「平壌へ至る道」(23)
一九九四年五月 糸魚川近郊
安田たち八人の「ヤスダ興産」社員は二手に分かれてセルシオに乗り込み、西へと車を走らせた。覆面パトカー四台が交替で尾行につき、糸魚川沖では県警水上警察の船が待機していた。
船内にいる捜査四課と現地警察署の合同捜査員十二名を率いる五十嵐に話しかける者はいなかったが、安田を覚醒剤取引の現行犯であげることができれば県警にとっては久々の大捕物で、ニュースバリューも高く、昼からずっと顔を紅潮させていたこのキャリアを、この時だけはだから嗤う者はおらず、現場への過度な介入も、この日ばかりは周囲も黙認した。
二台のセルシオは夕方六時に糸魚川の水産会社に到着した。
出迎えた伊勢と安田が親しげに言葉を交わすのを、張り込み担当の刑事が双眼鏡で確認したが、何を喋っているかまでは読み取ることができなかった。
一向が乗り込んだ漁船は間もなく出港した。これから非合法取引を行うにしては早すぎる時刻、多すぎる乗船者。警察船への無線を受た五十嵐の胸中に一抹の不安がよぎった。
伊勢自らが操縦する船は沖へと進み、ほどなくして十二海里の公海線を超え、五十嵐はその後を追うように指示した。
更に沖合、排他的経済水域をパトロールしていた海保の巡視船からは、十一時の方向から怪しい船団は確認できない、との報告が繰り返されていたが、そもそも広い海で犯罪行為に走る船を見つけるのは、森の中で指定された一枚の葉を見つけるに等しい作業、と警視は胸の中に出港時から湧き上がる「何かが違う」という違和感を無理に押さえつけた。
漁船は接続水域ぎりぎりの箇所で停泊し、隠れる気もないのか、甲板から眩しい明かりが一斉にともされた。
風のない日、海は驚くほど遠くの音を運んでくる。
男たちの野卑な笑い声が、警察船にまで届いてきた。船内の警官たちに緊張と沈黙が深まる。
四時間が経ち、日付が変わった。
状況だけが変わらない。
闇に溶けた海の向こう、北方から近づいてくるフネの気配すらない。
痺れを切らした捜査四課長が、漁船の近くまで警察船を進めさせた。漁船の様子が肉眼でも確認できるようになり、捜査員たちは我が目を疑った。
煌々と光る船から、組員たちは一斉に釣り糸を垂れていた。
捜査四課長がマイクでがなりたてる。
「これからそちらの船に向かう。抵抗をするな」
五分後、警官たちが伊勢の漁船に乗り込んだ。ヤクザたちも一斉に釣竿を捨てて立ち上がった。「一体なんだオマエら!」
「抵抗するな!」
「令状を出せ!令状をよお!」喧嘩上等の一番手、佐野という見習いが両手を背中で組みながら、厚い胸板を一人の警官にぶつけながら凄んだ。
「やかましい!公務執行妨害で引っ張ってやってもいいんだぞ!」
どういうおつもりですか、そう言いながら操舵室から伊勢が出てきた。五十嵐は正面から伊勢、安田と睨みあう形となったが、硬い表情を崩さない船長とは対照的に、組長はひたすら軽薄に微笑み続けた。深夜までお勤めですかい、お疲れ様ですな。
「オマエらが覚醒剤の受け取りをここで行う旨の、匿名の通報があった」
「覚醒剤?」安田はなおも笑ったままだ。「私どもはれっきとした株式会社ですよ」
「ほざいてんじゃねえ。オマエら全員、手すりに向かって立て」
彼らの所持品からは煙草一本出てこなかった。
「ここで何をしていた」
「見れば分かるでしょ。イカ釣りですよ」
「何が目的だ」
「社員の慰安旅行もやっちゃ駄目ですかい?」
船に乗る、とだけ言っていた議長はあの時、ご丁寧にその証言を二度繰り返した。その意味が今になって五十嵐に理解できた。噓はつかなかったということだ。
コケにしやがって。
その頃、「ヤスダ興産」の「国際課課長」と鄭相慶を乗せ、佐渡を臨む小さな港を出た船は、誰に追われることもなく悠々と取引地点に辿り着き、前方にチカチカと光る灯を確認した。
明け方、議長の自宅の扉が激しく叩かれた。彼の名を呼び捨てにする声。
監察官の来訪を予期していた議長は、すぐにドアを開けた。
五十嵐が飛び込むようにして部屋に入ってきて、議長の喉に手をかけた。
「テメエ、ぶっ殺してやろうか!」
体を入れ替えた議長が足払いをかけると、メンツを失い冷静さまで失っていた男は派手な音を立てて転がった。
「この野郎!」
立ち上がろうとした五十嵐の顔面に膝が入った。
「断っておくが、カメラが回っている」
議長は玄関扉の上に設置された機器を親指で示した。
「あんたが俺の許可を得る前に住居に侵入し、先に俺を襲った事実は、裁判になれば白日のもとに曝け出されることになる。偶然に膝が当たってしまったのは気の毒だが、咄嗟の足払いは正当防衛の範疇に入るだろう」
キャリア警官は目で人を殺せれば、という視線を老刑事に据えたまま、壁に手をついてよろよろと立ち上がった。
議長はカメラの電源を切り、そして目の前の若者を殴った。監察官は再び倒れた。
「オマエが俺の別れた妻を利用しなければ、俺ももう少し穏健に進めるつもりだった。そっちがそのよく動く口を閉じている限り、俺もこの映像を公にはしない。辞表は今日出す。何ならオマエに預けてもいい。それで警視殿の地に墜ちた権威が少しでも回復するというのなら、協力するに吝かではない」
