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「おはよう」が飛び交う街で僕は暮らしてゆきたい

挨拶をしない子どもが増えたのは、挨拶をしない大人が増えたからだ。

以前、ブログにこんなことを書いていました。

知人の高校教員から、聞いた話です。

擬人が教えてくれたのが、ある高校で「挨拶運動のプロ」と呼ばれていた先生の話でした。が

その先生が赴任した学校は、不思議なくらい挨拶が活発になるのだそうです。

知人がその学校へ出張したときのこと。

校門へ続く一本道を歩いていると、すれ違う生徒が次々に、

「こんにちは」

と声をかけてきたそうです。

その道の先にあるのは高校だけです。

つまり、そこを歩いている大人は、ほぼ間違いなく学校への来客です。

それを生徒たちがわかっていて、一人ひとりが自然に挨拶をする。

その光景に、知人はとても感動したと言っていました。

では、「挨拶運動のプロ」は、いったいどんな指導をしていたのか。

意外なほど単純でした。

まず、自分から挨拶をする。
そして、その挨拶を必ず一人ひとりに向ける。

たとえ生徒たちが集団で歩いていても、「みんな」に向かって挨拶をするのではなく、一人ひとりの顔を見て声をかけるのだそうです。

校門に立ち、

「おはようございます!」

と大きな声で挨拶する先生は珍しくありません。

けれど、集団に向かって投げかけられた挨拶は、いつしか「記号」になってしまう。

聞こえてはいるけれど、自分に向けられた言葉だとは感じない。

だから、返事も返ってこない。

その先生は、

「挨拶は言葉。言葉は相手に伝わらなければ、その返事はこない」

と話していたそうです。

この話を聞いたのは、もうずいぶん前のことですが、今でもよく覚えています。

見えなくなって、挨拶の意味が少し変わった

数年前まで、僕は毎朝のように散歩をしていました。

当時も弱視でしたが、今よりはまだ見えていました。

朝の散歩道では、登校する小学生たちとよくすれ違いました。

交差点には、子どもたちを見守る地域の人たちが立っています。

「おはよう」

と声をかけても、子どもたちからあまり返事がない。

そんな様子を感じながら、「挨拶運動のプロ」の話を思い出していました。

今はさらに見え方が悪くなり、朝の散歩もしなくなりました。

人の顔はもちろん、そこに誰がいるのかさえ、声や気配がなければわからないことがあります。

だからでしょうか。

以前よりも、

「自分に向けられた言葉」

のありがたさを感じるようになりました。

「おはようございます」

「こんにちは」

たったそれだけでも、自分に向けて声をかけてもらえば、そこに人がいることがわかります。

そして相手にも、ここに僕がいることが伝わります。

挨拶というのは、礼儀だけではないのかもしれません。

「あなたがそこにいることを、私は知っています」

そんな小さな意思表示でもあるように思います。

以前の僕は、散歩道で見守りをしている人たちに、

「ご苦労さまです」

と声をかけていました。

その代わり、交差点では、

「信号、青ですよ」

と声をかけてもらえたらありがたい。

そんなことを書いていました。

今読み返してみても、この考えはあまり変わっていません。

むしろ、見えなくなった今のほうが、よくわかります。

誰かに向けて言葉をかける。

誰かがそれに言葉を返す。

そんな小さなやり取りがあるだけで、街は少し歩きやすくなる。

挨拶の多い街というのは、礼儀正しい街というより、

お互いに少しだけ関心を持っている街なのかもしれません。

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