一週遅れの映画評:『星つなぎのエリオ』うさんくせぇんだよ、おめーらは。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『星つなぎのエリオ』です。

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良さそうなのに良くない、っていうかなんか全体的にずっと「うさんくさい」感じがあるんですよね。
主人公のエリオは5歳。最近、両親が事故で他界してしまって今は叔母さんと二人で暮らしている。両親がいない寂しさでエリオは孤独を感じてるんですけど、それを解消するためには「宇宙人にさらわれるしかない」って思っているんです。要は現状にある問題や不満が「ここではないどこか」に行けば解決できると考えてるのね。
そんでひょんなことからやってきた宇宙船に乗ることになる。それが宇宙連合みたな集団で、色んな星から集まった宇宙人たちがそれぞれに一芸を……すごい技術とか超能力とかを持っていて、生活しているんです。そこでエリオは「地球のリーダー」だと勘違いされて招待されてしまった。
そんなところに戦闘民族みたいな宇宙人があらわれて「俺たちの戦力は優秀だ、宇宙連合に入れろ」と迫ってくる、そして断ったらお前たちをブッ壊してやるぞ! とも。平和的解決しか手段を持たない宇宙連合は、「エリオにかまってる場合じゃない」と慌てて戦闘民族から逃げようとするんだけど、どうしても宇宙連合に留まりたいエリオは戦闘民族との交渉役に名乗りを上げる。
その戦闘民族たちは巨大な金属製の外皮を持ってるんだけど、紆余曲折あってエリオはその戦闘民族の子どもで、柔らかいイモムシみたいな体をしているグロードンと出会い友情を深めていく……ってお話なんだけどね。
えっとね、この宇宙連合の人たちがかなりの人格者であるのよ。交渉に失敗したエリオに怒り狂って、戦闘民族たちが宇宙船を襲う。それでほぼ壊滅状態になったところで、エリオが地球のリーダーでもなんでもないただの子どもだってことがバレるのね。で、その事実を知った人が「どうする? 私からみんなに伝えてもいいんだけど……自分から話した方が良いと思うの」と言ってくれる。しかもその後にエリオだけでも、と強制的に地球へ送り返して戦闘民族たちの攻撃から守るんですよね。
エリオのせいでこうなったとも言える状況で「私たちがちゃんと確認しなかったのが悪いの」と反省し、決して強く責めることもなく子どもだからと助けようとする。さすが宇宙連合の構成員、素晴らしい倫理と対応をお持ちだ。
だけどなんか「うさんくさい」んですよぉ!
このうさんくささを説明するための補助線として、戦闘民族の子どもに注目したい。さっきも言ったように、ぷよぷよの柔らかいイモムシみたいな体をしてるグロードンは、見るからに脆弱なボディをしているんですよね。だけど大人の戦闘民族たちは金属製の外皮を有している。
これ実はバトルスーツみたいなもんで、この種族は成人するときに金属のバトルスーツを身にまとって、そこから一生それを脱ぐことはないことが説明されるの。さらには「中身を晒すことは屈辱である」とも。ここからさ、この戦闘民族たちの経緯が推し量れるじゃない?
恐らくは非常に弱い生き物だった彼らが、なんとか知恵と技術で脅威に対抗できる武器を作った。それでも元の姿では簡単に殺されてしまうような環境で、だからそのバトルスーツは簡単に脱ぐことが出来なかったわけですよ。そのまま長い年月が過ぎて、ついに眼の前の脅威を完全に排除するに至る。そこからは「脱いだら死んでしまう」という考え方は残ったまま、実際の危険に対処する術から精神論へと移行していった。まぁ、恐らくはそういった進化と進歩の歴史があることが読み取れる。
つまり彼らは彼らの積み重ねた歴史と文化の中で「戦闘民族」になっていったわけですよね。それって簡単に否定できるものでも、攻撃的だから暴力的だからいけないって断定できるものでは無いと思うんです。だけどこの作品で彼らの行動は端的に「良くないもの」として描かれているし、思いっきりネタバレをするんだけど、戦闘民族のリーダーはグロードンのパパで最後に息子を助けるためバトルスーツを脱いでしまうんです。
それは確かに親子の情を示す感動的なシーンではあるんだけど、あまりにも私たちの知っている親子愛、暴力の否定、平和主義に寄り添い過ぎてはいないですか? そこでは地球人の倫理観や常識によって、ひとつの宇宙生命が持ってる歴史と文化が否定されてるんです。
ってとこから話を戻して。宇宙連合の人たちは確かに人格者であり「良い人」ではあるんです。でもそれっていまの地球で「良い」とされてる価値観そのまんまなんですよね。私たちがこの作品を見て、パッと何も引っかかることなく「あっ、良い人だな」って思える、思ってしまうことの危険性がそこにあるんです。私たちが知ってる地球の倫理、地球の常識で「良い」と思えるものが、姿形や言語や生まれた星すら違う生き物と共通している。
それって絶対に嘘なんです、だって間違いなく眼の前には「違う倫理を持つ」戦闘民族たちがいるわけだから。
だからね、この作品「宇宙人」を出す意味がまったく無いんです。自分たちとまったく違うもの、相容れないもの、そういった存在は(戦闘民族みたいに)敵として扱われて。私たちにとって受け入れやすいもの、わかりやすいもの、考えなくて「良い」と判断できるもの、それが正しいと描いている。
確かに色んな姿をした宇宙人が出てくる。ウミウシみたいの、ナノサイズの群体、岩でできた体。そこには外見的な多様性がある。だけど、思想は、そこにある思想や哲学は「一様」なんです。一種類の私たちにとって気持ちの良いものしかない。あるいは危険なものは「敵」として扱われてしまう。
だから「うさんくさい」んです。見た目だけは表面上の多様性を打ち出しておきながら、その表面を取り去った中にはたったひとつの在り方しか認めない横暴さがある。
あのね、エリオは自分を取り巻く環境や状況に馴染めなくて「ここではないどこか」を求めていた。その辿り着く先が、たったひとつの在り方しか認めない世界なんです。孤独が救われるんじゃなくて、集団に属することで居場所を得る。恐らくその影には「そこに馴染めない別のエリオ」がいるだけなんですよね。
ひとりぼっちだったエリオに対して、彼のピンチを救うため世界中の無線マニアが協力するシーンがあるんです。そこには確かに「本当は君も孤独じゃないよ」ってメッセージがあり、感動的ではある。だけどそれと同時に「でもその”孤独じゃない”からこぼれてしまったら?」という問に対して、「ならばお前は敵だ」と指を突きつけて追い詰めてくる怖さの方を、私はより強く感じました。
きっと「星つなぎのエリオ」は「星につながれないエリオ」のことを受け入れない。
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次回は『近畿地方のある場所について』評を、みつけていただいてありがとうございます。
この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。
