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「平壌へ至る道」(18)

 聞き終えた安田は盛大に肩を揺すった。何だそいつは、キリストの生まれ変わりか。元同胞としては感に堪えない話だね。
「なんだ、オマエも在日だったのか?」
「人に話すのは久しぶりだ。愉快な話を聞いちまった以上カミングアウトせざるを得ないだろ。高校を中退する前に帰化した。中退者の申請はなかなか認められないという噂もあったからね。俺も日本人の善良な一市民となって三十年って訳だ」
「オマエが善良なら、殆どの市民は神様だ」
「まだ自身の立場が分かっていないようだな。まあいい、俺自身、小学生の頃受けた民族学習とやらは大嫌いだった。あんな胡散臭えオッサンを民族の父などと呼ばなきゃなんねえ理由も分からなかったし、そんな態度を隠し通せるほど器用でもなかったから、帰りがけの自己批判の時間は、週の半分は俺を糾弾するものだったよ」
 共産圏お得意の自己批判大会。自分がいかに党の指導に忠実でないか、いかに誤った言動を行ったか、を自発的に集団の場で懺悔し、周囲からの罵詈雑言を浴び続ける―時には肉体的な暴力も享受する―システム。人間の自我を破壊し、外部からの命令に容易に従う人格を再形成するのに最も有効な手段の一つとして、今なおブラック企業の社員研修等で活用されている。
「今じゃいっぱしのヤクザの親分も、かつてはいじめられっ子だったってことか」
「いや、寧ろ俺は陰の人気者だった。掃除の時間に肖像画の額縁を額の上に保つことを一秒間怠ったとの罪で三角帽子を被り、罪状の書かれた段ボール紙をぶら下げ、正座して謝罪させられたことも一度あったな。民族の太陽たる首領様のお陰で今日もこうして元気でいられることへの感謝の気持ちを少しの間忘れていました、今日から心を入れ替え祖国統一のため血の最後の一滴が涸れるまで戦います、てなことを一日の最後のホームルームで喋る役割を、半分は俺が担っていた。誰もが俺に内心感謝していたよ」
「三角帽子と段ボール紙?まんま文革じゃないか」
「俺がガキの頃、中国は文革の嵐が吹きまくっていた。あのコブ親父も当初は朝鮮半島で同じことをやろうとしたが、さすがに思いとどまった。北朝鮮の人口は二千万、仮に一億人が同時に死んでもまだ十億以上が残る中国とは事情が違う」
 一九六〇年代後半、中国全土を席巻した文化大革命は、その動機のあまりの稚拙さ、被害のあまりの規模、死者のあまりの多さに故に、公的な歴史的総括は未だ成されておらず、当時の中華人民共和国の極端な閉鎖性とも相俟って、実態の公表には数年の経過を必要とした。
 その端緒は、度重なる愚かな経済政策の必然的な失敗により、三千万人ともいわれる餓死者を発生させた責によって国家主席を辞任した毛沢東が、後任の有能な改革派の進める政策が結果的に自己の功績をも否定する潜在的恐怖へのアンチテーゼとして、陰毛も生えそろっていないような学生たちを総動員し、「破四旧」、すなわち古い四つ―思想、文化、風俗、習慣―の価値基準への破壊行動を命じたものであった。
 人生経験もなく、ただ書物で学んだ表層的な知識と青い反骨心だけが自意識を支えているような若者にとって、エネルギーの捌け口は幾らでもあった。「紅衛兵」となった彼らは中国全土に存在した歴史遺産のことごとくを打ち壊し、燃やし、略奪し、旧い習慣の最たる例、親子関係までも潰していった。
 住みにくい世の中になった、そう一言ぼやいただけの父親を、子が密告する。深夜になって紅衛兵どもがその家に押し入り、反革命罪により父親を拘束し、罪人の象徴である三角防止を被せ、罪状の書かれた紙を首からかけ、町中を練り歩かせ、最後は糾弾大会の場に引きずり出す。その過程で父が死ねば、密告した子は賞賛され、「偉大なる毛主席の子」として紅衛兵たちから認められる。そんな世界が十年続き、瓦礫にまみれた中国全土に無数の精神疾病患者を産み出したが、同時に毛沢東は神格化されていった。
 生前のスターリンが同様にソビエト連邦で行っていた個人崇拝と、それが生み出していた社会の歪みに苦慮していた同国の後任書記長フルシチョフは、スターリン批判を公然と行い、「中国のスターリン」との間にも修復不能な亀裂を生じさせた。
 金日成はこの時、中国側についた。彼もまた個人崇拝を自らが統治する地で粛粛と実施中だったからだ。
 その結果、当時民族学校に通っていた安田少年も、三角帽子を被せられた一人となった。
「あの時の屈辱と恨みは、まだ晴らせてねえ。ぜひあの独裁者の像にチョビ髭を描いてきてくれ」
「他言無用だ」
「当たり前だ、こんな話を誰かにしたところで正気を疑われるだけだ。それよりあんた、人をひとり世界で最も閉ざされた国に不法に運び入れ、宿泊先まで手配する費用は誰が工面する?警察手帳を失いかけた中年男を先生と呼び、タダ酒をくれてやり、頓珍漢な頼みごとまで快く叶えてやるような慈善事業は、この会社の定款には書かれてない」
「幾らだ」
 組長は拳を握り、人差し指だけを上に向けた。
「百万か。具体的な日程や手段が決まれば、前金で全額渡してやる」
「おっさん、本当に鈍ったか」
 安田は呆れたように頭を振る。この世界の一本は、そのケタじゃないことぐらい知ってるだろう?
「そこまでは用意できない」
「ヤクザの商売道具は何だったかな?」
「-退職金から払うよ」
「俺の名誉のために言っておくが、あんたからその程度のハシタ金を頂戴したところで、海の向こうでの工作費用でその半分以上は吹っ飛ぶんだ。俺にだって火の粉がふりかかるかも知れないし、そうなったら俺は太い仕入れルートを一本まるまる失うことになる」
 それは分かる、と答えた議長に、安田は冷えた視線を向けた。いや、あんたは分かってない。
 「少しは想像力を働かせろ。いいか、俺は向こう連中とはいつも電話で取引の日取りを決める。あの国で私的に電話を持てる奴ってのは、さてどういうお方だ?」
「個人ではまだ無理だったか」
「自宅に電話線を引けるのは、党や軍の幹部か、オリンピックのメダリストといった『国威昂揚に大きく貢献した者』だけだ。あとは職場に一つ、アパートに一つ、とまあそんな感じだ。電話は全て交換手が手動で繋いでいる。言い換えればあの国の電話は全て体制からコントロールされているということだ」
 議長は呆れたように唇をすぼめた。聞きしに勝る国だな。
「国際電話ともなれば、もう完全に、絶対に、会話は盗聴され記録されている。だから俺はいつも向こうとは用件だけ伝え合って、季節の挨拶なんてまずしない。長電話が相手の社会的地位を脅かすことになりかねないからな」
「ちょっと待ってくれ」議長は安田の話を止めた。
「いつも電話で打ち合わせるということは、つまり相手はあの国でそれだけの立場にあるってことか」
「今更気付いたか」ヤクザはにやりと笑った。
「あの地上の楽園には非合法業の従事者は建前上存在しない。共産国家では基本的に食料は配給制だ、正規の仕事をしていない奴に身分は与えられないし、身分のない奴に食いもんは渡されない」
「すると元山の覚醒剤卸商は決してアンダーグラウンドな存在でも反社組織でもなく、国が公的に認めた一企業の社員ってことか」
「そんなもんじゃねえ。あいつらは朝鮮人民軍の一師団だ」
 議長は目を見開いた。軍が直々にクスリの製造、販売か。
「つまり俺は、外貨稼ぎに勤しむ朝鮮人民軍の根城に、軍の大ボスの銅像への落書きを目論む工作員を送り込もうとしている、ということになる」
「まあ大胆な作戦だよ」
 安田は皮肉か本気か分からない言葉を歪ませた唇の間から吐いた。
「オマエは向こうにどう説明する?」
「それは何とでもなる。こっちの若い幹部候補生にエス生成の現場を見せたいから二、三日預かってくれとでも言えば、大口のクライアント様に嫌とは言えないだろう」
 そうは言っても、と安田は続けた。
「こちらから密航を依頼する以上、口止め料含めて滞在費は向こうの言い値になる」
「オマエが一本と言ったのは伊達や酔狂ではなく、本当にビジネスへの必要投資という訳だ」
 分かってくれればいい、と組長は微かに白い歯を見せながら答えた。それよりあんたが懲戒免職にならないという保証は?
「警察だって面倒は避けたい。ましてや監査対象は俺だ。この言葉で安心できないなら、腎臓を片方提供する」
「老いぼれの腎臓に一千万の値がつくと思ってんのか。まあともかく明日、その工作員候補とやらにここに来させろ」
「承知した」
「あともう一点。向こうでそいつが追われる立場になってしまった場合、帰りのフネは用意しない。日本から来た不敬罪の容疑者を追いかける安全部なり保衛部なりの連中が、容疑者が元山の人民軍アジトに飛び込むのを目撃した、といった事態も考えられない訳ではない。あいつらだって一枚岩ではないし、警察と軍が偉大なる首領様の名誉を汚したチョッパリの引渡しを巡って揉める、なんてことになれば俺のタマだって危機に晒されちまう。平壌まで行くというのなら、そこからの脱出手段も考えておけ」
「たとえば?」
 安田は立ち上がり、部屋のドアを自ら開けた。
「どこまで甘えるつもりだ。それを考えるのは俺の仕事じゃねえ」
 二人は握手もせずに別れた。最後まで他の組員は入ってこなかったし、最後まで茶の一杯も出なかった。

「気に入ったよ」
 翌日の夜、十時過ぎ、議長宅への電話。
「ウチにはまだ盃を交わしていない、二十二になる見習いの坊やがいる。頭はからきしなんだが、腕っ節は相当のもんだ。素手でタイマン張らせたら組でナンバーワンだろう。こういう旧態依然のタイプだってまだまだ使いみちはある。そいつが鄭にいきなり喧嘩を仕掛けた」
 馬鹿な奴だ、と警官は思わず呟いた。
「俺も今となってはその御意見に賛成するね。見習い坊やは今病室だ。それでも鄭曰く、死なないように手心は加えた、とのことだった」
 さすがにヤクザだ。喧嘩の話をする時、安田は本当に楽しそうに喋った。
「分かった。報告がそれだけなら電話を切るぞ。来客中だ」
「あんたにも客人なんかいるのか」
「ペルソナ・ノン・グラーダだ」
「ああ、そういうことか」安田は耳障りな嘲笑を残して電話を切った。健闘を祈る。
 受話器を戻した議長の背中に、冷静な声が浴びせられた。
「陰口はもっとコソコソ叩いてください」
 別れた妻を、県警を退職して二十年経つ彼女を、手足のように使った張本人が、とうとう直参してきた。
 五十嵐は入庁八年目、県警警務部監察官室所属の警視で、役職上は議長に対して敬語を使う必要のないクラスに属している、いわゆる「キャリア組」だ。キャリアではあるが東大卒ではなく、本人の捻じ曲がった性格も災いし、警察内での引きは皆無だ。そうした自身の処遇を知ってか知らずか、五十嵐には現場介入の癖が入庁当時からあった。
 とある警察署に副署長として赴任し、そこでサラ金業者夫妻が殺害された事件の帳場が設けられた時、彼は単独で地取り捜査を毎日行い、夕刻の捜査ミーティングで状況を披露しては周囲の失笑を買い続けた。
 しかし、五十嵐だけが最初から怪しいと主張していた容疑者が犯行を自供したことで、それまで「キャリア坊ちゃんの道楽」を嗤っていた警官たちは態度を豹変させた。
 怒りだった。
 キャリアはキャリアの仕事をやってりゃいい、俺たちの世界に首を突っ込み横から獲物をさらうような真似はやめろ。
 五十嵐は公安に移され、そこでも数々の悶着を起こし、流れ流れて今は警務部で現場第一主義の監察官として動いている。面倒な男だが警官としての嗅覚は否定できない、というのが周囲の本人評だ。
「五十嵐警視殿ほどのお方が、人の電話を盗み聞きするとは意外ですね」
 警官同士の会話で、こうした階級を名前の後に付けることはまずない。彼我の立場の差を改めて思い起こさせる必要がある時と、相手を意図的に侮辱する時を除けば。
 離婚したとはいえ、娘の喪失という哀哭を共有する相手を利用したことへの対価を、議長はこのキャリアにいずれ利子付きで支払わせるつもりだった。
「今の電話は安田ですね。ヤスダ興産の」
「警視殿もご存知でしたか」
「安田の正体は地元の小学生だって知っています。休職中の警官がヤクザと飲食を共にし、あまつさえ直接その事務所に出入りする。かなり忌々しき事態と考えますが」
 好きなだけ叩けばいいでしょう、という議長の挑発を五十嵐は取り合わなかった。
「あなたがなぜあの組に近づいたか、最初は分かりませんでした。今は固い確証を得ております」
「伺いましょうか」
「あなた、安田の手引きで北朝鮮に渡り、娘さんを探そうとしているのではないですか?」
 議長は何も答えず、そんな彼の態度にキャリアは更なる自信を深めた。
「お気持ちは分からなくもないが、それを実行するなら、その前の身辺整理はお願いします。他の、または過去の監察官がどうだったかは知らないが、私は浪花節では動きません」
「ご高説は確かに承りました」
「タイムリミットは五月末としましょう。それ以降のあらゆる行動は、あなたにとって不利な証拠になるものと覚悟ください」
 そして五十嵐は立ち上がり、家人が淹れた茶には最後まで手をつけないまま出ていった。

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