『ギルガメシュ叙事詩』は長く生き残って重要な「古典」になったのです。それは、そこにある価値観がたんなる「権力による押しつけ」ではなく、多くの人に共有された結果ではないかと、私は考えます。
国家が経済を直接支配・運営する
また、シュメル人の都市国家の体制についても、ある程度わかっていることを述べておきます。
シュメルの初期の都市国家の特徴として、国家権力が国の経済を直接支配・運営したことがあります。つまり、国王が圧倒的な大土地所有者であり、農民はその指揮下で働いたのです。人びとが各自で農業を営み、そこから国家が税を取り立てるのではありません。
また、道具や工芸品を生産する工房も、国家が直営していました。そこで働く職人は出入りの業者ではなく、国王の使用人です。遠隔地との交易も、国家権力が独占しました。それを専門に行う一種の役人がいて、独立した民間の貿易商はほぼ存在しなかったのです(前田前掲書)。
このような直営の土地や商売からの富で、国王は自分の配下を養いました。文字による記録は、さまざまな活動を行う国家の組織を管理・運営するうえで必須のツールでした。
そして、こうした初期の都市国家では、ほとんどの人間にとって私たちがイメージするような「自由」は限られていたことでしょう。たとえ奴隷として売られることのない「自由人」であっても、土地の所有が制限され、日々の労働が権力者の指揮下にあるのです。住む場所や仕事を選ぶことはもちろん、日々の仕事をどう行うかの裁量も限られていたはずです。
シュメルの都市国家では、以上のように国家による直接の活動が大きな比重を占めています。のちの時代(とくに近現代)のように「人びとが各自の考えで活動する“民間”の社会があり、それを国家権力が政治的に支配する」のとは大きく異なります。
なお、シュメルの都市国家は、厳格ではないにせよ一定の身分社会であり、奴隷も存在しました。奴隷とは「モノのように売買される人間」のことです。
奴隷には国家組織に属する奴隷のほか、個人の家で働く家内奴隷もいました。奴隷となった事情別でみると、借金を返せなかった債務奴隷、犯罪者が奴隷身分に落とされた犯罪奴隷、戦争に負けた捕虜、外国から商人によって奴隷として買われた者などがいました(小林前掲書)。
つまり、のちの時代にもみられたさまざまな奴隷のパターンが、すでに出そろっていたのです。その意味でも文明の始まりの時代のシュメルの都市は、やはり本格的な文明社会でした。
宗教と神殿・「まず神殿ありき」か?
また、都市国家の国王にとっては経済や軍事のパワーだけでなく、宗教的な権威づけも重要でした。シュメルの都市では、それぞれの都市を支配・守護する「都市神」というものが信仰されました。
たとえば、ウルクの都市神は、イナンナという豊穣や美をつかさどる女神です。こうした都市神は、ほかの都市でも崇拝の対象となったので、シュメル人の宗教は多神教といえます。
国王は都市神から王としての権限をあたえられた者とされ、神が住む場所である都市を守る責任を負いました。そして各都市には神殿があり、神官の組織によって運営されていました。神殿は、都市における重要な精神的シンボルであり、文化の拠点といってもいいものでした。
考古学者のあいだでは神殿の役割を重視して、「都市文明の初期には耕地はおもに神殿の所有だった」とする主張もあります。「まず神殿ありき」で都市が発達したという「神殿都都市論」という説です。神殿都市論は目新しい説ではなく、1920年代にダイメルとシュナイダーという学者が唱えて以来、かなり影響力があります。
しかし、神殿都市論への反対者は少なくありません。たとえば、考古学者の前田徹さんは、神殿都市論を《同時代資料の安易ともいえる利用による》説だと批判しています(神殿都市論については、前田前掲書)。
前田さんのように数多くの粘土板文書を慎重に読み解いてきた研究者からみると、神殿都市論は十分な証拠に基づかず想像をふくらませたフィクションに思えるのでしょう。
ウルク古拙文書(8割が農作物や家畜についての記録)をみても、書き記した側のおもな関心は宗教よりも世俗の実務だったようです。当時のシュメルの社会において、宗教が重要な役割を果たしていたことは十分にあり得えます。しかし、「まず神殿ありき」のような過大評価は気をつけたほうがいいでしょう。
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ここまで述べてきた5000~4000年前のシュメル人の都市は、農耕中心ではあっても、「自然とともに生きる、のどかな世界」などではありません。灌漑農業で自然を大規模に改造し、国家の組織、文書記録のシステム、工業製品を輸出する貿易等々――こうした要素を備えた正真正銘の文明社会なのです。
ウルクの官僚や技術者を、タイムマシンで現代のオフィスや生産の現場に連れていったとしたら、どうでしょうか? 彼らは、そこがどんな場所で何をしているのか、本質的なところはすぐに理解できるでしょう。ウルクの人びともまた「文明人」だからです。
たとえば、スマホやタブレットなどの端末に向かう私たちをみて、ウルク人は「粘土板で読み書きしている」と思うでしょうが、その理解は本質的にはまちがっていないのです。
(後編に続く)
後編では、「文明や都市によって人間は幸福になったか」という問題について考えます。ウルク以降の都市文明の展開についても触れます。
