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「平壌へ至る道」(21)

 一九九四年五月 糸魚川市および親不知漁港
 
 ゴルフの打ちっ放しを終えて車に乗り込んだ伊勢は、背後に人の気配を感じ振り返った。
「ドアロックは壊していませんから安心してください」
 その声には聞き覚えがあった。忘れられるはずもなかった。異様に首の太い男二人は、今日は素顔を隠すつもりもないようだった。
 リーダーは一切の親しみを排した笑みを湛えている。
 もう一人の男が背後から運転席を蹴りつけてきた。さっさと車を出せ。
 リーダーはその振る舞いに注意を与えようとはせず、彼らの意志を匂わせた。
 
「伊勢さん、あんた何考えてんです?」
 車が走り始めても、二人は沈黙を保っていた。それが相手の作戦であることを察した伊勢もまた、無言を貫き冷えた時間に付き合った。
 最初の赤信号で、ようやくリーダーが根負けしたようにそう尋ねてきて、伊勢は質問に質問で応じた。「あんたら、安根拳の者か」
 車内の体感温度が更に下がる。
 なんですか、それ。リーダーは意図的にであろう、遅すぎるタイミングでそう言った。
 伊勢のハンドルを握る手が固く強張り、指先が白くなる。
「伊勢さん、ちょっとドライブしましょう」
 西へ向かう一時間、再び誰も口を開くことはなかった。
 親不知漁港で車を停めるよう指示したリーダーは、そして車を降りた。
「あんたも外に出ろ」
 この漁港には伊勢の知己は大勢いた。それを知らない二人でもあるまい。前回同様、腕をひねり上げる以上の危害を加えてくることはないだろう、と目論んでいた皮算用は、文字通り一瞬で打ち砕かれた。
 車を降りた刹那、喉元に何かが飛んできて、気がつけば伊勢は地べたを這っていた。
 衝撃で全身が麻痺している。立ち上がろうとして足元がふらつき、顔面がアスファルトに打ち据えられた。
「以前、あまりウロチョロするなと警告したはずだ。だがあんたは嘘をついた。もう二度と朴泰平に会うことはない、と前回伊勢さんは断言していた」
 止めどなく流れ続ける鼻血が、伊勢のシャツを真っ赤に染めた。
「朴は随分痩せていたな。最初は誰だか分からなかったよ。白髪の男についても調べはついた」
 リーダーの口から、図らずも伊勢は議長の本名と勤務先を知らされた。
「今知った」
 ようやく手をつきながら立ち上がり、震える声で発した短い返事だったが、喋るだけで鼻と脳天に激痛が走った。睾丸に重い衝撃があり、伊勢は再び倒れた。その手が踏まれ、水産業者は声にならない声を上げた。
「何を企んでいるか、ここで吐けばすぐ帰してやる」
 白旗を覚悟した伊勢は、しかしすんでのところで精一杯の抵抗を示した。
「あんたたちが今身元を教えてくれた白髪の男は、娘を北朝鮮に拉致された。俺たちは被害者の会だ。だが他の会と違って、俺たちはやられっ放しじゃない」
 一旦喋り始めると、鼻の痛みは薄れていった。酒に酔ったように朦朧とした意識が、ホラ話の展開を助けてくれた。
「こちらでも工作員を仕立て上げ、北に密入国させようと考えていた。東北部の咸鏡北道に羅津、先鋒という町があるだろう」
 伊勢は正確にハムギョンプクト、ラジン、ソンボンと発音し、話に信憑性を与えようと務めた。咸鏡北道は元山から見て平壌とは逆方向にあたる僻地で、当時北朝鮮にとってそこは自由貿易地区を設定し外貨の獲得を目論む、まさに国の命運を賭けた最重要地域であった。
 議長が暴力団組長の安田からその存在を教えられたように、伊勢もまた拉致被害者の一人として、憎むべき国家の自由貿易構想の話は彼なりに把握していたのだ。
「そこに潜入させるつもりだった」
「何のため?」
「外国人の招待所かホテルに忍び込み、小規模な爆破を起こす計画だった」
 この野郎、と一歩踏み出した手下を、リーダーが押し留めた。「続けろ」
「騒ぎが起きれば海外の投資家は腰が引ける。そうしてあの国の外貨獲得手段の一つを潰してやるのが、当初の目標だった」
「だった?目標は変わったのか?」
「爆破はやめた。経済特区のガードが異常に高いことを知った」
 伊勢はテレビで見た羅津近辺のレポート番組の内容を、懸命に記憶の底から引っ張りあげていた。
「特別な招聘状つきの、一目で外国人と分かる投資家でなければ、あの地域を囲む有刺鉄柵を超えることはできない。さてどうしたものかと案じていたら、経済特区自体の計画自体が全く進んでいないことを知った。貿易はスピードが命だ。特区でござい免税でございと宣伝したところで、あの国は外からのあらゆる情報が遮断され、選り分けられて伝えられる。これでは商売にならない。しかも現地担当者には一切の権限が与えられていないんだってな。投資家が何を提案しようが質問しようが、平壌にお伺いを立ててから、というのが向こうの通り一遍の回答だそうで、自由競争の速度を知る西側の人間はあきれ返るばかりだ。それでいてマカオを超えるカジノを建設するだの、ガントリークレーンを五十基備えたシンガポール級の自由貿易港を開設するだの、絵に描いた餅の説明だけは詐欺師の如く機械的に繰り返すもんだから、出資に前向きだった事業主もどんどん去っていく。特区はただケチくさい軽油発電所があるだけの現状から、十年後も何の変化もなさそうな気配で、そこを攻撃したところで意味はない。明日死ぬことが明らかな老人の頸を、今日わざわざ絞めることはない」
「では、あの若い奴らは結局渡航しないのか」
 伊勢の皮膚感覚はこの半年で大幅に発達していた。
 俺は相慶ひとりの話をしている。それに対してこいつは「奴ら」と言った。先月末に関係者が集まった際、ソウルから朴が呼び寄せた李昌徳。こいつらは彼のことも工作員の一味だと誤認している。
 そのまま勘違いさせておくに越したことはない。
「しない」
 リーダーは軽々と伊勢を引っぱり上げ、車にもたれさせた。
「いくら弱虫揃いの日本人とはいえ、いい大人が五人も集まって結局は何もできずか。あんたたち、あの国に恨みがあるんじゃなかったのか」
「これだけは最後に言っておく」
 強すぎる握力で襟首を掴まれたまま、それでも伊勢はリーダーの両目に据えた視線を外そうとはしなかった。
「俺たちは誰も傷つけない、誰も殺さない。それが俺たちの基本原則だ。日本は戦争で朝鮮に被害を与え、今はオマエたちの親玉が逆のことをしている。その繰り返しは終わりのない憎しみの延長を生むだけだ。オマエたちがこうして俺を蹴り、踏み潰し悦に入るようにな」
 リーダーは微笑んだ。それが何を意図するものか分からなかったが、伊勢は続けた。
「だが、俺はオマエを憎まない。オマエはオマエで、俺を痛めつけなければならない事情があるだろうからだ。好きでこんなことをしている訳ではないだろうからだ。前回、オマエたちは俺に殴りつけてはこなかった。なのに今日は殴る蹴るで飽き足らず、手まで踏みつけてきた。オマエたちもまた焦っているってことだ。でもな、オマエは前回、俺の兄の死を悼んでくれた。それが俺にとっての全てだ、真のオマエの姿だ」
 襟首を掴み続けてくる力が緩んだ反動で、伊勢は前のめりに倒れそうになり、その動きを利用して自らを取り囲む男たちを払うように手を振った。
 そのまま車のドアを開け、運転席に乗りこむ。二人ともそれを止めようとはしなかったが、伊勢がエンジンキーを差し込んで回転した時、リーダーは窓を叩いて開けさせた。
「奴らの出発はいつだ?」
 狩った者をいよいよ解放するその瞬間、相手の心が弛緩するタイミングを見計らって決定的な質問をぶち込むというのは、彼らのような人種の常套手段で、伊勢はそのことを議長からあらかじめ教えられていた。
「奴らが次にあなたを拉致した場合、一見話が全て済み、あとはお別れを告げるだけとなったその時が肝腎です。彼らはそこであなたの思いもよらない角度から、最も知りたい答えを引き出そうとしてくるはずです」
 伊勢はだから表情を変えることなく、寧ろ少し傷ついた様子を醸し出しながら答えることができた。誰も出発なんかしない、あんたもしつこいぞ。もう俺たちのプロジェクトは終わったんだ。
 ドアの窓枠に手を置き、真っ直ぐに見つめてきたリーダーの眼を、伊勢は睨み返した。
 五秒間、彼らはそのまま動かなかった。
 苦笑と共に、先に相手が視線を逸らせた。
「最初にあんたが出発しろ。俺たちはここに自分の車を待機させている。リャン、先にエンジンをかけて待っててくれ」
 リャンと呼ばれた手下は、なぜそんな手の内を、とでも言いたげな表情を一瞬浮かべ、しかし黙したまま回れ右して、自分たちの車へと向かった。どのみち自分たちの所属先をこの水産業者は既に知っている。
 リーダーは車の中に顔を入れてきた。
「あの恐らく在日のガキどもは近いうちに向こうに行くことになるんだろ?どうせあんたは本当のことは言わないだろうが」
「そう思うのなら、好きなだけ俺を殴り続けろ」
「こういうことを口にするのは異例のことなんだが」
 リーダーは再び伊勢の目をじっと見つめ、リャンが既に充分離れた位置にいることを素早く視認し、それでも慎重を期するように小声で続けた。あんたは俺が今まで見てきた日本人の中で、一番筋の通った男だ。会う場所と時代と状況が違っていれば、いい友人になれたかもな。
「よしてくれ」伊勢は即答した。五分前まで俺の手を踏みつけておいて、いけしゃあしゃあと浪花節を抜かすな。「いつどこで出会ったとしても、俺とオマエは断じて友達なんかにはならない」
 伊勢は窓を閉め、車を出した。
 自分たちの車に戻ったリーダーに、手下が声をかけてくる。ヒョンニム、どうします?
「何を?」
「あの男ですよ。この期に及んでまだ俺たちを騙そうとしている。後悔させてやりますか」
 自分がどれだけの研鑽を積もうとも、このスピードを得ることは無理だ、と十年前に彼が稽古中に思い知らされたその裏拳が、気がつけば己の顔面にめり込んでいた。
 リーダーが助手席から、快活とも聞こえる声で告げた。
「報告は本国にちゃんと送る。それは俺の責任の範疇だ。オマエはオマエの仕事だけやっていればいい」
 鼻の骨が折れたようだ、涙が止まらない。それでもリャンは片手で顔を押さえながら、懸命に了解の意を示した。
「既に奴は兄を喪っている。今後伊勢には一切手を出すな。分かったか?」
「-押忍」

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