「平壌へ至る道」(27)
そして今、俺はお世辞にもきれいとは言えない、狭苦しい部屋で昼寝を強要されている。
ロクにビジネスメンバーを紹介されないのは仕方ない。向こうにも機密保持があり、人の入れ替わりも流動的なのだろう。
昼飯は確かにこちらの生活水準からすれば破格のもてなしだったかも知れないが、午後はこうして幽閉され、夕食は運ばせると。
これではまるで、客人ではなく囚人だ。
俺の若さだけでなく、数々の無礼な発言が相手を怒らせたか。
それとも、疑われているか。
羅津、先峰の経済特区への侵入を目論む在日朝鮮人に関する情報の信憑性と緊急性が、彼らの間でいかほどの重みがあるのかは不明だが、連中が本気で俺の身分を照会したとしても、言い抜けることはいくらでもできる。俺は日本のヤクザ組織の若き幹部だ、複数の身分を持っていても不思議はない。彼らとて二泊して帰る男の身辺を真剣に洗うことなど面倒なだけだろう。
焦りは禁物。ただ、もう一歩だけ進んでおこう。
相慶は部屋の扉を開けた。若い兵士は本当にそこで直立姿勢でいた。
「サイさんはどこ?」日本語で尋ねる。反応なし。
「チェトンム オディ?」
崔同務、どこ?―この程度の朝鮮語であれば、外国人の口から出てもおかしくはないだろう。
へらへらとした表情で同じ質問を繰り返すチョッパリに対して、兵士が身振りで示した。部屋に入れ。
数分後、扉をノックする音が響き、崔少尉が入ってきた。「ご用件は何でしょうか?」
外国人相手に二人だけで、しかも先方の母国語で会話するというのは、この国にあってはそれだけで後々身の破滅に繋がりかねない行為なのだろう。通訳はドアを開けたまま、いちいち自分が何を話したか、階級ではずっと下部にいるはずの見張り兵に説明した。
「俺は今、このチョッパリに、用件は何かと尋ねた」
相慶は今日の工場ツアーの御礼と、非礼な態度に対する詫びと、二日目の希望行程を伝えた。
「崔さん、明日はケシ畑に連れて行ってもらえないか」
論外だ、という風に、崔はヒステリックに笑った。チョッパリが明日金剛山を見たいと言っている。観光旅行と勘違いしているようだ。
「なぜ笑う?精製工場をチラリと見せられただけで、俺は国には帰れない。子供のお使いじゃないんだ。崔さん、あなただって日本のヤクザがどういう人種なのかは知っているだろう」
「私はケシ畑なんて見たことがない」
崔は笑いを止め、入口で聞き耳を立てている兵士への説明まで止めた。「用件がそれだけなら、私は失礼する」
立ち去ろうとする通訳に、相慶は叫んだ。追加でゼニを払う。
カネという単語は控えた。その日本語なら若い兵士にも理解できるかもしれないと考えたからだ。そしてその「心遣い」は迷える中間管理職にも伝わったようだった。
崔は足を止め、回れ右をして、続きを身振りで促した。
「ケシ畑が無理なら、元山港クルーズでもいい。あなたがたの海上保衛部門に声をかけてもらえないだろうか。古い巡視艇に客席を設けて港内を巡るツアーを始めれば、中国人やロシア人の観光客を呼び寄せることができる。ウチの会社が合弁を進めてもいい」
やれやれ話になりませんな、と再びきびすを返そうとした通訳に、相慶は訴え続けた。
「では明日、午前中だけでいい、この町のジャンマダン、農民市場を歩いてみたい。そこに行けば手に入らないものはない、という噂は聞いている。商売のタネを何か見つけて帰らないと、オヤジに何されるか分からない。その後あの娼館にも立ち寄りたい。もう一度ソラを口説かせてほしい」
「お父さん?何故ヤマダ同務が父親から叱責される?」
「崔さん、ヤクザの世界でオヤジというのは、その組織の長のことだ。あなた方がキンニッセイのことを、敬愛する民族の父、と呼ぶようなもんだ」
崔は頷いた。見張り役の耳にかすらぬよう、その名を日本式の発音で表した相慶の気遣いは、またも理解してもらったようだ。崔少尉は若い兵士に近づき、低い声で命令した。
「フィンモリ野郎が明日、またソラに挑むと抜かしている。それぐらいなら後々まで話の種になるし、認めてやってもいいが、安全部連中に見つかればことが厄介だ。白と一緒に、明日こいつの後をつけろ」
「はい」兵士は答え、通訳は恩を着せるように客人へと振り返った。
「私の一存では決められないが、精一杯の努力はしてみる」
ドアが閉じられた。
相慶はベッドに寝転び、このやり方は世の東西を問わず有効だ、と一人ほくそ笑んだ。
交渉にあたっては、まず最初のフェーズで相手が絶対に呑むことができない要求を突きつけ、段階的に譲歩していく。本当に自分が引き出したい依頼が、まるでささやかなお願い事であるかのような印象を相手に与えるためだ。いきなりジャンマダン見学をリクエストしていたら、にべもなく一蹴されていただろう。
相慶はこれを書物ではなく、己の人生経験から学んできた。在日朝鮮人としての出自、生業は喧嘩道場の経営。まずは先方の拒否から始まる駆け引きの連鎖は、彼の人生そのものでもあった。
そして確証を得た。
自分の訪問は、議長や安田の想像通り、平壌には報告されていない。そうでなければ一介の少尉が外国人の自由な外出を即決できる訳がない。
自分のこの「視察旅行」のため、安田は既に四百万円近い金-原資は議長の退職金―を先方に渡したという。それを、この元山の覚醒剤取引をサイドビジネス、或いは本業とする朝鮮人民軍の一部隊は本部に上納することなく独占しようとしている。バレれば銃殺、しかし秘匿し通すことができればこの国では一生分の副収入になる。張中尉を始めとする幹部でそれを山分けし、通訳を仰せつかった崔もその余禄にあずかる立場なのだろう。
それは即ち、俺が勝手な行動を起こしても、彼らはそれを騒ぎ立てすることができない、という推論に繋がる。
勿論これは希望的観測だ。だが状況が不確かな時、自分の直感しか道標がない時、鄭相慶ならどうする?今までどうしてきた?
待機ではない、行動だ。見る前に飛べ、だ。
どうせ死ぬつもりだった。大阪で同胞の腹にナイフを突き立てた時の感触は今も体内をのた打ち回っている。
自分の運を信じろ。自分の星を信じろ。
気持ちが決まれば、体には休息を。相慶は少し眠った。
夕方六時、粗末な夕食を手にした兵士がノックもせずにドアを開け、その背後から崔が入ってくる。明日のジャンマダン行きを認めます。
「但し一人歩きは危険です。同務は朝鮮人の外見に近いですが、それでもこちらの警察に目を付けられ、拘束されるような事態は避けたい。我が部隊の若い兵士を護衛につけ、見学は二時間まで。これでも特別措置であることは強調しておきたい」
「分かりました。食事を終えたら皿の下に御礼を挟んでおきます」
崔は扉の横で依然として直立不動の若い兵士に、一連のやりとりを要約して伝えた。賄賂の箇所は失念したようだった。
翌朝、八時に部屋の扉が開いて、崔少尉が朝鮮人民軍の年季の入った制服を渡してきた。
「同務は本日、我が第二十四師団の少尉という立場で、市場を『視察』して頂くということになりました」
制服の肩には星が一つ、縫い付けられている。相慶は頭を下げ、崔は手を左右に振った。
「私は残念ながら今日は所用があります。代わって彼がお供します。日本語は話せませんが、何かあれば命に代えても同務をお守りする所存です」
入ってきた若者は、昨夜崔が見張り兵士に朝鮮語で伝えていた通り、白成範-ペクソンボム特務上士だった。
朝食を終え、建物を出る際、崔少尉が白を捕まえて告げる声が聞こえてきた。
「池下士にも伝えてはいるが、安全部と保衛部に仁義は通した。だがあいつらの反動分子が小遣い銭欲しさにコナをかけてくる恐れもある。その時はこのチョッパリにこう言え、カネ、とな」
ペクソンボム特務上士はたどたどしく発音した。カ、ネ?
「声がでかい。こいつらの国の言葉で金銭という意味だ。こいつはいくらでも出すだろう。それでも収まりがつかないようなら引き渡せ。ヤスダには後から何とでも申し開きできる。前例のない見学を申し出てきたのは、そもそもこのチョッパリの方だからな」
「わかりました」
「さ、ヤマダ同務。昨日のトラックにどうぞ。楽しんできてください」
うって変わってヤニがこびりついた歯を剥きながら―これで微笑みのつもりなのだろう―日本語で話しかけてくるこの通訳の歯を二、三本折ってやる機会がなかったことが、返す返すも残念だった。
荷台には白特務上士も乗り込んできた。俺を一人にする時間は数秒たりとも認めない腹づもりのようだ。崔の先刻の忠告から判断するに、昨日部屋の前に立っていた池という下士がハンドルを握り、第二の観察者も兼ねるのだろう。
トラックは二十分程度走り、そして停まった。白が顎をしゃくった。
幌を開けた。
昨日の覚醒剤工場とは違う種類の、しかし異臭であることには変わらない淀んだ大気が鼻腔を埋める。そこはまさしく別世界だった。
広く湿った空き地。
そこに竹で組まれた粗末な小屋や、しかしまだそれらは屋根があるだけましだ、ただゴザをしいただけの露天商も渾然となって、視界を占めている。
何の肉かは分からないが、何らかの生き物の残骸があちこちで火に炙られている。人肉と言われても容易に信じてしまいそうだ。密造酒の匂いと混ざり合い、二十八年の人生で嗅いだことのない臭気を漂わせている。
噂通り、ジャンマダンには何でも揃っているようだった。
さすがの相慶も、その喧騒に一歩ずつ足を近づけながら、知らず知らずのうちに拳を固く握っていた。
市場の中に入る。皮を剥がれた鼠の死骸が束ねられ、針金で吊るされている。
一体いつどこで収穫されたのか、萎びた野菜が並んだ屋台。椅子を出しただけの床屋が錆だらけの剃刀で初老の男の髭をあたっている。その向こうでコッチェビが水のような便を尻の穴から撒き散らし、肉が削げ落ちた白い尻を出したまま大人たちに蹴られていた。
小麦粉が詰まった何十もの麻袋が無造作に並べられている。袋にはフランス語の印字。救援物資が人民に公平に行き渡ることなく、党の高官が自由市場に持ち込むことで私服を肥やす温床を形成しているのなら、皮肉な話だ。
別の場所では別のコッチェビが、泥の中に落ちた豆を巡って殴り合いの沙汰を起こしていた。大きな建物の裏からは強烈な酸味がかった臭いが漂い、白特務上士は明らかに相慶をその方向へと歩かせないようにしたが、建物のガラスが入っていない窓の向こうに、それは確かに見えた。
積み上げられ、油を撒かれて焼かれた死体。
コッチェビたちが真っ黒に焦げた、かつて人間だった物質の口を開き、ペンチで何かを抜き取っている。ここでは歯までもが商売道具になるのだろう。一人が両手を上げた。金歯でも見つけたか、他のコッチェビがそこに襲い掛かる。
揉み合った餓鬼どもが、死体の山を転げ落ちていく。
それ以上眺めていられず、相慶は回れ右をした。
枯葉を積んだ屋台に男たちが群がっていた。
相慶は指差した。白は無表情のままピースサインを作り、唇の近くに持っていった。煙草の葉。
その横では巨大なドラム缶の下で薪が燃やされていた。覗き込むとナマズに似た淡水魚-に見えるが実際に何かは分からない―が煮えたぎっていた。
あらゆる場所で朝鮮民族らしい、喧嘩中としか思えない怒鳴り声が行き交い、しかしその中の誰一人として、相慶とその護衛には声をかけてこなかった。朝鮮人民軍の制服をきた男など、確かにこの広い市場には他に誰もいなかった。
相慶は歩き続け、やがて目的の屋台に行き着いた。
金日成バッジが並んでいる。
元々は朝鮮労働党員の備品の一つに過ぎなかったバッジは、党員を騙ることでこの社会のファストレーンに紛れようと目論むその他大勢が偽造品を装飾するようになった世相を受け、結果的に収容所内で過ごす者を除いた全市民に配給されることと相成った。
そしてこの国の必然的帰結として、今やバッジの着用は「首領への忠誠を示すもの」として外出時の不文律となっている。
大量生産大量配布の過程でそのデザインや意匠は細分化され、着用者の出身成分がバッジの大きさや背景、描かれた金日成主席の肖像位置や比率で判るようになっている、と出発前に朴泰平から聞かされている。
なるほど、屋台に並ぶバッジはどれも、金メッキで縁取りされた赤旗の中央で独裁者の偽善的な笑顔が溢れた、いかにもといった印象のシロモノだった。その非着用を見咎められ、収容所に送られることになろうとも、まずは命を繋ぐ今日一日の糧を得るため、このバッジをジャンマダンに持ち込む革命家の子孫は引きも切らないのだろう。
ここにある商品は概ね上級身分者のものと判断した相慶は、それでも念のため、屋台の向こうに座る老婆に現地語で声をかけた。
「核心階層の本物のバッジを見せてくれ」
