なぜ、人を育てることは難しいのか。——「育てる側」の構え
以前の記事で、「あなたのため」という言葉がすれ違う理由について書きました。結論は、自分の判断基準を、一度手放すことでした。
「自分にとって正しいこと」を相手に与えるのではなく、「相手にとって何が必要なのか」を考える。そのためには、自分が正しいと思っていることを、いったん脇に置く必要があります。
では、その先で、具体的に何をするのか。
今回は、その続きの話です。人を育てる、という営みについて。
相手がうまくいかなかったとき、育てる側にはいつも、ある選択肢が用意されています。
「能力が足りない」「やる気がない」「最近の若い人は」。
これは相手に原因を求める見方です。多くの場合、意識しないままこちらへ流れていきます。育てる側に悪意があるわけではありません。むしろ、相手のためを思っているからこそ、こう考えてしまうことのほうが多いくらいです。
ある創業社長の話があります。起業したばかりの頃、代表が誰よりも動き、決め、指示を出さなければ組織は回りません。しかし事業が育つにつれ、社長は次第にあることに気づかなくなっていきます。自分にとっては当たり前になっていることが、経験の浅い社員にはまったく当たり前ではない、ということにです。
若い社員に仕事を任せても、うまくできない。時間がかかる。当然のことです。しかし、自分が普通ではないことを自覚していない社長は、見ていられなくなります。「なんでそんなこともできないんだ」「貸せ、俺がやったほうが早い」。
社員の側から見える景色は、まったく違います。どうせまた取り上げられる。一生懸命やる意味はない。全部社長がやればいい。任される経験を積めないまま、いつまでも成長しない社員ができあがっていきます。
社長は、部下が育たない環境を、自分自身の手で作ってしまっているのです。しかも、そのことに気づく機会は、意外なほど少ないのです。
「できる」と「できるようにする」は、なぜ違うのか。
ここには、一つの一般化できる構造があります。
自分ができるようになることと、相手ができるようになるようにすることは、まったく別の難しさだ、ということです。
前者は、自分の中で完結します。練習し、失敗し、修正すれば、いつか身につきます。しかし後者は、他人の中で起きる変化を、外から手助けしなければなりません。自分の頭の中にある「当たり前」を、いったん言葉に分解し、相手が理解できる形に翻訳し、しかもその変化が起きるまでの時間差に耐える必要があります。
自分ができるようになる人はたくさんいます。しかし、教える、育てるという行為において一人前と言える人が圧倒的に少ないのは、偶然ではなく、必然なのだと思います。
しかも厄介なことに、育てるという立場そのものが、その難しさにさらに輪をかけます。育てる側は、指摘や違和感の声を受け取りにくい位置に立たされます。部下や後輩から、面と向かって「あなたのやり方は間違っている」と言われる機会は、驚くほど少ないものです。立場が上がるほど、更新フィードバックは自然には流れ込んでこなくなります。
できることと、できるようにさせることの違い。そして、更新フィードバックが届きにくくなる立場の性質。この二つが重なったところに、あの社長の「貸せ、俺がやったほうが早い」が生まれます。
一方で、まったく違う関わり方をした人もいます。
子供に自転車の乗り方を教えるとき、その人はペダルを漕ぐこと、ハンドルを操作すること、地面から足を離して自立することという三つの技術を、あえて同時に教えませんでした。ペダルのない二輪車を使い、一番難しい「自立する」という技術だけを、他の要素と切り離して練習させたのです。
事前にしたのは、乗れている子供たちの姿を見せて、「自分もできるようになりたい」という気持ちを盛り上げることだけでした。あとは、ほとんど教えていません。本人が言うには、「勝手に覚えた印象」だったそうです。
育てるということを、教えた量の総量で測るなら、この関わり方は「何もしていない」に見えるかもしれません。しかし実際には、環境を整え、動機に火をつけ、本人が動ける余白を残す、という働きかけがそこにはありました。
できる人が、できない人を待てずに奪ってしまう。それが、先ほどの社長でした。
できる人が、あえて奪わない。それが、この関わり方です。
同じ「教える」という営みの中に、まったく逆の構造が存在しています。
ここに、育てる側にとって本当の分岐点があります。
相手がうまくいけば、自分の関わり方が機能したことを知ることができます。では、うまくいかなかったときはどうでしょうか。
相手の問題として片づけることもできます。自分の関わり方を見直すこともできます。どちらを選ぶかによって、育てる側自身の成長は、大きく変わっていきます。
相手がうまくいかなかった、という同じ事実からでも、そこから何を受け取るかは変えられます。相手の能力不足という情報として処理することもできれば、自分の関わり方を更新するための情報として処理することもできる。同じ現実から、まったく違う更新フィードバックを取り出せるということです。
以前、更新条項つきのベストを持つ、という構えについて書きました。今のやり方を、現時点での最善として強く信じながらも、それを世界の正解だとは思わない。そういう構えが、成長には必要だという話でした。
この構えは、育つ側だけのものではありません。育てる側にも、同じ構えが求められています。
ただし、育てる側にとってこの構えを持ち続けることは、育つ側だった頃よりもずっと難しいのです。理由はここまで見てきた通りです。できることとできるようにさせることの違い、そして立場そのものが更新フィードバックを遮断しやすいという構造。育てる側は、この二つの難しさを、同時に引き受けている場所に立っています。
だからといって、「相手ができない」を「自分の育て方が間違っている」に、そのまま単純化する必要もありません。育てる側だって、すべての人をうまく育てられるわけではないのです。大切なのは、失敗しないことではありません。失敗したときにも、そこから何かを受け取れる状態でいられるかどうかです。
厳しいけれど、責めるための話ではありません。
人を育てるということは、相手を変えることではないのだと思います。
相手の変化という鏡を通して、自分の育てる力そのものが、更新され続けることなのではないでしょうか。
育てる側に立つということは、育つ側から卒業することではありません。
