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「平壌へ至る道」(13)

 一九九四年三月 糸魚川市
 
 夜中にノックの音がした。
 目を覚ました家主は朦朧とする意識の中でも、本能的にそれが不幸を告げる響きと分かったが、この国で起きる身の危険などたかが知れているという弛緩が、まだその時点では自身の神経の大半を染めていた。
 家主がドアノブを回した瞬間、強烈な力がドアと彼の腕を外界に引っ張り出し、たたらを踏むようにして玄関の外へと歩みを進めた彼は、黒づくめの集団に囲まれ、顔に袋をかぶせられ、後ろ手をねじられ、背中を蹴られるようにして車の後部座席に放り込まれた。
 両サイドに男が座ってきて、左右の腕を拘束してきた。日頃から鍛錬を欠かさぬ者の力感が、両方の太い指先から骨の髄まで伝わってくる。
 全身が総毛立ち、今更ながらに脳内を警報音がかんかんと鳴り響いた時間は一瞬で、自分は死ぬのだと漠然と予想した瞬間、不思議と恐怖心が消えた。それならそれでいい。
 家族を失った苦しみ、零細企業を自転車操業する毎日のプレッシャー、バランスシートから目減りする気配すらない長期借入金。思っていた以上に人生に疲れていた自己の発見と、その終焉を受け入れる準備が既にできていたことに、内心そっと笑った。
 こいつらは俺の口を容易に割らせられると楽観視しているだろうが、そうは問屋がおろさない。
 視覚を失い、後部座席で身じろぎもできず、時間の概念は消し飛んでいた。移動時間は五分程度だったかも知れないし、一時間近く車に乗っていたような気もした。
 車が停まり、エンジンが切られた。後部ドアが開き、冷えた空気が流れ込んでくる。
 荒々しく車から引っ張り出され、相変わらず両の腕を掴まれたまま歩かされ、建物の中に入った、と感じたと同時に顔を覆う袋が外された。
 建物は闇の中だったが、既に暗順応が始まっていた眼と、死の予感が猛烈な勢いで稼動させていた情報処理感覚が、そこがトレーニング施設のようなものであることを教えてくれた。
 髪を掴まれたまま正座させられ、正面から懐中電灯を当てられる。
「名前は?」目の前で椅子に腰かけていた男が続けた。
 誰の名前だ、そう答えた途端、再び腕をねじ上げられた。
「あんた以外に誰がいる?」
「馬鹿かオマエらは。名も知らぬ男を拉致したのか。分かりきったことを聞くな」
 締め上げられた腕の、肘から先が冷えたように感覚を失っていく。この場でただ一人、椅子に座る男が声を発した。随分威勢のいい対応だな、伊勢さん。我々の調べではあんたが一番軟弱なタイプのように思えたが、見込み違いだったか。
「兄貴はどうやら殺されたらしい。オマエらの海の向こうのお仲間にな。俺もこれから消されるのだろう?できればひとおもいに殺ってくれ。一枚ずつ爪を剥ぐなんてのは御免だ。平壌送りも断る。あんな場所で余生を過ごすくらいなら、肥溜めの中で一生を送った方がマシだ」
「伊勢さん、あんた一体何を勘違いしている?海の向こうだの平壌だの、俺たちを北朝鮮のスリーパーだとでも思っているのか」
「白々しい台詞はやめろ」
「聞きたいことがある。あんた今朝の漁で一体何をした」
 伊勢はそこで初めて肝を冷やしたが、歯を剥いて応じた。何の話だ。
「面倒な駆け引きは互いにやめよう。今朝の四時、あんたは船を出し、八時に戻ってきた。加工業専従になったはずのあんたまで漁船に乗っていた不思議には目を瞑ってやっても、乗組員が三人増えた状態で帰港してきた矛盾は看過できない。うちの者が望遠レンズで撮影した写真は多くが不鮮明だが、それでもこちらで解析した結果、少なくとも二人が帰港後いったん陸に上がり、再び船に戻り、下手な変装をしてまた出てきたことが分かった。あんたは自分たちが見張られているのに気付いていて、なんとも小賢しい偽装を行った。これが何を意味するかと言うと、恐らく一名か二名、沖合で船から姿を消した者がいるはずだ、と俺たちは結論づけている」
「面白い話だな」
「なあ伊勢さん、何なら明日、俺たちが大挙してあんたの水産会社に押しかけ、従業員を誰彼かまわずひっ捕らえて、今のあんたと同じ目に合わせても構わない。警察に相談したければお好きにどうぞ」
「怖いのは偉大なる首領様だけだってか」
 懐中電灯の光が左右に揺れた。合図だったのだろう、背後から強烈な力で頭を押され、伊勢は顔面から地面に崩れ落ちた。床の冷たさが頬に染みる。それは自分が今のところはまだ体温を持つ存在であることの証だった。
「正直言うと、ここに着く前にあんたは何もかも喋ると予想していた。車が小便で汚されるという意見もあってね、後部座席にビニールシートまでかけていた」
「脱糞でもしてやればよかった」
「最近、あんたのお兄さんが亡くなったと聞いた」
「誰から、と尋ねても答えはないんだろうな」
「風の噂だ。伊勢さん、あんたは信じないだろうが、お兄さんのことは本当に気の毒に思う。心からのお悔みを言わせてもらう」

 気の毒に思う?心からのお悔やみ?
 激しい混乱に襲われた伊勢は、忽然と自分の立ち位置と向くべき方角を見失った。
 そんな中でも、これが情に訴えかける作戦であるという可能性は考慮から除外した。自分の口を割る方法ならば、こいつらには他に幾らでもある。その言葉は男からの本心のように聞こえたし、そうであってほしかった。
 不思議とその刹那、兄は本当に死んだのだ、と心が認めてしまった。この真っ暗な、場所も分らない、暴力の行使も厭わない敵に囲まれた建物の中で。
 あらゆる情報の不確かなあの国のことだ、何らかの陽動作戦か、梅干しケースに書き込んだメッセージへの暫定的ペナルティとしての虚偽伝達だったという見込みも、胸の片隅のどこかに巣食っていた。
 そうした期待が今、音も立てずに霧消していく。
 自分より遥かに事情を知っているであろう名も知らぬ男が、今こうして目の前で誠実に伝えてきた言葉。事実はそこにあるのだろう。
 痛みを含んだ悲しみが血流に乗って全身を駆け巡る。
 兄貴、苦しかっただろう、無念だっただろう。
 どんなにか日本に帰ってきたかったか、どんなにか年老いた両親に会いたかったか。どんなにか我が子を抱きしめたかったか。
 伊勢が静かに涙を流す間、男は懐中電灯を消した。背後にいる何人かの男たちも二次攻撃を与えてくることはなかった。
「もう知っているとは思うが」
 慟哭の落ち着きを待って、伊勢は話し始めた。
「兄を元山から救い出そうとしたんだ。でもその前に、本当に彼が北朝鮮での暮らしに満足しているのかどうかを確かめるため、向こうの連中に横取りされる恐れの少ない梅干しの容器に言付けを添えた」
 伊勢はそこで一息つき、前を見据えた。暗闇の中でも椅子の上の男が顎を動かし、続きを促すのが分かった。
「それに対する返答が、北朝鮮からの書き手も分からないハガキ一枚だった。俺のプロジェクトはそこで終わった」
 黙って聞いていたリーダーとおぼしき男は、とある信越地方の町の名前を口にした。
「昨日、そこのホテルで伊勢さん、あんたは二人の男に会っている。うち一人は朴泰平と、昨日のうちに判明している」
 動揺を表情に出すまい、身じろぎに出すまいとした喫緊の努力は成功しただろうか、と伊勢は心の中でそっと思った。
「とある組織を数年前に裏切って大阪を出奔した男だが、俺たちには関係のない話だ。しかしもう一人」
 男はそこで息を止めた。もう一人、それが分からない。
「あのホテルは、某県警が好んで使うことで有名だ。あんたたちがそこで会ったことを単なる偶然と考えるのは無理がある」
「じゃあ、あんたらはこの事実も既に把握しているはずだ。俺と朴さんは拉致被害者家族会を通して知り合った。兄を奪還するための手立てと人脈を、北にコネのある朴さんの協力を仰いで構築するつもりだった。従ってもう二度と、我々が会うことはない」
 オマエたちの親玉がその機会を潰したんだ、という伊勢の挑発に、目の前の男は乗ってくることなく、冷徹に質問を重ねてくる。今日の早朝、海から逃がしたのは一体誰で、その人数は?
「逃がしたのは脱北者だ。こちらも被害者家族を支援する団体からの紹介を受けて、向こうの事情を教えてもらおうと、ひと月ほど前からウチで匿っていた。海から逃がしたのは、まさにあんたらのような連中が見張っているかも知れない、捕まったら彼の命も危うい、と考えたからだ。百万ほど持たせてやったから、東京でも大阪でも、当分は身を潜めていられるはずだが、彼の行き先は本当に知らない。日本語もある程度は話すが、決してまだ流暢ではない。その点の心配はしている」
「脱北者を匿うとは随分殊勝な心掛けだな。拉致被害者家族の会合には俺たちも顔を出すようにしているが、そんな話は聞いたことがない」
「あんたらのような人種が集まりに紛れていることは、こっちだってお見通しだ。あんたらのような全身から暴力の匂いと殺気を発散しているような奴らが、拉致被害者の仲間だと信じてもらえているなんて、まさか本気で考えてはいないだろうな?」
 闇の向こうから反応はなかった。
「こっちは実際、誰が総連の連中で、誰が公安で、なんてことはちゃんと分っている。それでもあんたらが例えば入口で記名をするような機会があっても、受付のおばちゃんたちはにこやかに対応しているだろう?本当は彼女たちも知っているんだよ、目の前でいけしゃあしゃあと嘘の名前と住所を書いている男の正体なんて」
「そういう態度をおくびにも出さないとすると、あの中年女性たちはみんな相当な役者ということになる」
「家族をある日突然奪われた者の心中を想像できないから、そんなことが言えるんだ。あのおばちゃんだって俺だって、ある面では本心でオマエたちのような無法国家の代理人の潜入を歓迎しているんだ。自分たちの悲しみを聞いてくれて、苦しみを聞いてくれて、もうこんなことはやめよう、今まで拉致した方々を日本に戻してあげよう、そう誰かがいつか本国に申し出てくれる日が来ないか、という一縷の望みに縋ってな」
 懐中電灯を少し揺らした男に、伊勢は叫んだ。
 オマエにだって大切な人はいるだろう?失いたくない人はいるだろう?
 リーダーはその言葉を無視した。
「あのホテルにいた白髪のツイード、あれは誰だ」
「知らない」
「家に帰りたくないのか」
「答えが気に入らないのなら、今ここで殺してくれて結構だ。知らないものは知らないとしか言いようがない。警察関係者だとは思うが、どこの県警かは本当に知らない」
「知らない人間とどうやってコンタクトを取る?」
「連絡は一方通行だ」
 議長の言葉は正しかった。彼の本名、年齢、住所、職場。そんな情報を一つでも具体的に知っていたら、俺は口を割っていただろう。
 建物の中はしばらく沈黙に包まれた。やがて懐中電灯を持った男が溜息をつき、周囲に告げた。
「お客さんのお帰りだ。伊勢さん、これを」
 腰の位置に渡されたものを、暗闇の中で咄嗟に掴んだ時、カメラのフラッシュが光った。手の中に数枚の万札が残された。
「治療費だ。怪我はさせてないはずだが、念のため外科で診てもらえ。叩き返したい気持ちもあるだろうが、あんたの経済状態は分かっている。ここは実を取っておくことを勧める。それでも納得できないのなら、裸で申し訳ないがお兄さんの香典だと思ってくれ。あんたがもし警察に被害届を出して、この国の無能なポリどもが万一の偶然で俺たちに辿りついた時は、今撮った写真を見せる。示談は済んでいる、という言葉と共にね。今後はあまりウロチョロするな」
 伊勢はまた頭に袋を被せられた状態で帰宅した。その上に何重ものパンストが巻かれ、無法者どもの馬鹿力できつく縛られた。車が停まり、ドアが開き、外に出され、顔を覆っていた遮蔽物をどうにか外した頃には、車は跡形もなく消えていた。

 四週間待った。
 その間、兄の死亡届を役所に提出した。失踪して十年が経つ地元の有名人、届はあっさりと受理された。親族から噴出した反対意見を一蹴し、葬儀はあげなかった。計画的に―と今では伊勢も確信していた―身柄を奪われ、強制的に自由を、意志を、夢を奪われ、最後に命を奪われた兄を黄泉に送る儀式についての噂がいずれ連中の耳に入ることは屈辱だった。形式的な手続きは済ませたものの、自分は心のどこかで、たった一人の兄の生存をまだどこかで信じていると、奴らに思い知らせたかった。
 伊勢は片っ端から昔の友人知人、仕事仲間や取引先に電話をかけ、外に出かけて酒を飲んだ。
 連中はしばらく自分を尾行し、通話記録を調べるだろう。四週間という時間が充分なものかどうか分からなかったが、そろそろ連中も、俺のところにかかってくる電話も、俺がかける電話も、いずれも二束三文の価値しか持たないと判断し始めているのではないか。
 そしてきっかり四週間後、新聞広告を出した。

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