「平壌へ至る道」(4)
伊勢は一度唾を呑みこみ、話を続けた。
「住居の場所が分からなければ、逆に兄を呼び寄せようと考えました。まずいつも通り彼に手紙を送り、その中に何月何日から何日にかけて何時何分、毎日元山のどこそこで待つ、という一文をどうにか入れる。兄はもう十年あの国にいるし、今日まで生きてこられたってことは、ある程度の信用も得ているものと考えられます。少しの外出は許可されるだろうという可能性に賭け、指定した日、時刻、場所に、朴さんと赴きます。私だけでは言葉が通じないし、不測の事態が起こったときに対応できませんから。しかし、この方法には依然として二つ、問題点が残ります。
一つ目は手紙の検閲です。北朝鮮には相変わらず親書検閲制度が残っています。テレビの撮影後、ようやく受け取れるようになった兄からの手紙は、いつも最初と最後は同じなんです。金日成・正日親子を称え、将軍様のおかげで自分は何不自由ない暮らしを享受できていて、感謝の念は死んでも涸れることはないといった文章に始まり、食料と金銭の無心で終わります。それに倣って私の方でもあの父子を褒めちぎるようにしましたよ。自分の家族を拉致した連中の総元締めをね。以後は手紙が届くのが早くなったようです。
メッセージは梅干しの箱の中に入れることを考えていますす。今まで相当量の食料を兄に送ってきましたが、返事はいつも梅干しばかりじゃ飽きてしまうというものでした。お分かりですよね?食料は殆どが当局の蝿どもに横取りされていて、でも梅干しだけはあいつらの口に合わなかったんです。兄がいつも通りに届けられた梅干しの箱を開け、食い終え、そこにメッセージを目にする確率がどの程度かは予想もつきません。それが露見した場合に兄が受ける処罰を考えれば、文章は最小限に留めるべきですが、同時に相手がそれを読んで瞬時に理解できるものでなくてもならない。
二つ目の問題は、北朝鮮への入国方法です。今お話しましたように、兄を連れて帰るには密入国しか方法はありません。自分の船を出し、元山まで向かおうかとも考えましたが、その行き帰りとも巡視艇に見つからずに済み、かつ朴さんと元山にいる間、誰からも怪しまれずに港に船を停泊しておけることが前提となります。果たしてそれは可能かと言えば、彼らの慣用句であるハヌレピョルッタギ、空の星を取るようなものです。せっかくの計画も暗礁に乗り上げており、そんな時にあなたと出会ったという訳です」
話の間、ツイードの男は一切食事に手をつけなかった。
「私たちの計画は荒唐無稽でしょうか?」
男は問いに答えず、代わりに指摘した。三つ目の問題があります。
「-と、いいますと?」
「お兄様がマインドコントロールされている訳ではなく、本心から向こうでの生活を気に入り、その体制に忠誠を誓っている可能性もあるということです。もしそうなら、帰国に関してお兄様は首を縦には振られないでしょうし、あなた方の渡航自体が無意味となります」
座は沈黙に包まれた。実の兄に限ってという思いと、絶対に救い出すという感情の高ぶりが、そこまでの考察を確かに曇らせてはいた。
「他に妙案がないなら、梅干し容器の底に簡潔なメッセージを残すアイデアは活かしつつ、一点だけお兄様に指示を加えるのは如何でしょうか。提案を受け入れるなら、次の手紙にその回答を記せ、と」
「しかし、検閲があります」
「伊勢さん、お兄様からの食料の無心に、白米という文字は常に含まれておりますか?」
「はい、それはもう、毎回送ってくれと」
「提案に従うなら、次の手紙には『白米』ではなく、ただ『米』とだけ書かせるのです」
糸魚川の元漁師は一瞬息を止めた。
「なるほど―では兄からの手紙に『白米』と書かれ続けている以上…」
「メッセージが届かなかったか、お兄様が帰国を望んでいないか。いずれにせよ救助に向かわぬ方が賢明です」
流石ですな、と唸りながら朴が頭を下げた。今日あなたを食事に誘ったことが、その指摘一つで充分に報われました。
「そのことですが、今日なぜあなた方は私に声掛けしたんです?私の何をご存知なんですか?」
「何も知りません、本当です」
「知らない相手への打ち明け話としては、過激すぎませんかね?」
「おそらくは警察関係の方とあたりはつけとります」
朴は必要以上に力を込めて、灰皿に煙草を押し付けた。
「そのお歳でその体格は並大抵の節制では保てへんはずですし、肝の据わり具合も、そこらのサラリーマンが一朝一夕で身に付けられるものやない。お察し通り私も元は在日朝鮮人でした。ついでにここで私のことも話しておきますわ」
娘が日本人と結婚したのを機に二年前、一家で帰化しました。それまでは関西のある県で朝鮮総連の幹部をやっとりましたよ。チョッパリになってしもたということで―分かりますか、チョッパリ?朝鮮人が日本人を呼ぶ時の蔑称ですよ。猪の足という意味でしてね、下駄を履いた足がそのように見えることが由来ですわ―総連はクビになりました。帰化する人間なんて今時いくらでもおるんですが、私の場合は総連のバリバリの武闘派でしたから、連中も許せなかったんでしょうな。経営しとった焼肉屋の火災保険は更新できへん、と仲間内の代理店から突き放されて、保険の期限が切れたその深夜零時過ぎ、酔っ払いの運転するトラックが店に突っ込んできました。トラックは盗難車で、その酔っ払いの主張によれば、キーが刺さったまま放置されとったそうです。酔っ払いはお誂え向きに禁治産者でした。連中の所業とは証明できず、泣き寝入りですわ。
他に経営していたパチンコ屋を二束三文で人手に渡してカネを工面し、離婚もしました。あいつらに対するメッセージですよ、もうワシと女房は他人やっちゅうことです。慰謝料代わりに元女房には自宅をくれてやり、私自身は五百万だけ懐に入れて関西を出奔し、昔目をかけてやってた男が旅館を経営している長野に逃げました。お飾りの番頭で給料はタダみたいなもんですけど、食事と寝床は確保できましたし、贅沢言える立場やあらしません。
それから拉致被害者家族の集会に参加するようになりましてね、その席でこの伊勢さんと出会ったんですよ。とにかく北のやることには何でも反対してやれ、ゆう点で我々はすぐ意気投合しました。伊勢さんのお兄さんさえ取り返してやれば、私もあの国へ少しは仕返しができますからね、その後のことはどうにでもなれですわ。
あなたが警察組織に身を置く方だという仮定を前提にすれば、あなたも在日組織のことを少しはご存知のはずや。いや、仮に公安畑だとすると、大変詳しく知っておられるに違いない。こういう人生ですから、いつの頃から私自身もヤクザみたいな見てくれになってしまいました。でもあなたはホンマに落ち着いてらっしゃるし、さっきは私を挑発までされました。朝鮮人は簡単に頭に血が上る、と。あれはワザとそう言ったのでしょう?あなたは私という人間を見抜いたんでしょう。ヤクザに見えるけど所詮堅気の小市民や、ということをね。
朴が話す間、ツイードは眉一つ動かさなかった。
「そうするとあなた方の今日の行為は更に理解できませんね。私が仮に警備の人間なら、お二人は一時間後にはどこかの取調室ですよ。お兄様の奪還は夢物語になる。それなのに私に声をかけたのは、どういう皮算用によるものですか?」
「その格好です」伊勢が即答した。
「あなたのその服装です。この夏の盛りにツイードを着ている。体のどこかに異常があるのか、精神的なものか。拉致被害者の集会に出入りされているのも、決して職業上の義務からではなく、あなたご自身の問題ゆえと感じております。石川での出来事、覚えてらっしゃるでしょう?-『何ほざいてんだオマエら、ぶち殺すぞ』-しかも自分が確かにそう口にしたことを覚えてすらおられない。私はこれを天恵と感じました。我々の計画に別の角度から光を当ててくれそうな人物が授けられた、と。あなた自身だって結局ここについてきて、長話に付き合ってくれております。あなたもまた『同志』を必要とされているのではないですか?外務省に意見書を送り続けましょうだの署名を集めましょうだの、そんな見識が本当に状況を変えると無邪気に信じているような人間とは一線を画す、同志を」
「随分と歯に衣着せぬ物言いですな」
「私自身、今のあなたと朴さんとの会話を聞いて、あなたが警察関係者であることを確信しました」
「ほう?」ツイードは薄く笑ったが、楽しくて仕方ないといった表情には見えなかった。
「朴さんはあなたに『公安畑』と言い、対してあなたは『警備の人間』と応じた。警察組織がまず公安部と刑事部に分かれていることや、公安部の上部組織が警備局という名称であることなど、拉致被害者家族という立場に置かれなければ、私だって知ることもその必要もなく一生を終えていたでしょう。私はこうも確信しております。あなたはわざと口を滑らせたんですね」
「何のために?」
「私たちを試したんですよ。同時に、自分の身分をはっきり暗示してくれました。取調室云々はご冗談でしょうが」
ツイードは胸ポケットから煙草を取り出した。その日初めての煙草だった。
「それを仰るなら、先程のあなた方の対応は一体何ですか?」
「私たちの対応?」
「『白米』と『米』の提案に対する、あなた方の感心ぶりですよ。お二人もまた私を試したんでしょう?」
伊勢と朴は無意識のうちに破顔した。
「そろそろ腹の探り合いは止しましょう。いや、あれは本当に参りました。質疑応答に暗号を使い、その結果を待って北に渡るということは、もちろん前もって考えてはいましたが、その方法についてはまだ具体的に決めておりませんでしたし、あなたの提案をそのまま使うことになるかと思います。兄が心底から北の暮らしや体制を気に入っているかも知れないという推測に関しては、完全に見落としておりました」
そして朴が続けた。あなたも立場上、名を名乗ることは難しいでしょう。どうでしょうか、お差支えのない範囲で、あなたが拉致被害者集会に参加するようになった経緯を、お話し願えませんでしょうか。
「差支えない訳ないでしょう」
男は煙草を消した。寛いだ表情が瞬時に消え、眼に再び宿ったあの光は以前にも増して強い輝きを放ち、朴のような豪傑でさえ漂わせ始めた笑みを即座に引っ込めざるを得なかった。
「まあいいでしょう。あなた方が最初に私に与えた、この話に賛同されない場合という警告を、今度はそのままお返しします。聞きたくなければ、この会はここでお開きだ」
「聞きましょう」伊勢が答え、朴が頷いた。
