不可避
金曜日。午前八時三十分のオフィスは、まだ人の気配もまばらで、窓から差し込む朝陽がデスクのパーテーションを白く透き通らせていた。澄んだ空気の中に、淹れたてのコーヒーの香りがかすかに漂っている。
二十七歳の私、高橋麻衣が定めた人生の絶対ルールは「社内恋愛の禁止」だ。職場は戦場であり、感情のバグを持ち込むのは非効率の極み。そう自分に言い聞かせ、完璧なキャリアウーマンの鎧をまとって生きてきた。
それなのに。
「高橋先輩! おはようございます! これ、今日のミーティング資料の最新版です!」
大きな声を響かせて入ってきたのは、三歳年下の後輩、犬飼蓮だ。寝癖の残る髪を気にもせず、差し出された資料には、彼の手書きでびっしりと補足が書き込まれている。お世辞にも綺麗とは言えない、でも信じられないほど熱量のこもった文字。
「……犬飼くん、声が大きい。それに資料の修正はチャットで共有してって言ったでしょ」
「あ、すみません! でも、顔を見て渡した方が確実かと思って!」
頭を掻いて屈託なく笑う彼が、私はどうしようもなく苦手だった。要領が悪く、いつも泥臭く、何より真っ直ぐすぎる。スマートに、傷つかないように生きる私のペースを、彼はその存在だけで激しく乱してくるのだ。
その日の夕方、大型案件のコンペ直前にトラブルが起きた。先方の担当者が、突如として仕様の変更を求めてきたのだ。
「私、先方に確認を入れてリスケの調整をするわ」
焦る私を制するように、蓮が前に出た。
「僕にやらせてください。この案件のために、僕、誰よりもあの企業のことを調べましたから」
その目は驚くほど真剣だった。結局、彼はその夜、泥臭く先方の担当者のもとへ通いつめ、持ち前の熱意だけで仕様変更の壁を乗り越え、コンペを勝利に導いてしまった。私は彼のサポートをしながら、その圧倒的なエネルギーにただ圧倒されていた。
――そして、月曜日の朝。
週末の勝利の余韻が残るオフィスで、私は蓮から共有された共有ドライブのフォルダを開いた。彼がコンペで使ったデータを整理しようとした、その時だった。
「ん……? 何これ」
フォルダの隅に、間違えて同期されたと思われる、ローカル保存のテキストファイルがあった。タイトルは『自己成長日誌_閲覧不可』。 見てはいけないと思いつつ、マウスが勝手にクリックしていた。ストーカーのような私の行動記録などではない。そこにあったのは、蓮が自分自身と戦い続けた、血の滲むような努力の記録だった。
『〇月〇日。今日も高橋先輩に怒られた。自分の要領の悪さが情けない。先輩はいつも完璧で、僕の憧れだ。隣に並んで歩けるくらいの男になりたい。まずはビジネス書を月5冊読む。』
『〇月〇日。先輩が『あの企業、難しいよね』と呟いていた。僕が絶対にあのコンペを獲る。先輩を少しでも楽にさせたい。自分の実力不足を、熱意と準備で埋めるんだ。逃げるな、俺。』
不器用な文章で綴られた、彼自身の成長への渇望。私に良く思われたいという小細工ではなく、ただ「憧れの存在に追いつきたい」という一心で、彼は毎晩、自分を磨き続けていたのだ。
ドクン、と心臓が跳ねた。 私が守ってきた「社内恋愛禁止」という冷徹な鎧が、内側から激しく、粉々に砕け散っていく音が聞こえた。彼が私に向けていたのは、計算や下心ではない。ただ圧倒的に純粋で、真っ直ぐな、男としてのプライドと覚悟だった。
「高橋先輩」
聞き馴染んだ声に、弾かれたように振り返る。 そこには、窓からの鮮やかな朝陽を背に浴びて、少し照れくさそうに、けれど一歩も引かない目で私を見つめる蓮が立っていた。オフィスには、爽やかな朝の光が満ち溢れている。
「僕、今回のコンペで少しは先輩に近づけましたか」
彼の真っ直ぐな視線が、私の心の奥深くに突き刺さる。 もう、逃げられない。効率とか、ルールとか、そんなものはこの光の中で何の意味も持たなかった。
「……犬飼くん、あのね」
私はゆっくりと立ち上がる。心臓の音がうるさくて、次の言葉がうまく見つからない。けれど、私の顔はきっと、今まで彼に見せたことのない色に染まっているはずだ。この恋は、もう、不可避だった。
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お読みいただきありがとうございます。あなたの温かいサポートが、次の恋の運命を動かす特別な「ラッキーアイテム」になります。ベッドに入る前のほんの5分、いつもの通勤路がもっとロマンチックに見えてくるような極上の短編小説を、これからもお届けしていきます。