「改憲」は前進か、後退か?9条、夫婦別姓と皇室典範から透ける“回帰”への願望
「憲法改正」や「非核三原則の見直し」。近年、政治の舞台で盛んに議論されるこれらのテーマは、一見すると現状を打破し、未来へ向かうための“改革”のように響きます。しかし、高市首相によって「挑戦」という言葉を伴って語られるその言葉の裏側を深く覗き込むと、そこには前進とは真逆の、ある種の「過去への回帰」を志向する思想が潜んでいるのではないか──。そんな疑問が浮かび上がってきます。
本稿では、保守派の一部が掲げる主張の深層を分析します。特に、選択的夫婦別姓や皇室典範改正といった具体的な論点を通して、現代日本社会に横たわる「戦後民主主義」と「戦前的価値観」のせめぎ合いを考察していきます。
言葉の裏に潜む「回帰」の思想──「戦後レジームからの脱却」とは何か?
「戦後レジームからの脱却」というスローガンは、安倍政権下で登場しました。この言葉は、未来志向で自立的な国家を目指す、ポジティブな改革を想起させます。しかし、その内実を吟味すると、異なる側面が見えてきます。
このスローガンの背景には、次のような考え方が見え隠れします。
現行の日本国憲法は、第二次世界大戦後、アメリカによって「押しつけられた」ものであり、正統性に欠ける。 国民主権や基本的人権の保障が弱かった大日本帝国憲法のような「自主憲法」こそが、日本の本来あるべき姿である。 戦前の家制度や、国家への忠誠を説いた教育勅語的な価値観を取り戻すべきだ。
この視点に立てば、「改憲」は未来へのバージョンアップではなく、戦前の国家像への“逆戻り”を意味することになります。戦後に築かれた個人の尊厳、平等、民主主義といった価値観を“異物”とみなし、それ以前の状態に戻ろうとする動き。それは「自立」というより、特定の「過去の理想像への回帰」と呼ぶ方が適切なのかもしれません。
選択的夫婦別姓と皇室典範
なぜ「夫婦同姓」にこだわるのか?──選択的夫婦別姓と戦前的家族観
この「回帰」の思想は、選択的夫婦別姓制度をめぐる議論に色濃く反映されています。なぜ、個人の選択肢を増やすに過ぎないこの制度に、これほどまでの強い反対論が巻き起こるのでしょうか。
その理由は、保守派の一部にとって、選択的夫婦別姓が「戦後的価値観(個人の自由・多様性・ジェンダー平等)」の象徴と見なされているからです。彼らが守りたいと願う「美しい伝統」とは、戦前の「家制度」に根差した価値観に他なりません。
戦前の家制度では、家父長たる男性が絶対的な権力を持ち、個人の意思よりも「家」の存続が最優先されました。姓は「家」の象徴であり、女性は結婚によって夫の「家に入る(嫁ぐ)」存在として、姓を変えるのが当然とされていました。
この価値観から見れば、夫婦が異なる姓を名乗ることは、家族の一体感を損ない、ひいては「家」という伝統的な共同体を破壊する行為に映るのでしょう。つまり、夫婦別姓をめぐる対立は、単なる民法や戸籍法の問題ではなく、個人の尊厳を重んじる戦後民主主義と、家父長制的な戦前思想との価値観の衝突なのです。
皇室典範にも通底する価値観の境界線
この価値観の対立構造は、皇室のあり方を定める皇室典範の改正議論にも、驚くほど共通しています。
現在の皇室典範では、女性皇族は結婚すると皇籍を離脱し、女性天皇や女系天皇は認められていません。皇位継承者の減少が深刻な問題となる中、「女性皇族が結婚後も皇室に残れるようにすべき」「女性天皇・女系天皇を認めるべき」という声は国民の間でも多数を占めています。しかし、ここでも保守派の一部からは、強い反対の声が上がります。
その論理の根底にあるのは、やはり戦前の家制度的な価値観です。
皇統は「男系男子」によって万世一系で継承されるべきだという伝統観。
家父長制的な「家」の継承こそが国家安定の礎であるという信念。
女性は結婚すれば「家を出る」存在であるという前提。
これらは、選択的夫婦別姓への反対ロジックと同じ根を持っています。皇室を、近代的な家族ではなく、戦前的な「家」のモデルとして捉え、その存続を最優先する思想です。ここでもまた、私たちは「戦後的価値観」と「戦前的価値観」が引く、見えない境界線に直面するのです。
とはいえ、私自身は、天皇が男性であれ女性であれ、象徴としての役割を果たせるのであれば、性別にこだわる必要はないと感じています。 保守派の一部が主張する「旧宮家の復帰」も、理論的には一つの選択肢かもしれません。けれど、何世代にもわたって民間で暮らしてきた人々を、今になって皇族として迎え入れることが、果たして現実的なのか──その点には疑問が残ります。
また、仮に男系男子に限定し続けたとしても、将来的に再び継承の危機に直面する可能性はあり、問題の先送りに過ぎないのではないかという懸念もあります。
考察:なぜ今、私たちは「過去」を呼び戻そうとするのか?
戦後80年近くが経とうとしている今、なぜこれほどまでに戦前回帰的な思想が、政治の場で息を吹き返しているのでしょうか。
戦後の日本では、自民党の長期政権が「自助、共助、公助」のスローガンのもとで、日本の社会構造を個人ではなく「家族」単位に固定化してきました。社会保障や税制など、あらゆる制度が「標準世帯」を前提に設計され、個人が尊重されにくい構造が温存されてきました。この土壌が、個人よりも集団(家、国家)を優先する古い価値観の素地となっています。
もちろん、「伝統を大切にしたい」という気持ちそのものを否定するものではありません。しかし、問われるべきは、その「伝統」が誰かの自由や尊厳を犠牲にして成り立っていたのではないか、という点です。もしそうであるならば、私たちは過去を無批判に理想化するのではなく、それを見直す勇気を持つ必要があります。
さいごに:私たちが目指すべき「未来」の姿
もし本当に「自主憲法」を目指すのであれば、その道は過去への回帰であってはならないはずです。目指すべきは、現行憲法が掲げる個人の尊厳や基本的人権の保障という理念をさらに発展させ、現代社会の多様性や新しい家族のあり方を包摂する“未来志向のバージョンアップ”ではないでしょうか。
国家への忠誠を個人の命や自由の上に置く教育勅語のような思想が、現代の立憲民主主義と相容れないことは明らかです。私たちが目指すべきは、過去の制度に回帰することではなく、一人ひとりの多様性と尊厳が、等しく守られる未来を築くこと。そのために、私たちは今、目の前にある選択肢の本質を、冷静に見極める必要があると考えます。
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