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「平壌へ至る道」(11)

 ロシア語で「放浪」を意味する「コチェビエ」を語源とする浮浪児童、コッチェビは当時すでに北朝鮮国内において数十万単位で発生していた。親がいない理由は様々だが、餓死、収容所送り、処刑、と背景はいくらでも推して知るべしだ。
「市場や下水道、駅裏に行けばそんな餓鬼どもが向こうから近づいてきますわ。小遣いを渡せば身を隠す場所も提供してもらえるでしょう」
「了解しました。元山での隠れ家は、私の方で何とかしましょう」
 その言葉に、ことによるとそのタイミングをずっと窺っていたような素早さで、朴は反応した。
「議長。そろそろあなたの手持ちカードについて、我々にも詳細をご教示願えませんか」
「必要な時期に必要な情報は伝えます」
「議長」伊勢が口を挟む。
 休職中の警官はあからさまに苛立たしげな表情でそれに応じた。同じ質問なら回答も同じです。
「何も情報を与えられない現状で、我々は仲間と呼べるのでしょうか?」
「いいですか」議長は伊勢を睨み据えた。
「私は最初の会合で、あなた方二人に連絡を取り合うことを禁じ、連絡先は削除するようにとも命じた。それは守っておられますか?」
 二人は黙した。
「私たちは、あの常軌を逸した体制下の、情報が遮断された国家の領土に忍び込み、そこで捕らえられている人間を救出し、民主選挙ではなく内戦によって政権を担うこととなった与党の固定資産を破壊しようとしているんです。この国に北の工作員が一体どれだけ潜っているのか想像もつかないが、向こうは命を賭けたプロ集団で、こちらは平和ボケした国に生まれ育った素人集団だ。我々は巨象に立ち向かう四匹の蟻のようなものです。そこのところ、しっかり認識されておられますか?」
「-」
「私は娘を拉致された者、あなたは総連と袂を分かった人間、そしてあなたは兄が幽閉されている会社経営者。この三人が、この数ヶ月でもう四回も集まり、三回目には大阪で同胞を刺した格闘家がスペシャルゲストとして加わった。こんな個性豊かな者の集いに、向こうの工作員の誰一人として気付かないというのなら、私はこのプロジェクトに関して相当楽観視することができますね。我々の誰かがある日、下手すればこの会合直後、黒衣の集団に囲まれバンに引き摺りこまれることもない、手足を縛られ濡れたタオルを顔にかけられることもない、爪を数枚失った後に仲間の氏名と連絡先を叫ぶことにもならない、とね」
「お言葉ですが、議長」朴がおずおずと切り出した。
「大韓航空機爆破事件について、議長はどう思われます?彼女も日本に潜入させる予定だった北の工作員でした」

 一九八七年十一月に起こったその出来事もまた、彼ら三人を結びつける結果を導いた一連の日本人拉致工作と深い関係を持つ事件だった。
 身柄を奪い、北の凍土まで拉致した埼玉出身の飲食店員、現地名『李ウネ』を日本語教師に仕立て上げ、共和国東北里二階三号招待所で彼女から日本人化教育を受けた工作員が仕掛けた液体爆弾PLXにより、インド洋の藻屑となったバグダッド発アブダビ、バンコク経由ソウル行きの大韓航空八五八便には、事故当時百十五名の乗客乗員が搭乗していた。
 生存者は一名もいなかった。
 アブダビで飛行機を降りた十五人の乗客の中から、『蜂谷真由美』名義の偽造された日本国パスポートを持った女性と、その父親と称する男がバーレーン空港で逮捕され、その際男性は服毒自殺に成功したが女性は失敗し、二週間後ソウルに移送された。
 女の本名は金賢姫、平壌外国語大学を中退した工作員。動機はその翌年開催予定だったソウルオリンピックの妨害。
 韓国当局のその発表に北朝鮮政府は色をなして反論に出た。おりしも韓国大統領選の真っ只中にあった時期、右寄りの候補者が北の脅威を喧伝すべく自作自演の悲劇を捏造したのだ、と。
「私は当時、本気で信じとりました。あれは我が共和国の威信を傷つけるため、韓国側が仕組んだ事件やと。その頃の政治的信条によってそう思い込んだ訳では決しておまへん。あまりにも工作そのものが杜撰やったからです。イラン・イラク戦争の渦中にあって警備が厳重を極めていたはずのバグダッド空港で爆弾を機内に持ち込んだ点、まあこれは幸か不幸かアラブ人の天性とも呼ぶべき怠惰のおかげで通過した訳ですが、アブダビからバーレーンに逃げた後、すぐに行方をくらませることなくそこでのうのうと一泊した点、ニュースバリューの低い初老の男は自殺を果たし、すんでのところで青酸カリを飲み損ねたとされる金賢姫は誰しもの興味を掻き立てるほどの美女やった点、そして、日本人化を果たしこの国に送り込む予定やったという割には金賢姫の日本語があまりにもお粗末やった点。爆破された八五八便に使用されていた機材に至っては当時同社最古参の、廃棄直前のものでした。その後の韓国大統領選挙の結果を見ると、当時自分自身がバリバリの共和国支持者だったという理由だけが、私の抱いた疑念の背景になる訳ではない、ということもお分かり頂けると思います」
「朴さんのお考えは今も変わりませんか」
「いや、やっぱりあれは北の仕業ですな。あれが韓国の右寄り候補とその党が仕組んだ事件だという結論は、あまりに荒唐無稽です」
「百十五人の命を犠牲にする選挙活動など、確かに常識では考えられない」
「まあその点は問題にはなりません。韓国にせよ北朝鮮にせよ、人命はバーゲンセール並みの価値しか持ちませんから。光州事件しかり、済州島四・三事件しかり、南の政府も外部からの監視がないと分かれば平気で人民に銃弾をぶっ放してきました。しかし自分の国のフラッグキャリアを飛行中に爆破するなんてのは、国の外貨獲得を一番困難にする愚案です。ましてや翌年には自国開催のオリンピックも控えとる。あれが北の連中が言うように韓国政府の自作自演だするならば、完全に収支度外視のアイデアやったと言わざるを得んでしょう」
「つまり、朴さんのお考えでは、北朝鮮の工作員のレベルは我々が想像するほど高いものではない、ということですか?」
 議長の質問に朴は大きく頷いた。
「大韓航空機爆破は、未だ公式には終結宣言が成されていない朝鮮戦争の交戦国である韓国を敵に回し、自国民による国際テロ行為を捏造された日本を敵に回し、その両国の背後に控えるアメリカを敵に回し、下手すりゃ内戦再開の可能性さえ含んだ大バクチやった。その実行犯として選ばれた金賢姫は、だから当時あの国ではトップクラスの工作員だった訳です。それであの程度の判断力と言語能力でした。空港で誰よりも人目を惹き、逃亡にも自殺にも失敗し、あっけなく官憲の手に落ち、濁音と半濁音がごちゃごちゃな日本語でぺらぺら謳いよる。
 もう一つ加えるなら、爆破実行犯がバーレーンに逃げた時点で、日本の外務省職員がホテルにこの二人を早々に訪問し、翌日の出頭を要請したところ、ちょっとしたパニック状態に陥ったそうですわ。あいつらは日本人が反撃してくる蓋然性などこれっぽっちも考えてないんです。何やられても遺憾ですと言うだけの腰抜け揃いやとナメくさっとるんです」
「だからと言って、彼らが全くの無能という話でもないでしょう」
 議長が冷静に朴の熱弁を遮った。
「なるほど確かに大韓航空機爆破事件だけを見れば、あの国のスパイの力量も自ずと浮かび上がってきます。ときに朴さん、金賢姫が本当に平壌外大の出身だというのなら、朝鮮労働党の忠実な党員に違いない彼女の家族は、今頃どこで何をしていると思われますか」
 分かりきったことを、そう大男は答えようとして、その口を閉じた。それこそが議長の求める回答でもあった。
「政府も外務省も認めませんが、日本にも内閣情報調査室内、公安警察内、自衛隊内それぞれに諜報組織は存在します。そんなスパイが例えば敵国で任務に失敗、あるいは拘束されたとする。日本国は彼を救出するかも知れないし、見殺しにするかも知れない。だが少なくとも、仕事をやり通せなかった諜報員の家族をまとめてどこかの拘置所に無期限で放り込むような措置は取らない。北朝鮮工作員の能力は想像以上に低いかも知れないが、その覚悟は日本人の比ではないという事実は常に念頭に置いておくべきでしょう」
 朴は不本意そうに頷いた。
 暫しの沈黙を破ったのは、意外にも伊勢だった。
「議長の言い分はよく分かりました。ただ現状の連絡経路だけでは、仮にあなたに何かあった時、朴さんも私もそれを知る術がない」
「あなた方が敵対勢力に拘束された際、何か口走る前に自分の舌を噛み切ると確約してくれるなら、今すぐ自宅の電話番号を教えますが」
 議長はそして二人を見つめた。まだ携帯電話もインターネットも普及していない時代、通信手段はファックスか電話、或いはメッセージをあらかじめ取り決めた場所にドロップする、といった方法しかなかった。
「-分かりました。それではこうしましょう」
 リーダーは溜息とともに古典的なメソッドを、彼の居住地域で広く流通している某地方紙の名称とともに提案した。
「ここに広告を出してください。義男、父と連絡取れた。兄弟一同。その日の午前中のうちに、私から二人に電話を入れます。これが私の現時点での最大譲歩です」

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