・【孤立妊婦】というパワーワード
P:2次元限定異性愛者であるところの私であるが、仕事の関係上リアル女性の顧客に対応することも多い。
そういったこともあり、先日のニュースを見ていてこんな記事が気になった。
父親が分からない子を妊娠・出産した「孤立妊婦」2年間を追う…“孤立”と“喜び”のはざまで子育てと向き合う女性に必要な支援とは(HBCニュース北海道) - Yahoo!ニュース
こういった話になると、必ず当事者女性を巡って無意味な正論が交わされることになる。一方は父親のいない子どもを生む女性を責める立場、もう一方は不在の父親を責めて女性を養護する立場である。
往々にしてこの両派の対立構造を呈するこういった話は、昔の自分であれば「おうおう、益体もない正論をぶつけ合うバカどもがまたやってるな」くらいにしか思わなかったはずだ。
しかし、日々の生活の端々から社会の継続性に疑問符が持ち上がってくる昨今、どうにも一般社会人としての立場から無視できない重大事なのではないかと思うようになったのだ。
今回も私見を綴っていこうと思う。多少尊大な物言いにはなるが、いつも通りそういうものだとご理解いただきたい。
R:当たり前のことを言うようだが、社会にとって【子どもは宝】である。なぜそうなのかといえば、子どもは将来的に成人し、消費と生産の主体となる予定の存在だからである。加えて成人以前の子供の立場であっても消費によって経済を回す存在であると定義されていることに疑いの余地はない。
社会経済的な意味合いにおいて言えば、子どもが社会の一員であるということはそういうことなのだ。であるならば、人口が増えれば増えるほどに社会は発展するだろうと考えることも当然だと言える。
しかし実際の妊娠・出産は新生児という一個の命に関わる責任ある問題である。取り扱い方を誤れば、生まれて幸せになるはずだった命が様々な不幸の形でその生を終わることにもなるだろう。そして第一義的な責任は誕生に関わった両親にある。
しかし今回、その片方である父親が不在であるということに問題の端緒があるのだ。
ケース・バイ・ケース、個々人によって状況は様々だろう。ゆえにどれがどう、ということは一概には言えない。だが、【物語を生み出す想像力を信奉する自分の立場】から言えば、これもやっぱり【想像力の欠如】ということになってしまう。性教育の敗北とも言えるこの事態は、やはりリスクに対する【想像力の欠如】にこそ原因の本質があるのではないか。
E:私は発達障害などのいわゆる精神疾患に分類される症状に関しては、自分が鬱病を患った経験からある程度の知識はある。今回のケースでは児童養護施設出身の22歳元風俗嬢で軽度の発達障害を患っているということらしい。私は風俗関係の出身者に孤立妊婦が多い印象を抱いているが、これもやはり知的レベルの低さからくる【想像力の欠如】が問題であるように思われる。
悲しいかな知的レベルの低い女性は、やはり同様に知的レベルの低い男性にカモられるという構図が成り立っている。これは生まれ育った環境による影響が絶大なのは疑いようもないが、結果として周りからは男性関係にだらしない女性として見られることになるだろう。
私は周囲の人間のこういった女性に対する【性的にだらしない】という考えは理解できるし、女性側を単に被害者として立てて擁護したがる連中は、その女性の為を思ってではなく、自分が叩かれないためだけに言っているのだと思っている。
厳しいことを言うようだが、その事実に関しては言われる側も自覚を持って受け止めてもらいたいと思う。しかし本当に重要なのは、これを単なる誹謗中傷レベルの【烙印】や【レッテル】にするのではなく、その苦い経験を糧にいかに今後の人生をより良いものにしていくかではないかと思うのだ。
【性的にだらしなかった】ことは認めていい。むしろ過ちを過ちと理解できなければ同じ経緯でもうひとり子どもが増えることになりかねない。
むしろ大切なのは今ここから始まるあなたとこどもの人生なのである。
P:私は無駄に女性の肩を持つことで大切な経験を学ぶ機会を奪うべきではないと言っているのだ。擁護する立場にある人間は、当事者であるその女性が、今後幸せに生きていく上で大切なことは一体何なのかということを真面目に考えていただきたい。
その女性の気持ちを思ってとか、場当たり的に叩かれないためだけに耳障りの良いことを言っているだけでは問題の本質は見えてこない。もう一度言うが、問題の本質はリスクを見極められない【想像力の欠如】にあるのだ。
当事者を責めるだけでも擁護するだけでも問題は解決しないのだ。問題の本質を見極める必要がある。
とはいうものの。
なんのことはない、かくいう私も愚か者なのだ。こうして論じていながら、この社会問題を解決する有効策のひとつさえ思いつかず、口ばかり達者でまったく無力な存在でしかない。だが今はそれでいい。
ソクラテスではないが自分の無力さ、愚かさを認めることも賢者であろうとする者の特権である。こうして持論を展開することもある意味、愚かで無力な自分という存在を再認識するための儀式でもあるのだ。
果たしてそれが今後どのような意味や価値を持つのかはわからないが、それでも自分が自分であることの証左にくらいはなるだろう。
