二本立てのタイムカプセル〜有楽町・亀戸映画館の追憶〜映画「追憶」
【第1章】昭和40年代、熱狂の有楽町サバイバル
現在のシネコンは実に見事です。スマートフォンで簡単に座席を予約し、ふかふかのリクライニングシートに腰掛け、静寂の中で極上の音響を楽しむことができます。ネットフリックスを開けば、世界中のあらゆる映画が手元で瞬時に再生されます。映画を観る環境としては、今が最も素晴らしい時代であることは間違いありません。
最近では、昔の古い映画フィルムを最新のデジタル技術で綺麗に蘇らせる「デジタルリマスター」という技術が本当に凄まじい進化を遂げています。フィルムの一コマ一コマについた傷やホコリを丁寧に取り除き、色あせてしまった色彩を鮮やかに復元する。劇場のスクリーンでデジタルリマスター版を観ていると、それが何十年も昔の映画だとはとても思えないほどです。まるで、たった今完成したばかりの最新作映画を観ているかのような美しさに、ただただ圧倒されてしまいます。
しかし、そんなピカピカに補正された高画質な空間に身を置くたび、私の脳裏には、今では信じられないほど混沌として、地熱のような熱気に満ちていた50年前の有楽町の暗闇が、かえって鮮烈に蘇ってくるのです。
1970年代半ば、中学生から高校生だった私は、まさに映画の魔力にどっぷりと取り憑かれていました。当時、有楽町や日比谷、上野といった東京の映画街は、文字通りのサバイバル空間でした。全席指定などというシステムはなく、立ち見が当たり前です。話題作ともなれば、劇場の通路や階段にまで人がぎっしりと座り込み、壁際に立ち並んだ人々の隙間からスクリーンを覗き込みました。一度切符を買って中に入れば入れ替えもありません。一本目が終わった瞬間に席を立つ人を目がけて、立ち見の観客が一斉に空いた座席へダッシュする「席取り合戦」が毎回繰り広げられていました。そこには、映画という巨大な娯楽を全員で共有する、お祭りのような圧倒的な熱量があったのです。
そんな熱狂の渦中、中学一年生なった4月、誰にも頼らず一人で有楽町へと向かいました。日劇の裏手の地下にあった「丸の内松竹」です。そこで上映されていたのが、日本中に空前のカンフーブームを巻き起こすことになるブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』でした。
あの劇場で、スクリーンから「アチョー!」という怪鳥音と、しびれるテーマ曲が響き渡った瞬間、私は全身に電流が走るような衝撃を受けました。圧倒的な強さと鋭い肉体美。画面からでも、剥き出しの凄まじいエネルギーが放たれ、私の魂を完全に射抜いてしまったのです。あまりの感動に、私は劇場のシートを握りしめたまま震えていました。そして、興奮冷めやらぬまま、なんと次の週もまた一人で同じ地下の映画館へと足を運んでいました。まだ世間の大半がブルース・リーの凄さに気づく直前、ほんの一握りのファンだけが熱狂していた、時代の最先端を走るようなワクワク感がそこにありました。
映画館を出て有楽町の眩しい光の中に放り出されたとき、なんだか自分が急に強くなったような、世界が変わって見えたような気がしました。その衝動は家に戻っても抑えきれません。私は学校の掃除用具入れにある木製のモップに目をつけました。あのモップの柄の太さといい、握ったときの重さといい、子供心に「これは絶対にヌンチャクになる!」とひらめいたのです。
木製モップをノコギリを使ってギコギコと二本の棒に切り分け、本物の雰囲気を出すために、黒のビニールテープを何重にもぐるぐると巻きつけました。最大の難関は二本の棒を繋ぐ「鎖」です。金具をねじ込み、針金で固定し、なんとか手作りの特製ヌンチャクを完成させました。必死に素振りの練習をし、振っている最中に鎖が外れて自分の頭や脛(すね)にぶつかり、激痛に悶絶するのも「カンフー修行」の通過点です。学校へ持っていき、一部のブルース・リー仲間の友達に見せたときの彼らの輝いた目は、今でも忘れられません。
ノイズ一つない最新のデジタルリマスター映画も素晴らしいですが、あのフィルムの向こうに、一人の少年が人生を狂わされるほどの本物の熱狂を見出したあの時代。私の映画人生の原点は、間違いなくあの昭和四十年代の、不完全だからこそ熱かった有楽町サバイバルの中にあったのです。
【第2章】深夜ラジオと、下町・亀戸スカラ座のパラダイス
当時の私は、毎月発売される映画雑誌『ロードショー』や『スクリーン』を欠かさず購入していました。どういうわけか、中学生の割には結構なお小遣いをもらっていたため、毎月あの分厚い誌面を開いては、海外のスターや新作映画のグラビアに胸を躍らせていました。部屋の壁には、付録の特大ポスターを大切に貼っていました。その中心にいたのは、強さの象徴であるブルース・リーと、当時の男子中学生にとっての初恋そのものだった『小さな恋のメロディ』のトレーシー・ハイドでした。
また、『セイ!ヤング』などの深夜ラジオを聴きながら必死に応募した「試写会プレゼント」も、当時の10代の映画ファンにとって外せないイベントでした。ハガキを何枚も書いて、数日後に郵便受けに「試写会招待状」を見つけた瞬間の嬉しさは格別です。タダで観られる嬉しさで有楽町や銀座の試写室に足を運ぶものの、始まってみたら『ヤコペッティの大残酷』のような、悪趣味でグロテスクな風刺劇を見せられ、「……なんだこれ?」と頭を抱えてしまうような、つまらなすぎて見てるのがつらい迷作もありました。でも、それも含めて、銀座へ映画を観に行くという背伸びした体験自体が、最高にエキサイティングな冒険でした。
そんな私の主戦場であり、最高のパラダイスだったのが、下町の「亀戸スカラ座」です。有楽町などの大劇場での上映が終わった洋画が、しばらくするとこの劇場に「三本立て」として降りてきました。お小遣いが限られている中学生にとって、朝から映画館に潜り込み、一日中映画に没頭できるこの場所は、何物にも代えがたい宝箱でした。
当時の亀戸の街には、まだ今のような便利さはありません。日本にようやくセブン-イレブンが現れて数年ほどが経ったばかりの時代です。本当に朝7時から夜11時までの営業で、24時間営業の店などなく、日曜日ともなれば、朝早くに開いている店は近くにもありませんでした。そのため、日曜日の朝に映画館へ向かっても、道中で昼食のパンを買い求めることすらできなかったのです。
そんなお腹を空かせた私を救ってくれたのが、亀戸スカラ座の中にあった、あの懐かしい「ハンバーガーの自動販売機」でした。お金を入れてボタンを押すと、中で加熱され、少し時間が経ってから、熱々でしわしわになった箱がゴトッと落ちてくるのです。箱を開けると、熱気でパンが少しふやけていて、お世辞にも高級とは言えないけれど、どこか愛嬌のある味がしました。あの独特なハンバーガーの味と、薄暗い劇場の匂い、そしてこれから始まる映画へのワクワク感が、私の体の中で一つに溶け合っていました。私にとっての亀戸スカラ座の記憶は、あの自販機ハンバーガーの味そのものなのです。
そこで私は、映画の本当の面白さを教わりました。雑誌で大々的に宣伝されていたお目当ての超大作は意外と退屈だったりする一方で、同時上映の「ついで」に観たアメリカのB級映画が、理屈抜きに圧倒的に面白いという経験を何度もしたのです。
たとえば、有楽町の東宝系劇場が満員で入れず、上野東急まで駆け込んで立ち見で観た『エクソシスト』の恐怖も強烈でしたが、亀戸スカラ座の三本立てで出会ったアメ車爆走映画『バニシングin60″』や、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』のバイオレンスには魂を揺さぶられました。さらに、熱々の自販機ハンバーガーを頬張りながら、他の映画のついでだった『ダーティハリー』で、クリント・イーストウッドが巨大な44マグナムをぶっ放した瞬間のしびれるような格好良さは、映画館のシートを握りしめるほどの衝撃でした。宣伝の大きさに騙されず、「自分の目で見て、自分で感じる」という映画ファンとしての目利きは、あの亀戸の暗闇と、あの自販機の味と共に育てられたのだと思います。
今のデジタルリマスター版とは違い、当時のいわゆる「二番館」や「名画座」へと降りてきたフィルムは、お世辞にも綺麗とは言えませんでした。多くの映画館を巡ってきたフィルムは傷だらけで、画面には常に無数の雨のようなノイズが走り、経年劣化のせいで画面全体がどこか赤っぽく退色していました。時にはフィルムが途中で切れて繋ぎ合わされたのか、登場人物のセリフや場面が突然パッと飛んでしまうことぐらい当たり前の時代だったのです。
【第3章】人生のサウンドトラックになった 映画『追憶』
そんな映画漬けの日々の中で、中学生の私にとって「どういうわけか毎月雑誌で名画扱いされているけれど、本当の意味がよくわからない映画」がありました。ロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドが主演した、1973年の映画『追憶』です。
バーブラが歌う主題歌の、切なく美しいメロディはラジオの洋楽ベスト10で何度も聴いて知っていましたし、映画館でも「良い音楽だな」とは感じていました。しかし、育ちが良く政治に無関心なハブォ(日本式だとハベル)と、政治運動に身を投じるケイティという、愛し合っているのに価値観の違いや時代の荒波によってすれ違っていく大人のドラマは、14歳や15歳の少年には理解できませんでした。「お互いに大好きなのになぜ別れなければならないのか」が、当時の私にはどうしてもわからなかったのです。
しかし、この『追憶』という映画は、亀戸スカラ座の暗闇の中で、私の記憶の奥底にそっと仕まい込まれた「タイムカプセル」となっていました。
あれから長い年月が流れ、私も大人になりました。人生の中で、本当に心から人を愛することを知りました。そして、愛すれば愛するほど、結婚してもすれ違い、つらい思いを重ね、結局は別れてしまうという、ほろ苦い人生の現実を身をもって経験しました。
その後20年ぐらい、私はあの『追憶』を何十年ぶりかに観返したのです。スクリーンに映し出されたのは、かつて意味の分からなかった、ニューヨークのプラザホテル前でのあのラストシーンでした。
時が流れ、別々の人生を歩む二人が偶然再会します。ハブォには新しい妻がいて、ケイティは相変わらず街頭で活動を続けている。ケイティがハブォの乱れた髪をそっと直してあげて、多くを語らずにただ愛おしそうに抱きしめ合い、それぞれの道へと戻っていく。その瞬間に、あの美しい主題歌が流れたとき、私の目からは涙が止まらなくなりました。愛し合っているのに一緒に生きられない切なさが、自分が通り抜けてきた人生の痛みとピタッと重なり、心の奥底まで響き渡ったのです。
今でも、私にとってこの作品は特別な存在です。どういうわけか、あの主題歌を耳にすると、毎月映画雑誌を広げて特製ヌンチャクを自作していた、あの無邪気な中学生時代を思い出します。しかし、映画のあのラストシーンの映像を見ると、今でも別れた妻の面影が鮮烈に浮かび上がってくるのです。ひとつの映画が、私の人生の異なる二つの大切な時代を、時空を超えて繋ぎ止めてくれています。
もし、今、街の雑踏の中で彼女にばったり会ったとしたら、私はあのロバート・レッドフォードのように、彼女をそっと抱きしめてあげるような真似ができるかどうかはわかりません。けれど、目を合わせるだけで、言葉にせずとも過ごした、わずかな時間でしたがすべてがわかり合える、そんな気がしています。
【結び】ゴジラへの拍手、そしてこれからの暗闇へ
1981年2月、私の青春のランドマークだった有楽町の日劇が解体されることになりました。その「さよなら日劇フェスティバル」の最終盤、上映されたのは『ゴジラ』でした。劇中で巨大なゴジラによって日劇の建物が粉々に破壊されるシーンが映し出された瞬間、客席を埋め尽くした満員の観客から、一斉に大きな拍手が沸き起こりました。自分が今座っているまさにその場所が壊されていく姿を、涙ではなく、映画ファンならではの最高の敬意と笑いと拍手で見送る。あれほど粋で、映画への愛に満ちた夜を、私は他に知りません。
ちなみに、京橋にあった「テアトル東京」も特別な場所でした。当時の映画館はどこも「立ち見・自由席・入れ替えなし」が当たり前だった中、テアトル東京は「全席指定・完全入れ替え制」という、高級感のある贅沢なシステムを取り入れていました。そのスクリーンの形も独特で、劇場の横幅いっぱいに広がった巨大な湾曲スクリーン(シネラマ)だったため、一番前の席に座ってしまうと、視界のすべてが画面になってしまい、両サイドが見えなくなるほどでした。ここで観た黒澤映画『七人の侍』のプレミアム上映や、『未知との遭遇』で巨大なマザーシップが画面いっぱいに広がっていく大迫力は、今でも脳裏に焼きついています。
日劇が消え、スバル座が閉館し、テアトル東京の巨大なスクリーンも過去のものとなり、有楽町の街並みはすっかり変わりました。今のシネコンで、かつての70年代の少し暗くて、スリルとサスペンスに満ちた面白いアメリカ映画を二本立てでやってくれたなら、どんなに素晴らしいだろうと思います。しかし、朝の映画祭などで上映されていても、日々の仕事や生活に追われる今の私には、なかなか映画館へ足を運ぶ時間が作れません。
それでも、私はあの頃の暗闇を寂しいものだとは思いません。亀戸スカラ座や有楽町スバル座で過ごしたあの時間は、今も私の心の中で色褪せないタイムカプセルとして生き続けているからです。あの時、映画館で浴びた光と影、そして人生の酸いも甘いも教えてくれた数々の名作たちは、今も私の歩む道を静かに照らし続けてくれています。
