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アリストテレス・世界の全体像を描こうした「万学の祖」


はじめに・「哲学」の枠におさまらない巨人


アリストテレスについての入門的な解説は、素材が素材だけにやはり読みにくいものが多いです。あるいは、あまりに簡略すぎて、その偉大さや魅力が伝わらなかったりします。

この記事は「読みやすく、しかしそれなりの情報を盛り込んで、アリストテレスという巨人の概要をシンプルに伝える」ことをめざしています。

アリストテレス(前384~前322)は、古代ギリシアの大哲学者です。一般に、彼の師匠であるプラトン(前427~前347)と並んでギリシアを代表する学者とされます。

アリストテレスは、一応「哲学者」といわれますが、彼の仕事は、いわゆる「哲学」の枠を大きく超えるものでした。彼は、論理学、倫理学、政治学、経済学、心理学、力学、天文学、気象学、生物学、生理学など、「森羅万象」(この世のすべて)といえるほどの幅広い分野について論じています。

アリストテレスの時代には、学問の専門分化はまったく未発達で、1人の学者が様々な領域について述べるのは珍しくありません。しかし、アリストテレスの学問の幅広さは特異なものでした。彼は「万学(あらゆる学問)の祖」などともいわれます。

そして、アリストテレスは、数世紀分にもおよぶ「古代ギリシャの歴史はじまって以来の哲学の文献」を徹底的に集めて検討したり、何百種類もの生物について観察や解剖をしたり,さまざまなギリシャの都市国家の政治体制を調査するなどして、上記のさまざまな分野の論文を書いたのでした。

つまり、限界はもちろんおおいにあるにせよ、相当な事実やデータをもとに自分の学説を築いたということです。

また、彼の残した原稿(ただし一部しか伝わっていない)を、現代の書籍に換算すると、数千~1万ページもの分量になります(サムネイルの画像は、昭和に岩波書店から発行された『アリストテレス全集』)。

そんなすごい学者が、日本でいえば縄文時代の終わりころの、今から2300年前にいたのです。

彼の残した学問的成果は、ローマ帝国やイスラムの帝国、中世ヨーロッパにも受け継がれて、近代まで2000年近くのあいだ権威であり続けました。

つまり、アリストテレスは、いわゆる「哲学」の枠におさまる存在ではありません。人類にとっての「学問・科学全体の基礎やたたき台」を築くうえで、巨大な貢献をしたといえます。その意味で、まさに世界史における「巨人」の1人です。



生い立ち


アリストテレスは、紀元前384年にギリシア北部の都市スタゲイロスに、マケドニア王の侍医を勤めた父ニコマコスの子として生まれました。母親も恵まれた家の出身でした。

スタゲイロスの町はギリシアの北側にあるマケドニア王国の近隣で、その支配下にありました。そして、スタゲイロスは、イオニア人というギリシア人の一派が築いた都市です。イオニア人は、アナトリア(今のトルコ)北西部やギリシア中部をおもな居住地としていました。アリストテレスは、イオニア系ギリシア人ということです。

おそらく、少年時代のアリストテレスは、父の医療や手術を身近にみていたことでしょう。また、マケドニアの王宮にも、父に連れられて出入りしたはずです。このことは、彼ののちのキャリアに影響をあたえることになります。

とにかく、彼はエリート家庭で恵まれた子ども時代を過ごしたということです。

ただ、父ニコマコスは早死にしてしまいます。アリストテレスは、親戚の保護のもとに育ちました。親戚は、良い教育を彼に与えてくれました。そして、前367年頃、17歳か18歳のときには、ギリシア最大の都市国家(ポリス)で、文化の中心だったアテネ(アテナイ)へ出て学問をすることになりました。


アテネのアカデメイアに入門


アテネは、紀元前400年代にはギリシアの中心としておおいに繁栄するようになりました。そして、アリストテレスの時代(紀元前300年代後半)には、政治的には衰退や混乱はありましたが、その文化は最高潮に達していました。

古代ギリシアの哲学の歴史は、紀元前600年頃のタレスなどに始まるとされます。タレスの頃からアリストテレスの時代までの200数十年のあいだに、最初は素朴なものだった哲学は急速に発展し、さまざまな遺産が集大成されつつありました。

古代ギリシアの哲学における最大の巨匠であるプラトンやアリストテレスは、そのような「最初の集大成」の時代に登場したスターといえます。

田舎町から大都会アテネへ出てきたアリストテレス少年は、プラトンが主宰するアカデメイア(アカデミー)学院の門下生となりました。

プラトンは当時60歳頃で、名高い巨匠として円熟期を迎えていました。当時のギリシアには公的な学校はなく、学者や教師が主宰する私塾があるだけでした。アカデメイアは、そのような私塾の最高峰です。

その頃のアテネでは、イソクラテスという弁論術に長けた学者による修辞学校がたいへんな勢いでした。弁論術は、当時のギリシアでは、立身出世のためには必須のスキルでした。

しかし、アリストテレスは、出世志向の実学コースには目もくれず、アカデメイアをめざしたようです。

彼がやりたかったのは、プラトン学派が行っているような、この世界の原理や真理の探究だったということです。それが、17歳の頃すでにはっきりしていました。こういうコースの選択は、もしも父親が生きていたら「ダメだ、お前は医者になるんだ」と反対されたにちがいありません。

アリストテレスは、入学以来プラトンが死ぬまでの20年間、アカデメイアの学徒であり続けました。最初は一学生でしたが、やがて教授をしたり執筆したりする立場になっていきました。


とにかく本を読む人


若いときからの彼の学び方の特徴は、「とにかく本を読む」ということです。

これは、今の学問の世界なら普通のことです。ところが当時は、学問のなかで「本を読む」ことの比重は、今よりもずっと低かったのです。人が文章を読み上げるのを聴いたり、対話したりといった「耳からの学問」の比重が高かったのでした。

しかし、アリストテレスはおそらく、短時間でより多くの情報に触れることのできる、本の黙読ということを好んだのでしょう。それは当時、やや独特の志向でした。

師匠のプラトンは、アリストテレスの住居を「読書家の家」と呼んだといいます。「とにかく本が好き」と評したのです。そこには「ちょっと変わった奴」と揶揄するニュアンスも込められていました。

また、あまりにも熱心に学問にはげむので、プラトンは「クセノクラテス(おもな弟子の1人)には拍車が要るが、アリストテレスには手綱が要る」とも言っています。(山本光雄『アリストテレス』岩波新書、3~4㌻)

なお、当時のギリシアの本は、パピルスの巻物という、古代の西アジア(中東)や地中海世界に独特のスタイルの書物です。若い頃のアリストテレスは、アカデメイアの書庫でパピルスの巻物をしばしば読みふけったにちがいありません。


プラトンへの批判


学者として成長するにつれてアリストテレスは、師匠のプラトンの説に批判的になっていきました。

プラトンの学説の柱は、イデア論というものです。その説によれば、万物にはそれぞれに、その本質を体現した理想的で不変の「イデア」という対応物が存在します。つまり、この世界はイデアの影のようなものです。この世界のほかに、イデアによって構成される、真実の・完全な世界が存在しているというのです。

これは、この世界にある個別具体的なものごとの背後にある、共通性や本質を論理的に探究していった結果、たどりついた考えです。

この世界が多様でありながら、一方で共通性が存在するのは、イデアによって構成される本質的な世界が、根源的なものとして日常の世界の背後にあるからだ。そう考えれば説明できる、というわけです。

こういう考え方は、神の世界を信じる宗教的な発想を、哲学的に表現したものといえます。

古代ギリシアの頃にはまだキリスト教はありませんが、ギリシア人固有の多神教は深く根をおろしていました。そのように宗教が有力な社会では、イデア論の発想は出てきて当然だったのでしょう。イデア論は「論理的に洗練された神がかり」でした。

しかしアリストテレスは、この世界の事物とは別にイデアなどというものがあるのではない、という立場でした。共通性や本質は、それぞれの事物のなかに存在する性質を、人間が抽象というアタマの働きによって認識したものであると。

イデアなどというものを想定したって、この世界の現実は何もわからない。真理をきわめるには、この世界の具体的な事実に分け入っていくしかないではないか。

そして、プラトン学派の人びとは、あまりにも神がかり的で、頭の中だけで理論を構築しようとする思弁的な傾向が強すぎる。

以上のようにアリストテレスは考えたのです。

アリストテレスがこのように考えた背景には、彼の出自であるイオニア系の学問文化があるかもしれません。

イオニアには、知覚可能な自然現象を重視して世界の根源を追究する「自然学」の伝統がありました。あるいは、医師という現実的・実務的にものごとに対処する専門家の子弟だったことも関係しているかもしれなません。しかし、はっきりしたことはわかりません。


アカデメイアを去る


以上のような反プラトン的立場であっても、アリストテレスはプラトンに対し弟子としての忠義は尽くしました。

彼が若い頃から、プラトンによる、緻密な論理で世界の原理を説明しようとする学の世界に魅せられていたのは確かで、学の巨匠としてのプラトンへの尊敬も本物でした。だがしかし、学説的な立場は異なる、ということです。

アリストテレスの後の著作(『ニコマコス倫理学』)に、「プラトンは愛すべき友だ、しかしより以上に愛すべきは真理」という有名な言葉があるります。これが、彼の信条でありスタンスでした。

そして、意見の相違はあっても、「学徒たちは互いに対等な立場で自由に議論すべき」という伝統がギリシアの学問の世界にはありました。とくにアカデメイアはそうだったのでしょう。アリストテレスが師匠やプラトン学派の仲間から異端として追放されるようなことはありませんでした。いろいろな対立はあったはずですが、とにかく彼は20年もアカデメイアにいたのです。

これは、2300年以上前の大昔の人間社会としては、驚くべきことだと思いませんか?

こういう、多様な意見が共存し得る懐の深さが、当時のギリシアの社会や文化のすごいところです。そして、こうした社会のあり方こそ、学問が発展する原動力でした。

しかし、前347年、アリストテレスが37歳の頃に、プラトンが80歳ほどで亡くなると、彼はついにアカデメイアを辞めてアテネを去りました。

これについて、「アリストテレスは、つぎの学頭(学院長)の候補の1人だったが、後継争いに敗れたから去ったのだ」という説もあります。ただ、彼がもしも学頭としてアカデメイアに残ったとしても、他の学徒たちとの考えのちがいから、結局去ることになったのではないでしょうか。


遍歴のはじまり


その後アリストテレスは、いくつかの場所を転々としながら、研究生活を続けました。

最初に移ったのはアナトリア(今のトルコ)のアッソスという都市で、この土地を支配する有力者(プラトン門下でもあった)の招きによるものでした。そして、この有力者の姪で養女であった女性と結婚しています。ただし、この女性は結婚後数年で亡くなり、その後アリストテレスは、新たな内縁の妻と暮らしました。

なお、彼には自分の父の名をとったニコマコスという息子がいましたが、おそらくは後の妻とのあいだの子どもだったと思われます。

前述の有力者の支援で、アリストテレスはアテネ時代の学友テオフラストス(前372/369~前288/285)らとともに、アッソスの地にアカデメイアの分派的な学院をつくり、論理学や自然学などの講義や研究を行いました。

テオフラストスは、その後もアリストテレスの第一の弟子として行動をともにします。「植物学の祖」として科学史に名を残した学者でもあります。

しかし、アッソスにやって来て3年後に、支援者だった有力者が不慮の死を遂げてしまいました。そこで、今度はテオフラストスの故郷である、地中海のレスボス島のミュティレネに移りました。


海辺で生物を研究する


ミュティレネ時代のアリストテレスは、海岸で魚介類などの海洋生物の研究に熱中しました。

アリストテレスは、最初の偉大な生物学者といえます。彼が残した自然科学系の著作で現在伝わっているもののうち、最も多くを占めるのは生物学に関するものです。

彼の著作全体で登場する生物は500種余りに及び、それらについてさまざまな観察や解剖を行ったとみられます。

たとえば、彼はクジラが胎生であることを解明しています。発生学の元祖のような研究も行っています。

また、アリストテレスは生物分類学の元祖でもありました。

たとえば、アリストテレスはさまざまな生物を理論的に整理・分類しようとして、「有血動物」「無血動物」というカテゴリーを提唱しています。「有血」「無血」というのはヘモグロビンを含む赤い血液の有無であり、今の知識でいえば有血動物=せきつい動物、無血動物=無せきつい動物ということになります。

また、アリストテレスは「同じ場所を占め、同じものを食べて生きる動物どうしの闘い」についても例をあげて述べています。これは生態学における「生態学的地位」の考え方にあたります。

何の先行研究もないところから、このような、今の科学知識にも通じる概念をあみ出したというのが、アリストテレスのすごさです。

彼以前には、広汎な生物の知識を追求した学者などいませんでした。彼は海岸でさまざまな生物を拾い集めたり、ときには漁師に海の生き物の生態について聞いたりしていますが、それは哲学者としては(当時はもちろん、今も)一般的なことではありません。

しかし、彼は世界のさまざまなことについて知りたかったのです。生物界は、この世界のきわめて重要な構成要素のひとつなので外せません。

生物について知るには、近現代の学者なら、生物の専門研究者が書いた著作を読めばいいでしょう。しかし、アリストテレスの時代にはそんなものは存在しませんでした。

そこで、生物について知るために、彼はまず海岸へ行かなければならなかったのです。


「生の事実」から幅広い学問をつくる


アリストテレスは、きわめて広い範囲の分野について書き残しました。

論理学、倫理学のようないかにも哲学という分野だけではない。政治学、経済学、心理学のような社会・人文的分野、そして力学、天文学、気象学、生物学、生理学などの自然科学的分野。

現在に伝わる彼の著作の全体は、日本語では岩波書店の『アリストテレス全集』で読むことができます。この全集は(私の手元にある昭和に出た旧版では)、1冊平均500ページほどで全17巻。合計すると約9000ページになります。

そして、これらの著作のうちのほぼ半数は、自然科学的分野のものです。

全集の各巻のタイトルでいえば「自然学」「天体論/生成消滅論」「気象論/宇宙論」「霊魂論/自然学小論集/気息について」「動物誌」「動物部分論」「動物運動論/動物進行論/動物発生論」「小品集(機械学・植物についてなど)」「問題集(人体その他)」といったものです。(板倉聖宣『科学者伝記小事典』「アリストテレス」の項による)

アリストテレス全集(昭和に出た旧版)

以上の「全集」におさめられた自然科学的な著作のどのテーマについても、アリストテレスには参照できる先行研究など、ほぼありませんでした。

そこで、海岸に貝を拾いに行くように、生の事実・現象をそれぞれの分野について自分自身で、あるいは弟子を使って集めたのでした。

社会科学的な分野でも、それは同様でした。アリストテレスの「全集」のなかに「アテナイ人の国制」というとくに分厚い巻があります。これは160ほどのポリス(都市国家)について、国家体制や法体系、社会慣習などについて調査した、その報告集です。

自分の政治学を築くために、「海岸で貝を拾う」ように、こういう基礎データを集めたということです。


「世界の全体像」を描く


しかし、何をめざしてそんなにもいろんなデータを集めようとしたのでしょう?

それは、「世界の全体像」を描くためです。アリストテレスが生涯をかけて追究したのは、この「全体像」ということでした。

世界はさまざまなものごとから成り立っています。人間の精神や社会生活。自然界をみれば物理、天体、気象などがあり、多様な生物の世界があります。

これらのすべてを扱わなければ「全体」にはなりません。人間のことだけではダメ。物理や天体、あるいは生物だけを究めても足りない。「森羅万象」について調べて理論化していくことが必要です。そうアリストテレスは考え、実行したのでした。

そして、「森羅万象」について知ることで、はじめてそれらを貫く一般的な論理や全体的な構造・関連性を正確に論じることができる、というわけです。

このような世界についての一般論は、彼の著作のなかでは「論理学」や、「形而上学(けいじじょうがく)」などの抽象度の高い哲学的議論の領域でおもに扱われています。

世界についての一般理論を築くなど、専門分化のすすんだ今の学問の世界では、とても考えられません。しかもアリストテレスの場合、「海岸で貝を拾う」ところから、その理論構築に着手したのです。

なんと無謀な。しかし、彼は彼の時代なりのレベルで、それを相当にやり切ったといえるでしょう。

だからこそ、のちの時代――ローマ帝国や、中世のイスラムの帝国や近代初頭までのヨーロッパの国ぐにでは、多くの学者がアリストテレスの圧倒的な迫力に魅せられたのです。

そして、その著作集を「世界について何でも答えを出している本」としてありがたがったのでした。わからないことがあると、「アリストテレスはなんと書いているだろう」と調べて、何か書いてあるとそれで満足する、といったことが知識人の相場になっていきました。

彼は敬意をこめて「万学の祖」と言われるようにもなりました。あらゆる学問の元祖であると。これは、必ずしも誇張ではありませんでした。


学問は「驚き」から始まる


アリストテレスは著書『形而上学』で、「学問は“驚き”から始まる」ということを述べています。

驚異することによって人間は、今日もそうであるが、あの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し[哲学し]始めたのである。ただし、そのはじめには、ごく身近な事柄を不思議としてこれに驚異の念をいだき、それからしだいに少しずつ進んではるかに大きな事象についても疑念をいだくようになったのである。

出隆『アリストテレス哲学入門』62ページにおける抄訳

この「驚き」「驚異」とは、この世界の驚くべき大きさ、多様さ、複雑さ、深さ、美しさ、精緻さ、巧妙さ、一貫性や体系性、相互の関連、等々への感動のことです。

アリストテレスは、そのような「驚き」を、当時において最大・最高レベルで感じ取った人間でした。いや、史上最高レベルで味わいつくした1人といっていいでしょう。


アリストテレスの(当然の)限界


しかし、彼が描き出した「世界の全体像」や、それを構成する各論は、穴だらけで多くの間違いに満ちていました。

ガリレオによって否定される力学運動の理論は、アリストテレスの誤謬の代表格です。そして、アリストテレスはデモクリトス学派の原子論(原子と真空の存在)にも反対の立場でしたが、これも大きなまちがいでした。

また、彼は「霊魂(精神)は心臓に存在する」などとも主張しています。彼に先行するヒポクラテスもプラトンも「精神の座は脳」だと述べているにもかかわらず、です。

この世界の真の全体像を、ひとつの球体にたとえるなら、アリストテレスの描いたのは、実際よりも小さく、でこぼこで歪んだ、穴だらけのきわめて不完全な球体でした。まあ、それは仕方のない、当然の限界です。

そして、プラトン学派的な神がかりを否定していたのに、結局はこの世の究極的な原因として「不動の動者」という神のような超越的存在を想定したりもしています。

アリストテレスのなかには、やはりどこかにプラトン的な発想が残っていたのかもしれません。

しかし、アリステレスが残した学問的遺産は多くの場合、ガリレオのような後世の意欲的な学者にとって、「これは本当なのか?」と追及したくなるような具体性や明晰性を持っていました。だからこそ、ガリレオはアリストテレスに挑みました。そして、実験をもとに古代の巨匠のまちがいを明らかにすることができたのです。

つまり、彼の理論は、誤りが多々あったしても、学問・科学の発展に刺激を与えた面がおおいにあるということです。

彼の学問は「この世の本体はイデアである」みたいな、つかみどころがなく、実験的に証明も反証もできないものとは、まるでちがうのです。

アテネを離れて遍歴をするなかで、アリストテレスは着実にそのような自分の学問の基礎を築いていきました。


アレクサンドロスの家庭教師


そして、ミュティレネに移った翌年の前342年、42歳の頃に大きな転機が訪れます。マケドニア王国のフィリッポス王に招かれて、当時13歳だった王子の教師となったのです。

王子のための学院がつくられ、アリストテレスはその学院長となりました。そして、少なくとも2年ほどは王子の教育にあたりました。

この王子が、のちのアレクサンドロス大王です。この招へいの背景には、アリストテレスの仲間による推薦がありましたが、彼の父がフィリッポスの父王の侍医だったことも作用していたのではないかとも考えられます(また、おそらくフィリッポスも子供時代のアリストテレスを知っていたはず)。

アリストテレスが、アレクサンドロスにどんな影響を与えたのかは、よくわかっていません。ただ、のちに大遠征の中で、アレクサンドロスは古典の一節をときどき口ずさんでいたというから、それなりの教養を先生から学んだのはたしかのようです。

しかし、アリストテレスが残した政治学的著作では、彼のいう理想国家とは、あくまでこじんまりとしたポリス(都市国家)でした。さらに、ギリシア人だけがすぐれていて、その他の民族は劣等だとしています。

つまり、この点ではアリストテレスの世界観はきわめて狭いもので、諸民族の文明が融合されるような世界帝国を築く発想とは全然ちがっていました。
そこで、アリストテレスの教育が少なくとも直接的に、「アレクサンドロス大王」を生んだということではないでしょう。

なお、もともとマケドニアというのはギリシアの一部ではありましたが、アテネなどの中心部からみれば、まるで片田舎でした。

そして、ポリスで暮らした主流のギリシア人とちがって、マケドニア人はかなり広い範囲を支配する「王国」を築いていました。この王国は、君主が強権で支配する、アテネなどの民主政とは大きく異なる体制でした。その点でも、マケドニアはギリシアの主流から外れていました。

しかし、マケドニアは強大化して、フィリッポス王はギリシアのほぼ全体を支配するようになります。前338年、カイロネイアの戦いという重要な合戦で、マケドニア軍はアテネなどのポリス連合軍をうち破りました。

全ギリシアの支配者となったマケドニア。しかし、ギリシアに君臨するようになってまもなく、前336年にフィリッポス王は暗殺されてしまいました。

これでマケドニアの勢いは衰えるかとも思われました。しかし、20歳の王子アレクサンドロスへの権力継承はスムースで、マケドニアのギリシアへの支配は揺らぐことがありませんでした。

それどころか前334年、アレクサンドロスは東の隣の超大国で、ギリシアの宿敵だったアケメネス朝(ペルシア)への進攻を開始したのでした。「アレクサンドロスの東征」です。これは父の意思を継ぐものでもありました。

ご存知のとおり、その後アレクサンドロスは、おもにアケメネス朝の領域を継承するかたちで、今のトルコ、イラン、イラク、エジプト、さらには中央アジアの一部などを支配下におく大帝国を築くことになります。


リュケイオンの時代


その一方、フィリッポス死後の前335年、50歳頃のアリストテレスは、マケドニア支配下となったアテネに久しぶりに戻りました。アレクサンドロスの庇護のもとでのことです。

権力をバックに、アリストテレスは、当時も権威を保っていた古巣のアカデメイアで学頭におさまることもできたはずです。

しかし、彼は自分の新しい学院をつくって、そこで自分の学をすすめていくことを選びました。その学院は、設置された場所の守護神にちなんで「リュケイオン」と呼ばれました。校舎は既存の体育施設を流用したものでした。

リュケイオンで、彼は12年にわたって充実した学問研究を淡々と続けました。

彼の学院には、すぐれた弟子たちが集まりました。研究予算も潤沢でした。大王の配下であるアテネの総督は学問に理解があり、さまざまな金銭的支援を与え、便宜をはかってくれました。遠征先の大王の軍隊から、現地で手に入れた珍しい生物の標本が送られてくることもありました。

彼がめざしていた「世界の全体像」を描くためのデータの収集は、当初の個人商店レベルの活動から、当時としては最高レベルの組織的なものへと拡大したのでした。

彼の学問は、この恵まれた環境がなかったら、あそこまでのものにはならなかったでしょう。


アレクサンドロスの死と最晩年


しかし、前323年秋にインド方面への遠征から戻ろうとしていたアレクサンドロス大王が病で急死すると、状況が変わりました。アテネでは、強大な指導者を失ったマケドニアから独立を取り戻そうとする反マケドニアの機運が高まりました。

マケドニアの支援を受けてきたアリストテレスは、アテネで迫害されることを恐れて、母親の出身地であるカルキスという土地に逃れました。

そこで静かに学問生活を送ろうとしたのですが、翌年の前322年に、この地で胃の病のため没したのでした。60代前半(62歳頃)での死でした。

リュケイオンの研究環境がもっと長く続き、長生きできていたら、彼の描く「世界の全体像」の解像度は、さらに上がったにちがいありません。しかし、それはかなわなかったのです。


AIと共同作業する、未来の「アリストテレス」


そして、私はつぎのようなことを、ぼんやりと考えたりもします。それは

これからの時代に「アリストテレス」は再びあらわれるか

ということです。ここでいう「アリストテレス」とは、以下のような存在をさします。

同時代に存在する、森羅万象についての知見を徹底的に収集し、総合して、後世に長く影響をあたえ得る説得力を持つ「世界の全体像」を描き出す知性

現代では、学問・科学の専門分化がおおいにすすんでいるので、そんな「アリストテレス」的な知性は成立しえないと考えるのが、普通でしょう。私も、基本的には「むずかしいだろう」とは思います。

しかし、一方で「生成AIのような技術がさらにすすむと、どうなるかわからない」とも思います。

未来において、AIが森羅万象についてそれなりに説得力のあるかたちで整理したアウトプットを行う可能性は、あるでしょう。

しかし、それ以上に可能性が高く、そしてより意義があるのは、生成AIがもたらす、編集・整理された森羅万象についての情報をもとに、さらにそれを整理して「世界の全体像」を、高度の学問的レベルで描き出す(生身の)知識人があらわれることではないかと。

ただし、そのように「世界の全体像」を描き出すには、AIの能力だけでなく、世界についての情報を集積した「データベース」の内容が、もっともっと充実する必要があるでしょう。現在のネット上の情報のようなものでは、貧弱すぎます。

そして、そのような高度の「データベース」は、未来において実現するかもしれません。技術的には、現在の延長線上で可能なのですから。

そのときには、AIと共同作業する「未来のアリストテレス」が登場する可能性があるのではないか……

学問的知識の蓄積がきわめて限られていた2300年前の時代に、無謀にも「世界の全体像」を描き出そうとした人間がいたのです。

そして、アリストテレス以降の哲学史では、近代哲学の何人かの巨匠が、「世界の全体像」を更新しようと試みています。近代科学が世界についての新しい知見をもたらし始めたのに刺激を受けてのことです。

デカルト、ジョン・ロック、カント、ヘーゲル、そしてマルクス(ヘーゲルにおおいに影響を受けた)は、そのような「巨匠」にあたります。これらの大哲学者たちはいずれも、人文・社会系の学問だけでなく、同時代の自然科学についても探究しています。たとえば、ロックは大学で医学を学び医師として働いたことがあり、カントやヘーゲルの学位論文は天体・宇宙に関するものでした。これらの近代哲学の巨匠たちは、近代における「やや限定的なアリストテレス」といえます。

1800年代のヘーゲルやマルクス以降、アリストテレス的な「世界の全体像」に取り組む、大きな影響力のある学者はあらわれていません。この200〜300年ほど、科学・学問に携わる人びとの主流は、「全体像」よりも細分化と専門化に注力してきました。

しかし、現代の科学・学問による巨大な蓄積に加え、それに立ち向かい得る高性能のAIのような「道具」がそろったとしたら、未来においてアリストテレス的な意志を持つ知性がまたあらわれても、不思議ではないでしょう。

そして、そのような「未来のアリストテレス」を駆り立てる原動力もまた、この世界に対する「驚き」であるはずです。

また、もしも未来にそんな「アリストテレス」があらわれるとしたら、人類にはまだそれなりの(古代ギリシアの最盛期やかつての近代のような)知的な活気やエネルギーがあるということです。反対に何百年経ってもあらわれないとしたら、ある種の成熟に達したとはいえ、活力はかなり衰えたといえるでしょう。。

***

大きな図書館に行くと、どこかに『アリストテレス全集』があるかもしれません。みつけたらぜひ、全巻の背表紙だけでもじっくり眺めてみてください。

2300年以上前の、日本なら縄文末期か弥生時代の初めに、これだけの学問的著作を残した人間がいたということに、あらためて驚かされるはずです。


関連記事
「世界史の巨人」といえる人物についての記事を、今後も書いていきます。ベンジャミン・フランクリンの記事は、その第1回目。このアリストテレスの記事は第2回目です。


参考文献


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