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「平壌へ至る道」(19)

 数日が経った。家の電話器が鳴った。
 「議長。朴さんが帰国しました。今夜は私の自宅に泊まってもらいます。明日集まりませんか?」
 
 翌日、議長が予約した県警御用達のホテルに、三十キロ以上はゆうに痩せ、頭髪も豊かになった朴泰平が入ってきた。
「韓国に潜んでいたそうですな」
「伊勢さんが急襲されたと聞き、下関から釜山行きの船に乗りました」
「で、向うでイメチェンを図ってきたと」
「韓国にも北の工作員はうじゃうじゃおりますし、私の人相書きが出回っている可能性も考え、釜山の美容外科で四リットルの脂肪を腹とケツ回りから抜いてもらいました」
 議長と伊勢は同時に顔をしかめた。
「一週間ほどの安静期間、痛みもあって食欲も沸かず、百五キロあった体重は八十まで落ちました。そうなると確かに歩いても疲れない、膝の痛みも噓のように消える、という訳で、体調が戻ってソウルに移動してからも毎日歩き回り、食事はカロリー控えめにして、今こうなりましたわ」
「毛量も飛躍的に増えたように見えるが」
「カツラです。確かに髪型で人間の印象ってのは一変するもんですな」
「その通り。小賢しい変装や整形手術より、単に髪型や髪色を変えられるだけの方が捜査員も見落としがちだ」
「よく分りましたよ。ところで向うで幾つかの確認をしてきましたよ。まずは女の話からしましょか」
 そして朴は続けた。元山の娼館の女将と、間接的にですが連絡が取れました。有難いことに、まだそこで経営者をやってるようですわ。

「店には今、八人の女の子がいてるそうです。一番値段が高いのがソラという源氏名の子でしてな」
「ソラ、ですか?」
「そう、韓国では女児への名前として人気が高く、しかし革命的ではないという理由で、北朝鮮でこの名を付ける親はほぼおりません。つまりこの源氏名は都会風の女、というイメージのためでしょう。実際この娘、もともと核心階層の子息で平壌育ちだそうです」
「そんな名前で大丈夫なのですか?」
 思わず割って入った伊勢に、ソウル帰りの男は得意気に微笑んだ。
「そもそも娼婦という職業自体、あの国には公的に存在しないものですから、源氏名に罰則を設ける準拠もないんです。しかもこの女、体制側の職員は客に取らないという、源氏名云々どころではない一種の義侠心の持ち主のようで、それでも『再教育』を施されることなく今日まで商売を続けてこられたのは、それだけのお宝だということなんでしょう」
「本名や年齢は?」
「そこまでは分かりませんでした。女将とは向こうのツテで一度だけ間接的に手紙のやり取りをしただけですから」
 肩をすぼめる朴を、議長は宥めた。
「有益情報であることは間違いありません。しかしどういう経緯で平壌暮らしの令嬢がそこまで身を落としたのか」
「ああ、それはようある話です」朴泰平は片手を顔の前で振った。
「父親がなんぞヘマでもやらかしたんでしょう。本人は粛清、家族は収容所、若い女で別嬪なら金正日のオモチャである『喜び組』入り、そこまでの器量でなければ下級党員の慰み物、飽きられた後は全国を流れ流れて、といったところでしょうな」
「ではそのソラとやらは、平壌の事情にも明るく、心情的にもこちらの味方についてくれる可能性が期待できる訳ですね」
「少なくとも金日成マンセーと叫ぶことはないでしょう。地下抵抗組織のシンパでいてくれれば有難いですがね。但し半島では、たとえ体制に反旗を翻す側に回っても、チョッパリやパンチョッパリに協力してまでと思う人間は少ないでしょう。我々は仮想敵国筆頭格からの刺客である点、お忘れなく」
 日本人を暗喩する”チョッパリ”は朝鮮民族にとって概ね害悪の象徴だが、それ以上にパンチョッパリ―国籍は韓国または朝鮮でありながら、日本で暮らし、その生活習慣に染まり、「半分チョッパリになってしまった者」―は更に唾棄すべき対象として捉われる傾向が強い。

「そしてもう一つ」元総連の闘士は痩せた顔をほころばせながらポケットに手をやり、中から一本の鍵を取り出した。
「以前お話しした、平壌の総連幹部用アパートの鍵はやはり変わってませんでした。これで扉は開きました」
 聞き手の二人は驚愕したが、その結論に至る背景が漠としており、議長はその点を指摘した。朴は頷いた。
「では私のソウル入り後の経緯を話しましょう。釜山からソウルに移動してすぐ、以前から知っていた北朝鮮への民間支援団体を訪れ、協力したい旨を告げ、五百万ウォンをその証左として提供しましてな」
「いきなり申し訳ないが、ちょっと待ってください」
 議長が右手を上げた。その支援団体自体、南北両国からオフィシャルに認知されているんでしょうか。
 朴は痩せた顔を綻ばせた。
「一昨年の九二年末に行われた韓国大統領戦の結果が、北の態度に変化を与えたんですわ。金泳三が当選し、それまで三十一年間、軍人上がりが歴代のトップを務めてきた韓国で、久々の文民大統領が誕生しました。金泳三は自分のイメージを守る意味もあったんでしょう、大統領就任直後は北に対するあからさまな敵対発言を控え、北は北で毎回韓国の大統領が代わる度に朝鮮中央放送から流す攻撃的な文句もしばらくは差し控えましてな。そうした凪の期間がしばらく続き、それまでは水面下で蠢いていた支援団体もある程度自由に活動できるようになりました。ちょうど北朝鮮では度重なる水害で食糧が尽き始めた時期でもあり、向うにとっても無償援助は渡りに船やったんです。もっとも現在、金泳三と金日成の関係は悪化の一方ですがね。そもそも金泳三は実の母親を北朝鮮の工作員に殺害された男ですさかい、その親玉であるコブ親父との和解はありえないでしょう」
「それでも動き出した歯車は止められなかったということか」
「そうです」
「とりあえず朴さんの持参金は効果があったでしょう」
 
 団体の対応者は、五百万ウォンの現金にこの酔狂な男への懐疑的な視線を豹変させ、朴を理事長室へと案内した。そこで朴は自らの来歴を話して聞かせた。殆どの部分で噓はなく、話には苦労しなかった。
「朴さん、あなたの意気はよく分かりました」理事長は穏やかに答えた。「しかし朝鮮籍を放棄した時、なぜ韓国籍を取得しなかったのですか。よりにもよって日本国籍とはねえ」
 朴は我慢強く説明を続けた。日本で商売を続けていく上で、まず生きていくために最善のステップを踏む必要があった。便宜上チョッパリとなったが、心は常に半島にある、と。
「ご納得頂けないようでしたら、私は五百万ウォンを持って別の支援団体を探します」
 理事長はご納得した。
 翌日から、朴泰平はその団体の一員として、韓国全土から集まってくる救援物資の仕分け作業に携わった。年齢、性別はまちまちだったが、「日本人」である朴への反応は、最初は当然ながら真っ二つに分かれていた。それでも無給で北朝鮮への支援を続けようとする意志を持った人間の集まりだ、少なくとも表面的には彼への嫌悪感を顕す者はいなかった。かつて焼肉屋とパチンコ店の商売を軌道に乗せ、総連の幹部まで務めていた朴泰平自身、人心掌握術は今なお体内に残していた。
 
「ある日、彼らのうち二人のメンバーが、近く平壌に物資を届けに行く、と聞かされました」
 朴の言葉に議長は当然の質問を重ねた。「北朝鮮という国の存在自体を認めていない韓国国民が国境を超えることは不可能でしょう?」
 朴は答えた。国交がないのは日本も同じでっせ。
「私らが最初に会った時、伊勢さんの言われたことを覚えてますか?今はカネさえ積めば日本人かて北京経由であの国を訪問できます。韓国でも事情は同じですわ。私の支援団体は韓国赤十字社の系列でね、そこを通して北の赤十字から招聘書を発行して貰い、統一部という役所に入域許可を申請するんです。真っ当な渡航理由なら、訪問地や時間は限定されますが、半分以上の確率で渡航許可証が交付されます」
 その中心的な役割を果たすのが、李昌徳、イチャンドクという男だ、と朴は続けた。
「李青年は延世大学を出て鉄道局に勤務する傍ら、支援団体のボランティアにも参加しているのですが、何せ見た目の麗しい男でね。南も北も男前には本当に弱いものですから、支援物資の運び屋としては適任なんです。最初から私に対して友好的だった派の筆頭格でもあります」

 朴は李青年に尋ねた。平壌で少しは自由に動き回れるのか。
 李は苦笑しながらかぶりを振った。
「旅行者以上に監視がつきます。向うの目的は物資であり食糧であり、敵国民との人的交流では断じてないですから。寧ろ僕らの口から南鮮の繁栄振りについて我が人民に伝えられるのはたまらんと考えている節さえあります」
「君はそれを不満には感じないのか?」
「僕らの希望だけ一方的に押し付ける訳にはいきません。僕らは今僕らができる最大限のことを実践するだけです。ただ僕自身は、何度か向こうへの渡航を重ね、人畜無害との判断を頂いたようで、日中に三十分だけ、朝鮮赤十字会のスタッフ同行という条件つきではありますが、比較的緩やかな雰囲気で平壌散策を許されるようになりました。安全部や保衛部の無表情な男たちと歩くよりは、ずっと気楽ですよ。赤十字の方も、僕が向こうの市民に話し掛けることさえしなければ、後は大体放任してくれますし、冗談も言ってくれるようになりました」
「美男子は得だな」
 李昌徳は顔を赤らめた。からかわないでください。
「李くん、今夜、良かったら寿司でもつまみに行かないか?それからウチで酒でも飲もう」
 若者は年長者の誘いをむげには断らない朝鮮人民の伝統に則り、内心はどうあれ分かりましたと答えた。
 
「彼は酒が弱くてね。それでも何度か平壌入りを任ぜられたのは伊達ではない。どんなに酔っても、向こうでの細かな任務や旅程については口をつぐんだままやった。それで僕は彼にこの鍵を渡したんです。これは平壌地下鉄『凱旋』駅近くにあるアパートのキーだ、穏やかな監視下で散策が許されるその三十分で、赤十字の連中には煙草でも渡して、この鍵でドアが今も開くかどうかを確かめてきてもらう訳にはいかないだろうか、と」
 議長は呆れたようにかつての大男を見つめた。知り合ったばかりの人間に対して、いきなりですか。
「我々に時間はないですから」
「青年はいぶかしんだでしょう」
「すぐに立ち上がり、帰ろうとしました」

「朴泰平さん、あなた一体何者ですか」
 李はさっと立ち上がり、ドアに向かった。朴泰平は衝動的に叫んだ。俺の仲間の話を聞いてくれ。一人は兄を、もう一人は娘を失ったんや。
 青年は立ち止まり、振り返った。酒が朱に染めていたはずの頬から、既に血の気は失せていた。
「話だけでも聞いてくれ、お願いします」
 李は暫く石像のように立ち止まっていたが、口元を硬直させたまま頭を振り、険しい表情を緩めることなく戻ってきた。

「そこからは、勝手ながら議長と伊勢さんのエピソードを伝えさせてもらいました。喋っているうちに、何やらホンマに自分の兄や娘を奪われた気がしてきましてな、自然に涙まで流れ出てくる始末でして」
「少なくともお人よしのボランティアを説得はできた訳だ」
「彼は僕に渡された鍵を改めて眺めながら、まだ使えるとお考えですか、と尋ねてきました。僕は分からないと答え、状況的に難しいようなら無理にアパートを訪問する必要はないし、まずは自分の安全を優先してくれ、と付け加えました」
「心にもないことを」
「いや、本気です。僕らのテロ計画に善意の第三者を巻き込む訳にはいきませんからな。しかしその翌週、本当に平壌へ日帰りしてきた彼は、僕に鍵を渡してこう伝えてくれました。部屋には誰もいませんでしたが、教えられた場所にあった建物の、教えられた部屋番号のドアは確かに開き、そこに日本語の書物が何冊かあったのも確認しました、と。内容は金日成体制を称えるものや、金日成自身の名の下で発表された論文、演説の起こしを邦訳したものばかりで、そこが依然として総連からの来朝者用宿泊部屋であることは間違いないようだ、と教えてくれました」
「彼が行きもしなかった場所への出張報告を行ったという可能性は?」
「李くんは窓から見えた風景も描写してくれましたよ。確かにあの部屋からのものでした。そして彼はその夜、今度は向こうから私を夕食に誘ってくれて、興味深い話もしてくれたんです」

「単刀直入に尋ねますが、朴さん自身は共和国への入国を、既に諦めているのですか」
 李昌徳の顔はその時もまた、岩のように強張っていた。
「希望はあっても、私は自主的にあの国の国籍を捨てた男だ」
「合法的に入国しようとするからです」李の声はその表情に似つかわしい緊張をはらみ、この話をまだ深く知りもしない相手に迂闊に披露して良いものか、という逡巡を色濃く含んでいた。
「別の方法を、君は知っているのか」
 青年は黙ったまま頷いた。

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