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「平壌へ至る道」(15)

 足元から得体の知れない冷えた波が湧き上がり、ゆっくりと全身を蝕んでいく。なぜ、君が、ここに。
「私の存在に気付かなかったことで、俺も随分とヤキが回った、と今そんなことを考えているの?」
 議長は思わず出た苦笑を隠さなかった。目の前の相手は、議長にとって数少ない、そうした表情を見せることのできる者の一人だった。
「案ずることはないわ。私もあなたの妻になる以前はそれなりに優秀な警官だったこと、もう忘れた?」
「覚えてるよ」
「先週から今朝まで、あなたの家の電話も盗聴されていたようよ」
「そうか。まあ俺が監察なら同じことをする。しかし盗聴器には気付かなかったな。受話器の重さに変化は感じられなかった」
 元妻は議長の名をフルネームで呼んだ。「あなたに敵もそんな軽はずみな真似しないわよ。あなたの自宅の応接間、窓ガラスの外側にシール状の感知器を貼り付けたんだって。ガラスの微妙な振動から周波数を解析し、部屋での会話は九十パーセント以上の確率で再現できるの。そんな装置があること知ってた?」
「初耳だ。老兵にはもう分からないことが多すぎる」
「こんな所にまで来てあなたの気分を害した点を詫びるため、一応教えておく。今日一日、あなたには誰の尾行もついていない。従って私があなたの自家用車に乗って帰ることに問題はない」
 議長は苦笑を続けたまま、車のドアを開けた。どうぞ。

「今、何をやってるの?」
 車が走り出し、元妻が投じてきた直球。議長は回答にならない回答でそれに応えた。退職して二十年になるOGを担ぎ出すほど、監察はお怒りなんだな。
「そうでもないわよ。人付き合いの悪さを差し引いても、あなたの能力は万人が認めているし、私たちのプライベートに起こった出来事については同情論の方が圧倒的だし。しかしあなたもよく知るように、警察は揉み消せる不祥事には寛容だけど、外部への漏洩が避けられない不祥事は許さない」
 議長は微かに口元を緩めた。この車は盗聴されてないだろうな。
「私自身はもう県警とは無関係だもの。知ったこっちゃないわ」
 そしてかつての配偶者は別のストレートを投げ込んできた。最近安田と頻繁に飲食を共にしているそうね。
「言い訳はしない。親密な付き合いだ」
 議長は寛いだ表情を素早く畳み、素早く答えた。
「俺には捜査四課の経歴もなく、マル暴との付き合いが不可避な立場でもない。奴のシマにある奴の息の掛かった飲み屋で、奴の金で酒をかっくらっている事実に関し、監察を納得させるだけのストーリーを即興で話せるほど俺は器用ではない」
「では監察室からのメッセージを伝えておくわね」
 議長はアクセルを緩めた。高ぶった神経が事故を引き起こさないように。
「まず、あなたは現在鬱病で休職中。そんな警官が夜な夜な筋者と杯を交わすというのは言うまでもなく軽率な行動で、しかしあなたに関しては、そこに理由が必ずあるというのは誰にだって想像がつく。そこで県警としては二つ要求を行う。可及的速やかにその用事を済ませて貰いたい、というのがまず一つ目。あなたもよく知るように、ヤクザが困窮した人間に無条件で救いの手を差し伸べるというのは安いドラマの中だけの話よ。現時点で先方があなたにタダ酒を奢るのは、その投資に見合う配当を期待してのこと、それだけ。あなたの現実からすれば、早かれ遅かれ紙屑のように捨てられるわよ」
 元妻で良かった、と議長は内心で息をついた。同じ台詞を監察室の若造に面と向かって放たれていたら、冷静にそれを聞き流す自信はなかった。
「分かったよ。二つ目の要求は?」
「あなたと安田の関係の背景に、私たちの失われた娘の存在があるとするならば、あなたには連中を利用した用事が終了後、即退職届を出して貰いたい。マスコミが嗅ぎ付けたら、ニュースはこの地方の中だけで収まらない恐れがある」
 議長は今度こそ本物の溜息をついた。悪かったな。
「何が」
「そんな言葉を俺伝える役目を、君に負わせてしまったことだ」
 元妻は笑ったが、その両目は微かに潤んでいた。「ここからは個人的な質問。誰にも報告は上げない」
「うん」
「何を計画しているの?」
 その言葉の終わらぬうちに議長は答えた。言えない。
 そう、と呟いたきり、相手は何も発しなかった。
 議長の喉の奥では言葉が手足を持った実体ある生き物のように蠢いていた。
 俺たちの娘を奪った国の軍港がある港町に工作員を送るつもりだった。
 あの国唯一の政権与党が保持している建物をこの地球上から消し去るために。
 ハンドルを持つ手に、自然と力がこもる。
 自分があのダニのような暴力団組長に媚を売り、大阪で暴力事件を起こした若者を呼び寄せ、やりたくもない球打ち遊びに一日を消費した今日に至る、その経緯を包み隠さず、隣に座るかつての人生の相棒に、何もかも告解したかった。
 喉の奥の震えを呑み込み、溢れ出てきそうな言葉も呑み込み、意外なほど脆い自分の精神を呑み込み、娘が消え、それなのに自分は今尚おめおめと生き続けていると言う事実までも、全て呑み込んでしまいたかった。

 鉄道駅が見えてきた。元妻は車を降りるまで、何も喋らなかった。
 そして車を降りる時、外に向かって独り言のように囁いた。
「後悔はしないで」
 それは退職後も警察組織に忠誠を誓った彼女にとって、ぎりぎりの言葉だった。
 駅から自宅までの帰路、議長はコンビニに寄り、もう何年ぶりだろう、安ウィスキーを買った。
 自宅に着き、玄関の扉を開けた。鄭相慶が、居間でテレビを見ていた。

「ウニ工場はどうした」
「しばらくの間、生ものは食いたくないし見たくもないわ」
 そして鄭相慶は、議長をじっと見つめた。何かあったんですか?
 議長は台所からコップを取ってきて、目の前の若者に勧めることもなくウィスキーを注ぎ、直接喉を焦がした。
「職場からこれ以上チョロチョロ動くなと釘を刺されただけだ」
「あんたはその程度のことでそんな顔になるほどヤワなおっさんやったかな。まあええわ、なあ議長さん、俺の北朝鮮行きがホンマになくなったら、あんたの思いはどうなる?」
「俺が何を思おうが、娘は帰ってこない」
 相慶はウィスキーの瓶を横取りし、ラッパ飲みした。「何やこれ、休職中でもそれなりに貰ってるんやろ?」
「俺に酒の講義をするために帰ってきたのか」
「いや、ちょっと相談に」
 相慶はテレビを消した。部屋に沈黙が落ちた。
 帰宅と同時に行動できなかったとは本当に俺もヤキが回った、と内心で呟きながら議長は立ち上がり、狭いベランダに面した窓ガラスを開けた。そこには何かを貼り、剥がした痕跡が微かに残っていた。監察室の連中は、意図的にそうしていったのだろう。
「どないした?」
「今朝まで盗聴されていただけだ」
 若者は愉快そうに肩を揺すった。相手は北か、身内か。
「身内だ」
「念のため外で話そか」
「車を出せない。酒が入った」
 歩けばええがな。相慶はさっさと立ち上がり、議長は溜息交じりに後を追った。

 ファミレスで相慶はコーヒー二つと勝手に注文し、店員を下がらせた。
「お勧めメニューもございま「ありがとう。気が向いたら俺の方でボタンを押しますから」
 気圧されたように店員が去った二分後、運ばれてきたコーヒーに口をつけながら、相慶は前触れなく喋り始めた。
「人間ってのは社会的動物らしいな。狩猟時代から既に、ヒトは文字通り一人で生きていくことはできなかった。集団で協力して獲物を倒し、コロニーを形成して外敵から自分たちを守ってきた。個が集団を形作るのではなく、集団があって初めて個が生き延びる、という理屈や」
 どうすればこれほど不味いコーヒーを作ることができるのだろう、と議長は思った。
 喫煙室から若者の騒ぎ声が聞こえてくる。その時でもう何百回目か、自分の娘が姿を失い、なぜあんなゴミのような連中が生きて呼吸しているのか、という詮無い思いが全身を捉え、初老の男は現実の痛みを胸に覚えた。
 なぜ俺の娘でなくてはならなかったのか。
 なぜ、なぜ、なぜ。
 いつもの堂々巡りだ。
「集団生活という輪の中で種の保存を継続してきたホモ・サピエンスにとって、人殺しは言ってみれば本能に反する行為ってことなんや」
「そうか、さっさと論文書いて、来月の『ネイチャー』にでも発表しろよ」
「おいおい、身内にケツを追い回されたイライラを俺にぶつけんなや」若者は口を尖らせた。
 議長はただ喉の渇きを癒すことだけを目的として、泥水のようなコーヒーを飲み干した。通りがかったウェイトレスが耳を疑う言葉を発してきた。おかわりはいかがですか。彼はカップを手で覆った。
 その様子を微笑みながら眺めていた相慶は、窓に顔を向けて話し始めた。
「今まで何人もの鼻骨を折ってきたけど、いちいち心の痛痒を感じることもなかった。でも十月のあの数日間、伝道所地下で感じた絶望の暗さと深さは想像を超えるものやった。誰かの肋骨を折ってやったという武勇伝と、誰かの命を奪ってやったというエピソードの間には、とてつもなく広くて深いクレバスがあることを、俺は知ったよ」
「三十目前にして、ようやくか」
「笑いたければ笑えばええ。でも俺は実体験に即した、至って真面目な個人の見解をここで恥を忍んであんたに喋ってるんや」
 五月蠅かった若者たちが出て行き、店の中は少し静かになった。
「それで君の真意は何だ。向こうで建物を爆破して、朝鮮労働党の連中の巻き添えにすることの無意味さを俺に教えに来たのか」
 相慶は議長を見つめた。取り立ててハンサムではない。それでもその笑顔は、民族学校時代、常に取り巻きに囲まれていたという男に相応しい愛嬌を湛えている。
「まさにそれを伝えるために、俺は北海道から戻ってきたんや。実のところウニ工場には割と色っぽい主婦のパートがおってな、明らかに俺を誘惑してたんやで。それを振り切ってここまで帰ってきてやった」
「知ったことか」
「あんたの中で俺を北朝鮮に潜入させるストーリーは、まだ有効か?」
 またも店員が近づいてくる。二人はしばし沈黙した。相慶がコーヒーのお代わりを頼み、同席者を驚愕させた。
 ウェイトレスが去り、議長は静かに口を開いた。有効だ。
「あんたは娘さんの仇を討てよ。誰も殺さない手段でな。あの拉致王国の親玉に、ささやかな復讐は果たしてやろうや」
「どうやって」
「何のために俺が北海道に渡り、マイナス二十度の世界で三週間以上過ごしてきたか、そこにも深遠なる訳があるんやで」
 相慶は私案を披露した。それは果てしなく馬鹿馬鹿しい内容だったが、議長は答えた。
「いつぞや聞いた、KCIAから金日成の自宅を教えてもらうなどというタワけた発想よりは格段の進歩だ。達成の自信は?」
「命を賭けてまで遂行するような作戦ではないから、達成できなそうな場合は難易度が落ちる別の場所を見つけてトライしてみる」
「分かった」
 二人はファミレスを出た。既に深夜零時を過ぎていた。

 相慶が空に向けるようにして口を開いた。なあ、議長さん。
「朝鮮人ってのは、しつこい連中だと思うか?いつまでも強制連行だの慰安婦だのと飽きもせず、と」
「まあ、それがあいつらの恨み、ハンの文化なんだろう」
「じゃあ聞くけど、日本人は広島、長崎の悲劇は忘れまじ、とよく言うよな。そのこと自体否定はせんよ。あれは無辜の民間人を大量殺戮したれっきとした犯罪や。でもそれを未来永劫記憶に刻もうと言うのなら、日本が一九一〇年にやったことも、やっぱり忘れたらあかんのとちゃうか」
「朝鮮併合か」
 歩みを止め、振り返った相慶は微笑んだ。
「そうやって直ぐに答えられる議長のような日本人は一割もおらんやろ。まあそれはどの国でも同じやけどね。アウシュビッツでガス室に消えた同胞の氏名を最後の一人まで調べ上げたユダヤ人が今パレスチナでやってることは、ナチスから自分たちの先祖が受けた仕打ちとどれだけ違いがある?日本に対していつも被害者面して騒ぎ立てる韓国も、ライダイハンの存在については頬かむりや。知ってるか?この言葉」
「いや」
「ベトナム戦争で、韓国は延べ三十万人近い兵隊を現地に送った。米軍が諌めて止めに入るほど、連中はやりたい放題やった。非戦闘員の村を焼き落とし、男は皆殺し、女は強姦した後殺すか慰安婦に仕立て上げた。その時に生まれて踏み潰されずに済んだ子供がライダイハンと呼ばれている。モンゴロイドの特徴をモロに外見で受け継いだ彼らへの差別感情はベトナムの社会問題にもなっている。韓国は一切知らん振りや」
 その前年、ようやく経済交流協定を締結したベトナムと韓国は、それまで断交状態にあった。一九八〇年代後半から九〇年代にかけて韓国の大統領を務めた全斗煥、盧泰愚の両氏がベトナムでの指揮経験を有する軍出身者だったこともあり、かの国のマスコミはその分野にメスを入れることを長らく禁忌としてきた。
「それでいて日本にはあれこれと」
「そう、それがあんた方の典型的な感想や。でもな、韓国軍も現地の罪なき女性を性奴隷に仕立て上げた、だから日本の戦前の所業はチャラになるのかといえば、そんなことはない。それはそれ、これはこれやろ」
「だが君たちの同胞にも未だにいるよな、俺の爺ちゃんは日本に強制連行で連れて来られた、と主張する連中が」
 鄭相慶は立ち止まった。議長さん、あんたはつまり、そんな連中の子孫など、もうこの国にはいない、とでも?
「かつての被強制連行者は戦後、八割以上が帰国した。残った者も、別に日本国が彼らの帰国を許可しなかった訳ではない。残ったのは彼らの自由意志によるものだ」
「確かにそうやな。でもこっちで結婚したとか、一度はチョッパリの国に消えた者を祖国の故郷や親族が受け入れなかったとか、そんなどうにもならない事情による残留もあったんやで」
「それは君たちの問題だろう」
 若き格闘家はこれ見よがしに溜息をついた。
「分かった。じゃあ例えば議長さんが百年前に生まれ、ブラジルに移民したものとしよう。あんたは喜んで海を渡った訳ではない。どうしようもない貧困と、日本ブラジル両国政府のほとんど詐欺レベルに近い募集要項が、あんたを地球の反対側まで運んだんや。議長さんは細目のチーノと周囲から馬鹿にされ差別され、それでも死ぬほど働き、ようやくゴム農園を軌道に乗せ、途中で結婚し子供も生まれ、農園は従業員を雇うほどの規模にまでなった。ところが戦争が始まり、日本とブラジルは敵味方に分かれて戦うようになる。敵国工作員となる恐れもある議長さんにブラジル政府は帰国を促す。当然議長さんが必死に開拓し、守り抜いてきた農園は接収される恐れも出てくる。妻や子供は何で私たちまで日本に行かなければならないのか、と喚き散らしてくる。日本に残してきた年老いた両親は今も貧しく、自分の相続分が減ることを嫌がる兄弟は、徹底してあんたの帰国を阻止しようとする。議長さんは悩みに悩んでブラジルに留まる決意をするが、そんな男にブラジル政府はこう告げた、この国に留まりたいのならブラジル国籍に変えて名前も今日からカルロス某に改名せよ。嫌だと?オマエは自分の意志でブラジルに残ったんだろう?ならば俺たちのルールに従え」
「分かったよ」
 議長は両手を挙げた。君の勝ちだ。
「どうせ日本人は俺たちが何を言おうが聞く耳は持たない。ああまた朝鮮人が騒いでどるわ、放っとけ放っとけ、てなもんやろ。俺たちが嘘つきや言うんなら、あんたたちは無関心の権化だ。俺から言わせれば、どっちもどっちやで」
 それにな、議長さん。
「数字の上では数パーセントの存在やろうけど、強制連行で連れてこられた朝鮮人の子孫かて、今でもやっぱりおるんやで。一人でも二人でもそういう人間がいるのなら、それは統計上のカウントをするべきではないやろ?
 こういう例は申し訳ないけれど、北朝鮮が拉致した日本人の数なんて、旧日本軍が朝鮮半島で殺戮した民間人の数に比べれば一パーセントにもならへん、と誰かに言われたら、議長さん納得するんか?議長さんにとって娘さんは、パーセントという単位で数えるような存在ではないやろ?」
「返す言葉もない」
 二人はその後、黙々と自宅までの道を歩いた。ようやく家の灯りが見えてきた頃、議長は呟いた。
「相慶、君は自分なりの歴史認識の持ち主なんだな。失礼を承知で言えば、いささか驚かされた」
 少し前を歩いていた若者は、振り返らずに答えた。
「長年、胸の内で温めてきた言葉や。俺がこんな話をするなんて誰も思わへんし、俺が求められている役割でもない。今日は長々と気持ちよく喋らせてもらった。感謝するで」
 鄭相慶はその間、一度も振り返らなかった。

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