・戦争は人ごとではないと吹聴する輩の目的
P:昨今、アメリカのトランプ大統領とウクライナのゼレンスキー大統領の会談が破談に終わったと報道された。かれこれ三年継続しているこのウクライナとロシア間の戦争だが、未だに平和への道のりは不透明である。
こういったことが取り沙汰される度に、平和というものが一体何なのかという問いが提示される。日本でも日々、ウクライナなどの海外の【戦争は人ごとではない】と叫ぶ輩が多数出没する。
こういった論調の人々を見て私が常々思う偽らざるところは、【今のところ戦争は自分にとっては人ごと】以外の何物でもないという気持ちである。
【戦争は人ごとではない】という人々はなぜこのようなことを言うのか、そしてその言葉の真意はどこにあるのかということを個人的な見解を交えて深堀りしていこうと思う。
R:他の世代がどうかはわからないが、私の世代における日本の戦争教育は実に巧妙で、日教組の独自支配からはだしのゲンを漫画的な面白さとは別に、思想教育的な意味合いで図書館に置いたりと戦争を仕掛けた日本が悪いという風に教えられていた。
それに反旗を翻したように一昔前に登場した小林よしのりのゴーマニズム宣言戦争論なども斜め読みした私からすれば、どちらも極端に偏りすぎており調和が取れていない。
どちらも相手に対するアンチという立場を保ちたいがゆえに論争をふっかけているようにしか見えないのだ。
我々が真にすべきなのは自分と相手との不可逆の立場の違いを認識しながらも、融和点を模索することであり、相手をこき下ろし自己承認欲求を満たすだけの対立のための対立を続けることではない。
こういった経験から【戦争は他人事ではない】という人々は、まず過去の戦争体験にベースを置いていることがわかる。太平洋戦争の惨禍を思えば、こんなことを繰り返してはいけないという認識は日本国民の大半で共有されているのだろう。かくいう私もそう教育されてきたし、その点はよく理解している。
今となっては少なくなった戦争体験者やその関係者も皆、異口同音に【戦争はしてはダメだ】とのたまう。もちろん戦争そのものが悲惨な結末を生むのは過去の歴史を紐解けば明らかだが、現況はそんなアタリマエのことを幾度も繰り返して言っている場合ではないと強く感じる。
私は【搦手】という言葉が好きだが、常々超法規的な措置を含めて【戦争を殺す】ということをしていかなければ平和は叶えられないのだと強く思う。現にウクライナやパレスチナを見ていればわかるが、所謂真っ当な正論は相手の責任を問う言葉となり、その場において戦闘を止めるという意味を持たないからだ。
私から見れば戦争体験者の老人連をはじめとして、【戦争はしてはダメだ】と言っているだけでは【ダメ】なのだと思えるのだ。
E:先日フランスのマクロン大統領の核の傘に関する発言で、被爆者らを含む遺族が憤りを感じているという声明を発表した。彼らの主張では、例え平和であっても核兵器に担保されたものであるというなら、そんなものは必要ではないということなのだろう。
しかし詰まる所、核兵器という忌むべき拮抗する武力がもたらしたものであっても、平和は平和でしかない。平和という結果をもたらす方法は一つではないのだ。
自分も長年生きていれば自身の理想とは裏腹に、現実のあり様は異なることが多い。決して自分の思い通りの結末ではなく、歪な類似品を突きつけられることもしばしばだ。
だが、理想に殉じ妥協を廃するという考え方に凝り固まっている人々にとっては、理想通りの現実以外は認めないという狭量さが垣間見えてしまうのだ。
戦争反対を叫ぶ輩の動機は今ある現実がどうしても受け入れられず、自分たちの理想でない現実世界が憎ましく思えているからではないかと思う次第である。
P:戦争反対を声高に叫ぶ輩の中には、それ自体を自身のアイデンティティとして拠り所として活動しているものもいるだろう。その結果として平和が実現できるのであれば、例え自己承認欲求に塗れたものであろうと、動機は問わないし、やれるものならやってみろとも思う。なんなら同情混じりの応援さえも心に抱く。
広島の平和記念資料館は、まだ訪れたことがないが今後人生の中で一度でもいいから行ってみたいと思っている。しかし入場料を取って私腹を肥やしているものがいるというのであれば、今からでもいいから【原爆を落とされたことを商売のタネにしていることを自覚すべきである】し、【原爆投下そのものを観光資源】として、利益を得ていることにも自覚的になってもらいたい。それで得たカネで是非【戦争を殺す】タネを育んでもらいたい。
正直、ここまで言えるのは自分が匿名であるからに由来するが、今までなされてきた平和教育というものになんの疑問も抱かずに本当の平和が勝ち取れるのかということに関しては日々疑念を抱きながら生きている今日このごろである。
