犬
犬を買った。156,000円(税込)だった。犬種はわからない。もちろんペットショップでは、犬種が書かれた札が掲示されてはいたが、忘れてしまった。ゴールデン・レトリバーとかダックスフンドのようなメジャーなそれではなかった気がする。とにかく可愛い。いまも足元でしっぽを振っている。顎の下を触り、額? と言っていいのかわからないが両耳のあいだのふさふさを触る。名前を考えなければいけない気がした。気がしたというのは、別に考えなくてもいいのではないか、という気持ちもあるからだ。犬はきっと、与えられた名前の意味を理解しないし、犬同士で呼び合うこともない。あくまで人間が識別するための記号に過ぎない。とはいえ呼びかける際に「犬」では、失礼すぎるような気がしたので、いったん「利益」と呼ぶことにした。「おい利益」と声かけると、利益は嬉しそうに、といってもそれもこちらがそう判断しているだけなのだが、とにかく尻尾を激しく振った。
利益はこの家に来て幸せだろうか。喋らないし、一定の動きを繰り返しているので、その辺りがわからない。動物の声を人間の言語に翻訳するというものもあるようだが、どうにも信用できない。動物というのは、人間が見たいように見えてくるものだと、どこかで思っているのだ。なぜならいま、利益は嬉しそうだと私は思っていて、実際に私は利益に嬉しく思ってほしいと考えているのだ。利益はいま笑っているように見えるが、じつは激昂しているかもしれない。この勘違いは恐ろしいことだ。
そもそも考えてみれば、犬だと思っているが、実際には猫かもしれないし、マンドリルかもしれない。たしかに犬のような見た目をしているが、道端などでは見かけないような色、かたちをしている。鳴き声も「ワン」というよりは、「ヴォェェェ」といった感じなのだ。利益、お前は犬ではないのか。「ヴォェェェ」まあ仮に犬でなかったとしてなんだと言うのだろう。私は利益を愛すと決めたのだ。
散歩をするため、利益の首にリードを付ける。首には毛がなく、軟式ボールのような凹凸が薄ら浮かんでいる。そして周りの毛の茶色と異なり、その一帯だけわずかに紫がかっている。「おい利益、散歩にいくぞ」「ヴォェェェ」扉を開けると、利益は激しく尻尾を振りはじめる。どこを散歩しようか。とりあえず川沿いを歩くとしよう。通りに出、歩道を歩いていると、向こうから下校途中だろうか、小学生三人組が歩いてくる。女子一人が小走りで駆け寄って来、「わあ可愛いワン…え?」数歩後ずさる。後ろを歩く残り二人を振り返る。残り二人も利益を見、戸惑った様子を見せる。女子が「え、これ犬ですか…?」「それがわからないんだ。犬だと思うか?」「いや、犬ではないと思います…」ほかの二人も「うん、犬じゃない。これなに…?」「変なの付いてるし」「変なの?」女子が指を指す。辿っていくと、胴のあたりに左右、それぞれイルカのヒレのようなものが付いている。言われてみれば、たしかに犬にはこのようなものがない気がする。女子が「これ触ってみてもいいですか?」「ああ構わないよ」おそるおそる指でつまむ。すぐに手を離す。「うわグミみたい」ほか二人が続き「ぶにゃっとする」「寒天これ?」私も触ってみるが、たしかにゼリーを撫でているようだった。子供たちはけっきょく、なんか怖いと言って逃げ出してしまった。私としては犬種、あるいは科目を訊いてみたかったところなのだが。
通りをしばらく歩くと、民家がちらほら現れ、それもなくなってくると、木々のあいだに川が見える。流れに沿うように、人々がランニングやウォーキングをしている。利益は川を見ると「ヴィゲェェェギャォ…」二股に別れた舌を出し、興奮しているのかなんなのか、明らかに様子をおかしくする。「楽しいのか利益」「嫌なのか?」「ヴィゲェェェギャォゥゥ…」道行く人に向かって、利益は吠え始める。気づいた者たちは怪訝な目を向け「なにあれ?」「こわ」「逃げたほうがいいかも」口々につぶやく。利益は首をぶんぶんと振り、リードを振り切って、川のほうへと走っていく。そして水に触れると、ヒレのようなものを広げる。着水し、川の流れに沿って、すいすいと泳ぎ始める。「おい利益どこいくんだ」私も走っていく。利益はバタフライのときの手のように、ヒレを上から叩きつける格好で水を掻き、すいすい進んでいく。「おい利益」私は利益のスピードに合わせ、川沿いの砂利道を並走していく。「利益! どこ行くんだ!」「ヴィゲェェェギャォゥゥイーヒッヒ」利益の形状が、明らかに変わっているような気がした。あのヒレのような部分が、コウモリのつばさのように大きな、かつ折り畳めそうな線の付いたものになっている。水からわずかに出す顔も、顔というより、目がひとつになっていて、しかも巨大だ。いよいよ、犬、とはさすがに言えないようなものになっていることは認めなければならない。だがどうであれ、私は利益を愛すのだ。利益のつるんと湾曲した背中が、水面から出たり沈んだりしている。飼い主としてそこに乗ってみたいと思った。タイミングを合わせ、背中が出た瞬間に飛ぼうと思ったが、それでは遅い。なかなか頃合いが測れない。このままでは利益が去ってしまう。いまや利益は、自分にとってはなくてはならない存在だった。利益、おい利益。愛してるよ。利益は水を含むと膨らむ体質なのか、両の川岸と接するほどに大きくなってきている。意を決して跳躍すると、ゴムのような背に体が当たり、滑り落ちてしまう。すぐに立ち上がり、走り出すが水流に足を取られ、上手く進めない。利益がどんどん離れていく。「ヴィゲェェェギャォゥゥイーヒッヒゲボラゲボ」利益の鳴き声が遠くでこだましている。追いかけながら、私は利益をペットショップで買ったときのことを思い出していた。両隣で駆け回る仔犬たちをよそに、利益は仰向けで寝転び、その大きな瞳を虚空へ向けていた。しばらく見ていると、こちらに視線を向けた。一瞬だったが、数時間にも数日にも感じられるほど長い時間だった。飼ってほしいのだ、と思ったが、それもいま考えればこちらの勝手な判断である。だがいま、あのように川を自由に泳いでいる姿を見ると、やはりあそこから出してやったことは正しかったのだろうと思う。利益の姿、その芋虫によく似た尻尾が遠ざかっていく。そういえば私は利益を買った日、人を殺めていた。それが誰かはわからないし、いまになってみれば、人かどうかもわからない。もちろん人かもしれないし、動物かもしれない。だが利益を買ってから、それはどちらでもいいことなのだ、と思うようになった。
