「秘書がやりました」は世界で通用するのか?—SNS中傷動画疑惑から垣間見えた高市陣営の文化
日本の政治報道において、もはや「伝統芸能」とすら呼べる定型句がある。「秘書がやったことであり、私は知らなかった」という弁明である。政治資金の不正処理から選挙違反に至るまで、政治家本人の関与が疑われる事案が発生するたび、この言葉が繰り返されてきた。
そして今、この旧態依然とした責任逃れの構図が、SNSという現代のデジタルプラットフォームを舞台に再び展開されようとしている。週刊文春が報じた、高市早苗陣営による対立候補への「SNS中傷動画」投稿疑惑である。
報道によれば、昨年秋の自民党総裁選期間中、高市陣営がTikTokなどの政治系アカウントを利用し、小泉進次郎氏を「無能」、林芳正氏を「アウト」などと攻撃する動画を組織的に投稿していたという。公設第一秘書が陣営メンバーに動画のアップロードを指示するメッセージの存在も報じられているが、高市氏側は「そのような動画を作成して発信するといったことは一切行っていない」と関与を全面的に否定している。
おそらく、これまでの日本の政治文化の慣例に従えば、この問題も「秘書や一部スタッフの独断」として処理され、時間の経過とともにうやむやにされる公算が大きい。しかし、SNSという社会インフラを用いて他者の名誉を毀損する行為は、有権者の目にもその悪質性が極めてわかりやすい。
本稿では、この「秘書のやったこと」に対する責任の取り方について、海外の政治文化や法理と対比しながら、日本の政治家が抱える説明責任の欠如を浮き彫りにする。
日本の政治文化:「和」の裏に隠された責任の不在
なぜ日本では「秘書がやりました」という弁明がまかり通るのか。
それは、日本の政治システムと文化的背景が、個人の責任を曖昧にする構造を持っているからである。
自民党を揺るがした大規模な裏金スキャンダル(政治資金規正法違反事件)においても、その構造は如実に表れた。派閥の会計責任者や議員の秘書が次々と立件される一方で、多くの政治家本人は「不記載の事実は知らなかった」「秘書に任せていた」と主張し、法的な責任を免れた。政治資金規正法自体が、政治家本人の関与を立証しにくい「抜け穴」を抱えていることも事実だが、根底にあるのは責任の所在を個人に帰着させない文化である。
日本の意思決定プロセスは、事前の根回しと集団的な合意形成(コンセンサス)を重んじる。この「和」を尊ぶアプローチは、政策を円滑に進める上では機能するが、ひとたび不祥事や「暗部」が露見した際には、致命的な欠陥となる。決定に関わった主体が多岐にわたるため、「誰が最終的な責任者なのか」が意図的にぼかされるのである。結果として、トカゲの尻尾切りのように実務担当者(秘書や会計責任者)のみが処罰され、政治家本人は「監督不行き届き」という極めて軽い道義的責任を口にするだけで地位に留まり続ける。
しかし、陣営の公設秘書が組織的に対立候補の中傷動画を作成・拡散していたとすれば、それは単なる事務的なミスではない。選挙戦という政治家にとって最も重要なプロジェクトにおける、明確な意思を持った攻撃行為である。これを「知らなかった」で済ませることは、政治家としてのガバナンス能力の完全な欠如を自ら証明しているに等しい。
海外の政治文化:トップに求められる厳格な「使用者責任」
視点を海外に転じると、政治家やリーダーに対する責任の追及は、日本とは比較にならないほど厳格である。部下やスタッフの不祥事に対して「知らなかった」という弁明は、免罪符になるどころか、むしろリーダーとしての資質を疑われ、致命傷となるケースが多い。
イギリス:「知らなかった」こと自体が罪となる
イギリスの議会制民主主義においては、「個別の大臣責任(individual ministerial accountability)」という強力な原則が存在する。近年、この原則が問われた象徴的な事例が、キア・スターマー首相を直撃したピーター・マンデルソン氏の駐米大使任命スキャンダルである。
スターマー首相は、過去に性犯罪者ジェフリー・エプスタインとの不適切な関係が指摘されていたマンデルソン氏を要職に任命した。その後、情報機関が事前にマンデルソン氏のセキュリティ・クリアランス(適格性審査)に難色を示していたことが発覚する。スターマー首相は議会で「外務省の官僚が情報を隠蔽しており、私は知らなかった。激怒している」と弁明し、責任を官僚に押し付けた。
しかし、イギリスの野党やメディアはこれを許さなかった。「知らなかった」という主張に対し、野党党首は「なぜ自ら質問しなかったのか。それは知りたくなかったからだ」と痛烈に批判した。リーダーが重要な人事や陣営の行動において「無関心(incuriosity)」であること、あるいは不都合な真実から目を背けることは、それ自体が重大な過失とみなされるのである。結果として、このスキャンダルは政権の屋台骨を揺るがし、首相の辞任要求へと発展した。
また、前任のボリス・ジョンソン元首相が辞任に追い込まれた直接の引き金も、側近であるクリス・ピンチャー副幹事長の痴漢疑惑に対する対応だった。ジョンソン氏は当初「過去の疑惑は知らなかった」と説明したが、後に報告を受けていたことが発覚し、その虚偽説明と側近の管理責任を問われて政権崩壊に至った。イギリスでは、側近の不祥事に対するトップの「無知」や「虚偽」は、政治生命を絶つに十分な理由となる。
アメリカ:厳格な倫理規定と「代位責任」の議論
アメリカ連邦議会においても、議員やそのスタッフの不祥事に対する目は厳しい。下院倫理委員会は党派を問わず厳格な調査を行い、選挙資金の不正流用やスタッフの不適切行為が発覚した場合、多くの議員が調査の結論を待たずに辞任に追い込まれる。スタッフの行動は議員の責任と直結しているという認識が強いからだ。
さらに、法学や政治学の領域では、政治家や政党に対して「代位責任(Vicarious Liability)」あるいは「使用者責任(Respondeat Superior)」を適用すべきだという議論が活発に行われている。これは本来、企業において従業員が業務範囲内で行った不法行為に対し、雇用主が(直接の指示や認識がなくても)責任を負うという法理である。
政治家の秘書や陣営スタッフは、法的な意味での「従業員」とは異なる場合もあるが、実質的には政治家の「代理人(Agent)」として機能している。彼らが選挙戦を有利に進めるため、あるいは対立候補を貶めるために行った行為(今回のケースであればSNSでの中傷動画の拡散)は、明らかに政治家本人の利益のために行われた業務の範囲内である。したがって、政治家は「指示していない」「知らなかった」と逃げるのではなく、陣営の文化やガバナンスの欠如に対する責任を負うべきだ、というのが国際的な反腐敗・政治倫理の潮流である。
SNS時代の政治倫理:デジタル空間における「秘書の暴走」
今回の高市陣営の疑惑が特に深刻なのは、舞台がSNSという現代特有のプラットフォームである点だ。従来の選挙ポスターを破るといった物理的な妨害行為とは異なり、TikTokなどのショート動画は、匿名性を帯びたままアルゴリズムに乗って瞬時に数百万人に拡散される。
SNSを用いたネガティブキャンペーンは、発信元の特定を困難にすることで責任の所在を曖昧にする手法が常套化している。陣営の公式アカウントではなく、一見すると一般の政治系アカウントを装って中傷動画を投稿することは、極めて悪質で計算された情報操作(ディスインフォメーション)である。
このようなデジタル空間での工作活動を、「秘書が勝手にやったこと」で片付けることは許されない。現代の選挙戦において、SNS戦略は陣営の最重要課題の一つであり、トップの承認や方針なしに公設第一秘書レベルが独断で大規模なネガティブキャンペーンを展開するとは考えにくい。仮に本当に知らなかったとすれば、それは陣営内に「対立候補を中傷してでも勝てばいい」という有害な文化(Toxic culture)が蔓延しており、政治家本人がそれを放置・助長していたことを意味する。
さいごに:日本政治のアップデートに向けて
「秘書がやりました」という弁明は、もはや国際標準の政治倫理に照らしても、現代のデジタル社会の常識に照らしても、完全に賞味期限が切れている。
海外の事例が示すように、真のリーダーシップとは、部下の過ちや陣営の不祥事に対して自らが矢面に立ち、責任を引き受けることである。「知らなかった」と部下を切り捨てる行為は、政治家としての無能さと倫理的欠如の告白に他ならない。
高市陣営のSNS中傷動画疑惑は、単なる一陣営の不祥事にとどまらず、日本の政治文化全体に根深く存在する「無責任の構造」を改めて浮き彫りにした。有権者は、SNSという見えにくい空間で行われる他者への攻撃を厳しく監視するとともに、政治家に対して「知らなかった」では済まされない厳格な使用者責任と説明責任を突きつけていく必要がある。日本の政治文化がこの悪習から脱却しない限り、政治への信頼回復は永遠に訪れない。
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