「平壌へ至る道」(16)
翌朝、議長は公衆電話から伊勢の会社に電話をかけ、近くの公衆電話に移動するよう求めた。伊勢は答えた。「五分後に先日の番号を」
きっかり五分後、水産加工会社の建物前にあるボックスの中の電話機が鳴り、伊勢は受話器を掴んだ。
「ちょうどよかった。昨夜、ゴルフから帰宅してすぐ朴さんに連絡を取りました。来週韓国から帰国するそうです。向こうで有用な情報を仕入れたと仰ってました」
「その件に関し、こちらの方も昨夜、戻ってきました」
何が?―そう尋ねようとして、伊勢は理解した。「なるほど」
議長は再習慣化していた煙草を踏み消し、受話器の向こうに問うた。
「傷害と殺人の間に厳然と横たわる深いクレパスについて、相慶から聞かされたことはありますか?」
伊勢は見えない相手に頷いた。
「現地人化教育を行っていた時、何度も」
「だったら話は早い。彼は昨秋以来、固く心に誓ったそうです。今後は喧嘩が避けられない状況に陥ったとしても、相手の命を奪うレベルの攻撃は行わない、と。向こうで朝鮮労働党の建物を爆破するという計画にも、だから本心では賛成できなかったそうです。被害者意識に囚われ、命を標的とした復讐を交互に繰り返す限り、憎しみの連鎖は消えない、だから伊勢さんも議長さんも、喪われた家族を弔った後は、特定の誰かに暴力でそのお返しをする意志は捨てて欲しい、と頼まれました」
ちょうどその時議長がそうしていたように、伊勢もまた電話ボックスの向こうに広がる、曇った空を見つめていた。その空の下には同じ色の海、その海の向うには、兄が埋まる冷えた大地が横たわっている。その土もまた、きっと淀んだ鉛色なのだろう。
「鄭くんはどんな提案を?」
「平壌の万寿台にある金日成銅像の鼻下にスプレーでチョビ髭を描いて、現代のヒトラーに見立ててやる、と。それはあの独裁者にとって死に匹敵する屈辱になるはずだ、と申しておりました」
伊勢は吹き出した。鄭くんらしいアイデアですな。
平壌市を流れる大同江(川)と普通江。その両河川が最接近する丘陵地に造成された広場、万寿台。西に朝鮮革命博物館等の巨大な建築群、南に日本の国会議事堂にあたる万寿台議事堂が控えるこの政治の要所に聳え立つのは、一九七二年に建立された、高さ二十五メートルの金日成の赤銅像だ。
その悪趣味な銅像の下に集まる選ばれた市民や観光客は、すぐ近くで販売されている高価な花束を購入し、それを像の足元に捧げ、深く頭を垂れることが不文律として要求される。
「しかし仮にそれが成功したとして、警備担当は粛清されるのではないでしょうか。彼の悪ふざけが何人もの生命と未来を奪うことになる」
「私も同じ指摘をしました。相慶はそれにも答えを用意していました」
議長の説明に伊勢は唸った。もうそういう時代なんですね。
「その単語は私も聞いたことはあっても、意味までは知りませんでした。それが成功すれば、我々はあの国への怒りや復讐心を放棄する、とそういうことですか」
「そういうことです」
鄭相慶の心意気に思いを馳せ、固まっていた哀しみの一部が溶け出すような感覚をツンと鼻の奥に感じた伊勢は、迷うことなく答えた。私はそれで結構です。
「ただ、鄭くんの身の安全に関してはどうでしょう?ユニークな復讐案とは言え、捕まれば死刑は免れない」
「相慶が我々の会合に最初に参加した時、高校時代に修学旅行で万寿台に行ったと話したことを、覚えておられますか?」
元漁師はもちろん覚えていた。
「確か万景峰号で元山まで行き、そこから平壌に移動した、と」
「その日は深い霧で、銅像の上半身は見えなかったそうです。平壌は光化学スモッグの影響もあり、世界的にも霧の多い町ですからね。万寿台の銅像は夜間でも煌々とライトが灯されているようだが、最近の電力事情を鑑みれば実情は分からない。相慶曰く、もし夜間照明が落とされていて、深い霧に恵まれれば、像に取り付くことは可能だ、と」
「照明と霧、ですか。前者はともかく後者は偶然に頼る要素が強すぎます」「万寿台の敷居が高いようなら、国中至るところにあるあのコブ親父の他の像または肖像画のどれかにチョビ髭を生えさせてくる、との由です。ターゲットはあくまでも一箇所のみ、というガチガチな計画ではありません。ただあなたのツテで、一応は脱北者から夜間照明の最新事情だけでも聞いてもらえないでしょうか」
「それはもちろん。しかしもし我々の期待通りの状況でないようなら、鄭くんをみすみす銅像に上らせることに、私は反対します」
現地人化教育の過程で、伊勢はあの若者が格闘家の衣の下に隠していた意外なほどの繊細さと、意外なほどの思慮深さに最初は驚き、続いて興味を惹かれ、最後は理屈抜きで好意を抱くようになっていた。
「それは同感ですが、相慶が羅臼のウニ工場で過ごした期間、空き時間には何をしていたと思います?」
「想像もつきませんよ」
「知床のとある場所で、ロッククライミングを習っていたそうです。あの一帯は登攀場所として有名な所だそうで、しかるべき場所に行けば大概クライマーがいて、教師には事欠かなかったらしい」
「銅像に登る訓練として?」
「そうです。春の知床はまだ氷点下の世界です。一歩滑れば死が待つ断崖で、毎日オホーツクの風になぶられていたんです。二十五メートルの銅像などわけもなく征服してみせる、と豪語してましたよ」
「どこまでも面白い男ですな。では議長さんは鄭くんを、本当に向こうに送り込むご意向ですか?」
受話器の向こうが暫く沈黙し、やがて確信に満ちた声が聞こえてきた。
「元山から密入国させます。その際には伊勢さんの協力も仰ぐことになると思います。いずれにせよ協力者と今夜打ち合わせます」
「ようやく計画の一端を教えてくれましたね。その協力者について、今は何も知らない方が良いのでしょうね」
「しかるべき時期に情報は共有します。しかしその後のことはまだ決まっていない。まずは元山から平壌への移動手段です。現地事情を鑑みれば新婚旅行を仕立て上げるのが妥当だが、その場合パートナーはどこで調達するのか、相手はいつどこでどのような手段で解放してやるのか、といった問題があります、というより、問題しかありません」
「朴さんが何らかの解決案を携えて帰国してくれることを信じましょう。ところで議長さん、いい加減あなたの連絡先を教えてもらえませんか。いちいち新聞公告を出すのは面倒だし効率も悪い」
議長は一瞬の逡巡の後、ついに自分の連絡先を告げた。
彼らは電話を切った。
