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現代に描く年表地図で超明示解説! 戦争はいつ始まり、いつ終わるのか?

「戦争」の始まりはいつ?と聞かれて、あなたは何を思い浮かべますか? 爆弾が投下され、銃声が鳴り響く日でしょうか。しかし、本当の戦争は、物理的な攻撃が始まるずっと前から、静かに始まっているのかもしれません。
そして、戦後80年の今、私たちはどんな未来を選ぼうとしているのでしょうか…

日本の戦争の歴史年表地図 始まりは1840年アヘン戦争から

この記事では、戦後80年だからこそはっきりと並べて言える日本の戦争の実態について解説します。
1840年のアヘン戦争から1958年のビキニ環礁水爆実験までの約120年間を、一本の川の流れのように辿ります。それは、日本が「大日本帝国」へと向かう「外に向かう戦争」のフェーズと、その暴走を止めるべく世界が動き、日本「内に迫る戦争」へと転換するフェーズの二つの大きな流れに分かれています。この歴史のうねりの中に、現代を生きる私たちへの重要な問いが隠されています。

プロローグ:黒船が運んできた「恐怖」と「野心」(Stage 0)

物語の始まりは、日本がまだ静かな眠りの中にいた江戸時代。しかし、その眠りを揺り動かす衝撃が、海の向こうからやってきます。

1840-1842年 アヘン戦争と南京条約
隣国・清がイギリスとの戦争に敗れ、不平等条約(南京条約)を結ばされました。アジアの大国が西洋の軍事力の前に屈したという事実は、日本中の武士たちに計り知れない衝撃と恐怖を与えました。「次は我が身だ」と。

1853-1854年 黒船来航と開国
アメリカのペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航。武力を背景に開国を迫ります。恐怖の中、幕府は日米和親条約を結び、200年以上続いた鎖国は終わりを告げました。日本は、望まぬ形で世界の荒波に漕ぎ出すことになります。

南京条約を結んだ清国の惨状を目の当たりにし、同じ目に遭いたくないと警戒していたがアメリカに不平等条約を突きつけられた日本。この屈辱と恐怖が、「欧米列強に追いつき、追い越せ」「世界で咲き誇る日本」という強烈なエネルギーを生み出します。これが、後に「大日本帝国」へと繋がる道の、最初の第一歩でした。

第一部:外に向かう戦争 - 大日本帝国への歪んだ道(Stage 1)

明治維新を経て、近代国家として歩み始めた日本。しかしその道は、かつて自分が受けた痛みを他国(現在の中国)に与えることで、列強の仲間入りを目指すという、歪んだ道でした。

1873年 徴兵令 ―「体の動員」
国民皆兵制度が始まります。これは、戦争を遂行するための「体の動員」でした。しかし、当然ながら「兵隊になんてなりたくない」と抵抗する人々も多くいました。体だけを動員しても、心が付いてこなければ、強い軍隊は作れません。そこで「法改正」で国民を従わせるための地盤を作ります。

1889-1890年 大日本帝国憲法と教育勅語 ―「心の動員」
政府は、巧みな二段構えの策を打ちます。まず、大日本帝国憲法で天皇を「神聖にして侵すべからず」とする元首(天皇主権)と位置づけ、神格化します。そして翌年、明治天皇の名で「教育勅語」を発布。忠君愛国、親孝行、そして何より「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(いざという時は国のために身を捧げ、皇室の運命を助けなさい)」という自己犠牲の精神を、全国民に徹底的に叩き込みました。これは、まさしく「心の動員」でした。

教育勅語は、日清戦争が始まるわずか4年前に発布され、戦後GHQによって廃止されるまで58年間、日本の教育の根幹に君臨し続けました。戦争の年数より長くこの思想に染め上げられ、国のために死ぬことが最高の美徳だと信じて一生を終えた人々が、数えきれないほどいたのです。

体と心を国家に捧げる兵士の準備が整った日本は、いよいよ「外に向かう戦争」へと舵を切ります。

1894-1895年 日清戦争 ― 列強への仲間入りと最初の過ち
朝鮮半島をめぐり清と衝突。勝利した日本は、下関条約で多額の賠償金と領土を獲得します。これにより、日本は欧米列強から「一人前の国」と見なされるようになりました。しかし、その代償として、かつて自分が結ばされた不平等条約の痛みを忘れ、今度は清にそれを押し付けたのです。

1905年 日露戦争 ― 栄光と限界
大国ロシアに辛くも勝利。しかし、国力は限界に達しており、アメリカの仲介で講和を結びます。賠償金が得られなかったことに不満を抱いた民衆が「日比谷焼打事件」を起こすなど、国民の期待と国家の現実との乖離が顕在化し始めました。

1931-1933年 満州事変と国際的孤立 ― 暴走の始まり
世界恐慌の波が日本を襲い、「資源なき国」の焦りは頂点に達します。関東軍は独断で満州事変を起こし、翌年には傀儡国家「満州国」を建国。「五族協和」という美しい理想を掲げましたが、実態は日本の支配下にあり、国際連盟から侵略行為と断定されます。これを不服とした日本は、1933年、国際連盟を脱退。世界からの孤立を選び、単独での暴走を始めます。

欧米列強に負けず「世界で咲き誇る」日本を目指すと誓い、大日本帝国を築くため満州国の建国を目指した

【フェーズ転換】

ここから、歴史の流れは大きく変わります。日本の「外に向かう戦争(中国侵略)」という一方的な流れは、戦争資源不足と、その暴走を止めようとする国際社会の圧力によって、日本の「内に迫る戦争(本土爆撃)」へと姿を変えていくのです。

第二部:内に迫る戦争(本土爆撃) - 止められなかった破滅への道(Stage 2)

国際社会から孤立した日本。しかし、その歩みを止めるどころか、さらに深く、泥沼の戦争へと突き進んでいきます。一般的に「日本の戦争被害」として語られる太平洋戦争は、実は、日本が戦争資源を求めた他国への侵略を止めさせるための「内に迫る戦争」だったという視点が、ここでの鍵となります。

1937年 盧溝橋(ろこうきょう)事件と日中戦争 ― 終わらない泥沼へ
北京郊外での小競り合いをきっかけに、日中戦争が勃発。近衛文麿首相は「国民政府を相手にせず」と声明を出し、和平交渉の道を自ら断ち切ってしまいます。資源を求めた戦争は、8年にも及ぶ出口のない泥沼へと変わりました。

1939-1941年 ABCD包囲網と真珠湾攻撃
北(ソ連)へ資源を求めればノモンハン事件で大敗し、南(東南アジア)へ活路を見出そうとすれば、アメリカ・イギリス・中国・オランダによる経済制裁「ABCD包囲網」が敷かれます。特に石油の禁輸は、日本の戦争継続能力を根底から揺るがしました。追い詰められた日本は、1941年12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃。自ら「内に迫る戦争」の引き金を引いてしまったのです。

驚くべきことに、アメリカは真珠湾攻撃の直後から、すでに戦後の日本占領(GHQ)の準備を始めていました。国際社会は、日本の暴走を終わらせるためのシナリオを描き始めていたのです。

第三部:破局と仮説 - 原爆は誰が落とさせたのか?

日本の戦争史51年間(1894-1945)の中で、本土が直接攻撃に晒されたのは、サイパン島が陥落した1944年夏からの、わずか1年余りでした。それまでの約50年間、日本は主に中国を、その後、東南アジア諸国を攻撃する側だったのです。戦争の舞台は海の向こうの遠い外国であり、日本国内は危険に晒されることはありませんでした。しかし、その最後の1年は、凄惨を極めました。

1945年3月-8月 本土空襲、沖縄戦、そして原爆
東京大空襲、沖縄戦、そして日本各地への無差別爆撃。日本は焦土と化していきます。しかし、軍部は「一億玉砕」を叫び、戦争を終える決断ができませんでした。日本は、日清戦争以来、何度も和平交渉の機会がありながら、それをことごとく蹴り、自ら破滅の道を選び続けてきたのです。

左側アメリカによる日本抑止に対して「ぜったいにあきらめない日本」GHQの準備、核実験の歴史

【仮説】原爆投下は「実験」だったのではないか?

ここからは、日本が省みるべき最も重要な問いかけのひとつです。
アメリカは、日本が「自ら戦争を終わらせることができない国民性」であることを、熟知していました。この日本の特性を、冷徹な科学的データ収集に利用したのではないでしょうか。

  1. 1945年7月16日:アメリカ、ニューメキシコ州でプルトニウム型原爆の実験(トリニティ実験)に成功。

  2. 1945年7月26日:10日後、米英中がポツダム宣言を発し、日本に無条件降伏を勧告。日本政府はこれを「黙殺」。

  3. 1945年8月6日:約10日後、広島に、まだ実戦で使われていない「ウラン型」原爆を投下。

  4. 1945年8月9日:3日後、原爆を投下されてもまだ降伏の決断が遅い日本に対し、長崎に実験済みの「プルトニウム型」原爆を投下。

なぜ、実験済みのプルトニウム型を先に使わず、未知数のウラン型を広島に投下したのか。そして、なぜわずか3日後に種類が違う爆弾を投下したのか。 「どうせ原爆を一つ落とせば降伏するだろう。ならば、まず未実験のウラン型のデータを取ろう。もしそれで降伏しなければ、機を生かそう。時を置かずにプルトニウム型のデータも取り、戦争にとどめを刺せばいい」 …そんな恐ろしい計算が働いていた可能性は、否定しきれないのではないでしょうか。

もちろん、原爆投下という非人道的行為は断じて許されません。しかし、この悲劇は、ただアメリカの意志だけで起きたのでしょうか。中国を侵略していた時代から原爆投下までの間に、何度も何度も和平の機会をはねのけ、非科学的な精神論に固執し、戦争を止める勇気を持たなかった日本の指導者たちが、この「実験」の舞台を用意してしまったとは言えないでしょうか。

仮に原爆を投下した方が加害者で、日本が被害者だというのであれば、日本の戦争は、どのような状況になれば自らの意志で終わりを迎えることができたのでしょうか。そのゴールは、どういう姿であり、日本は何を得ることができれば満足したのでしょうか。その時、他国との関係はどうなのでしょうか。

結局、日本がポツダム宣言の受諾を決定したのは、長崎に原爆が投下された5日後の8月14日でした。あまりにも、多くの犠牲を払った末の決断でした。

エピローグ:未来像は? 日本の戦争は「思想に宿る」

戦争は、爆弾が落ちた日から始まるのではありません。
人々の心の中に「戦うことが正しい」という価値観が、静かに、しかし着実に育っていく過程こそが、戦争の本当の始まりなのです。

戦争のための兵士を育てるため教育勅語に象徴される「心の動員」が、日本を50年以上にわたる戦争へと駆り立てました。

戦後、教育勅語は廃止され、日本は平和憲法を手にしました。

戦争を終わらせることができなかった日本。
そして、戦後の平和をどう終わらせるかを語り始めた今の日本。

私たちは、どのような形なら「満足」することができるのでしょうか。 何を得れば、何を守れば、何を失えば、「これでいい」と言えるのでしょうか。

戦後80年、わたしたちを戦争の心配と無関係に生かしてくれた日本国憲法と民主主義。その否定の先に、どんな社会を望むのでしょうか。
それを描けないまま進む道は、かつての破滅の道と、どこが違うのでしょうか。

武装し、緊張し続け、場合によっては兵として出兵するような生き方で「日本を守っている」と自負する。戦って、戦って、戦って、戦って、戦う生き方を望んでいるのでしょうか。

それとも、そういう人たちに守られて、自分は安全で平和にのほほんと生きたい、ということなのでしょうか。

戦争は思想に宿る。 平和もまた、思想に宿る。
私たちは、どんな思想を育てていくのでしょうか。

歴史の川の流れは、決して過去のものではありません。今も私たちの足元で、未来へと向かって流れ続けているのです。


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