「平壌へ至る道」(8)
大阪の伝道所。
地下室に下りた議長は、部屋の椅子に座る鄭相慶の姿に、一瞬拍子抜けした。
百七十四センチの自分より背は低い。頬はこけ、顔色は白い。格闘技の達人と言うより、花鳥風月を愛でる歌人のような印象を受ける。体格は『牧師』や自分の方が勝っている。
しかし背後に回った時に気づいた。隙がない。
もう一つの空いた椅子に、彼と対峙して座る。「鄭くんか」
無言。構うことなく議長は続ける。牧師さんに紹介して頂き、君に会いに来た。
「君が刺した男、一命は取り留めたそうだ」
「聞いてます」ようやく返事をしてもらえたが、その顔は俯いたままだった。
「じゃあ」
理由は分らない。声が割れ、一度唾を呑んで話し直さなければならなかった。
「じゃあ、罪悪感を引き摺ることもないだろう?」
「殺すつもりで刺したんです」
そんなことも分からないのか?という言外のメッセージを匂わす風でもない。事実をそのまま喋っているだけだ。
「その後、あの信洛とかいう子が助かったのは、誰かが病院に連れて行ったからでしょう。担当した外科医の処置が適切やったからでしょう。僕はただ奴を刺して、そのままそこに捨て置いただけです」
「それで君は、その償いをしようとしている」
やれやれ俺は何を当たり前のこと言ってるんだ、目の前の人間の自尊心を砕き、踏み潰し、見下してきた俺が、今更こんな小柄な若造に何おたついているんだ。
そんな議長の内心の煩悶に構うことなく、相慶はようやく視線を上げた。
「僕が何をどれだけ償えば、それが人ひとりの命に見合うのか分りません」
「これからどうしたい?」
若者は首をすくめる。
「死にたいのか」
「誰かがそれを望むなら」
「君はその誰かに、大人しく従うのか」
「僕に刺された相手は、誰かの意見に歯向かったり従ったりもできずに、今も病室で眠っています」
「ちょっと上に移動しよう」
二人は地下室を出て、小さな礼拝堂に入った。
「君は信仰は?」
「僕の国籍は『朝鮮』ですよ」
議長と若者は並んで礼拝者用のベンチに腰をかける。
「どうせ死ぬのなら」テーマが重ければ重いほど、簡単に告げなければならない。大仰な話題を大仰に語るのは愚者の仕事だ。「世界中に君の名前が配信される形で死んでみないか?」
相慶が振り向くのを感じながら、議長は続けた。目の前の十字架に視線を据えたまま。
「君を北朝鮮に送り込む。君はそこで政府の建物を損壊する。その後君を無事に逃す手順は考えるが、失敗すれば待つのは死のみだ」
隣に座る若者は身じろぎもせず、やがてふうっと深く息を吐いた。このことを牧師先生はご存知なんでしょうか?
「いや。現地で幽閉されているある日本人を救出するために北朝鮮に密航させる人材を探している、としか伝えていない。それも君に依頼したいミッションではあるが。テロ行為については私も含めこの世で三人しか知らない。今四人となったが」
「繰り返しますが、僕の国籍は朝鮮です。金日成は唯一絶対の父であり、家長であり、神である。そう言われて育ってきましたんや。どうせ僕の生い立ちなんて把握済でしょうが」
「で、君はそれを信じているのか?」
返事はなかった。
「第二次世界大戦直後、君の母国は先進国となる要素に満ちていた。ソ連から溢れんばかりの物的支援があり、統治国だった大日本帝国の遺物である重工業の工場は充分に稼働した。中国では共産主義者が政権を勝ち取り、君の国は知性の高い人民と高度な工業力と勢いのある友邦に恵まれていた。そんな国を君たちの唯一神はどう変えてしまった?不要な内戦を起こして国土を焦土化し、工場から生産される製品は市場競争の水準を満たさぬガラクタばかりで、税金を使って造るのは平壌の無駄にでかい建築物とテメエの銅像と、クソのようなプロバガンダを書き殴った看板ばかりだ。灌漑設備も、広大な水田も、家畜が牧草を食む農場も完成せず、食うものがないから木の皮を剥ぎ、煮詰めて空腹を癒すだけのシロモノに変え、地方の人民はただ生きる屍と化している。木がなくなれば森は消滅し、森が消滅すれば土は流れる。そこに大雨が降れば肥沃な土壌も石積みの家も濁流に呑まれてサヨナラだ。その悪循環の繰り返しは一体誰の責任だ?」
「あなたの歴史認識に興味はないし、僕自身は金日成その人に迷惑をかけられた記憶はない」
「君の親族郎党で、北朝鮮に帰還した者は?」
「いますよ」
「何人が日本海を渡り、今も連絡を取れる親戚は何人残っている?」
小柄な若者は前列の礼拝者用ベンチの背もたれを掴みながら天井を仰ぎ見た。その目は地下室に籠っておくべきだったと語っているようだ。
「連絡が取れないことが、全て金日成のせいだとでも?」
「そうだ、全てあの独裁者のせいだ。君が今まで帰化しなかったのは、あんな国に忠誠を誓ってのことなのか?」
相慶は苛立たしげに拳を握り、ベンチにそれを打ちつけた。
こつん、こつん、こつん。その音は誰に聞かれることもなく、誰に顧みられることもなく、静かに礼拝堂の中に溶けていく。
「僕にとって国籍は意味を持ちません。親に朝鮮籍を強制され続けた訳でもなく、韓国籍に変えたツレや日本に帰化した仲間とも縁を切りはしませんでした。ただ僕自身は弾かれた存在であるのが心地良かったんですわ」
「どういう意味だ?」
「ひと言で説明するのは難しいですね」
相慶は伸びをするように虚空を見上げ、そして初めて視線を議長のそれに合わせた。
「僕らはやっぱり、この国では部外者なんですよ。大多数の日本人は僕らを腫物のように扱う。ちょっと前まで、僕ら『外国人』が指紋を届出しなければならなかったことはご存知ですよね?」
「もちろん」
「おいこら下等民族の朝鮮人、オマエら犯罪予備軍にはあらかじめ指紋押捺が必要なんや、とでも言われる方が寧ろ気楽ですよ。もちろん現実はそうやない。役所のオッサンがコメツキバッタのように頭を何度も下げて、俯いたまま用紙をすうっと差し出してきてね。悪気ないのは分かるけれど、やっぱり彼らにとって、僕らは同じ高さでものを見る人間ではないんですよ。分かりますか?」
「よく分かる」議長は頷いた。
「僕の先輩で、高校卒業時に帰化した男がいました。理由は当時付き合ってた日本人の彼女に頼まれたから。実際国籍なんてその程度のものと認識している人間だって意外とおるんですわ。先輩は帰化申請を出した後何度も役所に呼ばれて、いろいろ聞かれていろいろ書かされて、何度も修正喰らって、十ヶ月かかって帰化がやっと認められて、晴れて日本人様になった時、役所にいた職員が全員立ち上がって拍手してきたそうです」
「示唆に富む話だな」
「僕が朝鮮籍を維持しているのは、帰化して拍手なんかされたくないとか、大戦前の日帝がウリナラに何してくれたんやとか、そんな面倒臭い矜持や信条によるものやないんです。ただ朝鮮人でいれば、周囲は遠巻きにして僕を見続け、僕自身も異物で居続けられる。そっちの方が楽なんですわ」
「君の心情はよく理解できた。で、向こうに行く気はあるか?」
若者は鼻で溜息をついた。「なぜ僕なんです?」
「牧師さんから聞いた限りでは、まず君は完璧ではないにせよ、修正可能なレベルで北朝鮮訛りの朝鮮語ができる。三十近くにもなって喧嘩三昧で、今や殺人未遂者だ。同胞コミュニティーに戻る場所はなく、その無駄に発達した責任感から、死をもって自分の行動にオトシマエをつけることも辞さない。果たして今、この国にそんな条件を全て兼ね備えた男が何人いる?」
相慶は片頬を歪ませた。全ての日本人があなたぐらい率直な物言いをしてくれるなら、僕も百年前に帰化していたのに。
「さっき君は、誰かがそれを望むなら死んでもいい、と言った。その誰かに僕がなろう。僕が君の北朝鮮行きを望む。できる限り生かして帰したいが、無理ならそこで死んでくれ」
相慶は今度こそ声を出して笑い、それが礼拝堂の天井にこだました。
「分かりました。僕の生命与奪権はあなたに預けます。でも動機がない。なぜ僕が北に渡り、何重もの警備を突破し、百万分の一の確率で党の建物内に入り込み、個人的には恨みもない連中を巻き添えにしなければならないのか、自分に納得できる説明ができません」
議長は、ここで自身の本名を告げた。職業も、その中での地位も役割も。歩んできた人生の軌跡も。
続けて話した。
自分がどれだけ娘を愛していたかを。
娘の生存への望みを諦めた時、どれだけ悲しかったか、今尚どれだけ辛いかを。
そして、自分がどれだけ金日成を恨んでいるかを。
相慶は三十分、議長の話をじっと聞き続けた。
