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「平壌へ至る道」(17)

 一九九四年四月 信越地方某市

 同じ日の夕方、その「組」をアポなしで訪れた議長は、インターホン越しに告げた。「社長に合わせてくれ」
 お待ちを、という若者のぶっきら棒な返事の後、たっぷり三十秒待たされた。
「すぐに下ります。市内に宴席を設けますよ」
「不要だ。中に入れて欲しい。十五分で終わる話だ」
 また三十秒の沈黙。
「どうぞ」鋼鉄製の門が音を立てて開いた。

「急にまたどうしました、先生」
 組長の安田は応接室で薄ら笑いを浮かべていた。議長は挨拶もそこそこに、単刀直入に切り出した。「次の覚醒剤の仕入れはいつだ?」
 相手はわざとらしく体を揺すった。何を言い出すかと思えば。
「ウチはれっきとした株式会社ですよ」
「建前は不要だ。オマエの会社、じゃない、オマエの組が北朝鮮の元山からの漁船を装った工作船で運ばれるエス―スピードと呼ばれる覚醒剤の一種。その頭文字を取った隠語-を日本海上で受け取っていることは、四課でなくともこっちは皆知っている」
 組長は唇の片端だけを持ち上げるようにして、煙草を咥えた。若い組員がライターを持ってすっ飛んでくる。
 今日はそういう小芝居はいい。安田は右手を振って若者を下がらせた。
「部屋を出ろ。カメラも切れ」
 若者はドアの外へと消えた。
「なあ、先生」安田が身を乗り出してくる。ウチの取引を利用して、何しようってのよ?
「随分口調がフレンドリーになったな」
 議長の皮肉に、組長は目の前の男を本名で呼んだ。呼び捨てで。
「なあ、あんた今、県警で相当ヤバい立場らしいじゃないか。監察があんたの別れた嫁さんを使ってまで牽制に入ったんだって?」
「耳が早いな」
「前からあんたの接待に対して、身内からも疑問の声はあった。死に体のデカに飯食わせてメリットがあるのか、てね。気を悪くしないでくれよ、これは俺のセリフじゃない」
「誰の言葉だろうが、少なくとも昨日までのオマエならそんな話をわざわざ俺の耳には入れなかっただろう」
 安田は盛大に煙を吐いた。いじけるなよ。
「いいか、あんたを昨日まで先生と呼んで持ち上げていたのは、それだけの見返りがあったからだ。あんたを押さえておくということは、県警の一部、無視できない一勢力を押さえるに等しいことだ、と俺は本気で思っていた」
「期待に沿えず申し訳ない」
「四課の連中だって、大体はあんたに一目置いていた。人間としての好き嫌いは両極端に分かれていたが、それでもあんたを過剰な自信家だと嫌うデカだって、警官としての力量は渋々認めていたよ。同僚は敵、足の引っ張り合いは日常茶飯事、ヤクザもんの俺から見ても呆れ返るぐらい、警察ってのは幼稚園児並の精神性と基礎体力だけはゴリラ並の野郎どもが佃煮にできるぐらい集まっている場所だ。マル暴担当となる四課はその中でも更にタチが悪い。そんな奴らの半分から偶像視され、もう半分は嫌いながらも褒める相手ってのは一体どんな奴なのか、俺だって興味が沸くさ」
「オマエは合法企業の社長じゃなかったのか?」
 組長は笑った。建前は不要じゃねえのかよ。
「オマエには俺から近づいた。おかしいとは思わなかったのか」
「思ったよ、もちろん。あんたは小金を持ったチンピラにタカるタイプの警官では全くなかったからな。あんたが家庭の問題を抱えて、県警内で本流から外れたことは、もちろん知っていた。でもな」
 組長は再びそこで議長の名を呼び、せめてもの礼儀で敬称もつけた。
「あんたにはそれでもまだ価値があったんだよ。あんたが俺を利用するならしてもいい、俺だってあんたを利用しようとした。お互い様だ。ただ敵の狙いが皆目見当がつかないってのは、なかなか気持ち悪い話でよ。いつか尋ねてみたかったが、あんたにはそれを許さない空気があった」
「喋り方講座にでも通うとするか」
「あんたに監察が目をつけるのは、忌憚なく言わせてもらえば当然の職務遂行だ。それでも奴らだって一応はあんたに敬意を示し、自分たちが県警の功労者を不審者としてマークしております、という態度をあからさまにする気配は長い間示してこなかったんじゃないか?」
 議長は不本意ながらそれを認める。
「それでも先日、何をトチ狂ったかゴルフ遊びに勤しむあんたの所へ、元婦警の別れた奥方が離婚後初めて会いに来た。何を話したかあんたは教えてくれないだろうが、想像はつく」
「オマエの想像通りだろうよ」
「ヤクザの商売道具ってのは、さて何だった?」
 休職中の警官は即答する。人の弱みだ。
「その通り。人は誰しも後ろ暗い過去や習慣がある。他人様に暴かれたら身の破滅だ、とまあ俺たちからすれば大したこととは思えないんだが、本人からすれば生きるの死ぬのといったトピックに様変わりしてしまうような弱みがな。俺たちはそれを探し出し、カネに変えることで禄を食む。だがあんたからは身を挺してでも隠したいという弱みが、いくら探っても出てこなかった」
「一応は探っていたのか」
「そりゃそうだ。奇妙な性癖も、俺たちのような連中からタカった過去もなく、そこそこ清廉潔白な刑事人生を送ってきたあんたには、どこからもつつきようがなかった。でも今回ついに、あんたの弱みになるかも知れない要素が転がり込んできた。自分の見立てにそれほど自信がある訳ではないがな」
「それは何だ」議長は会話を面白がる態度を隠そうともしなかった。
「いよいよあんたが県警をクビになるかも知れないという事実そのものだよ。何だかんだ言いつつも警官という身分に拘泥していたあんただ、元妻の訪問は実のところ結構こたえてんだろ?まあそれが本当にあんたの弱みになるとしてもだ、どうすればそれが現金となって俺のバランスシートを好転させてくれるか、今はまだ考えがつかないがな」
 議長は煙草に火をつけた。誰もライターを持って近寄ってはくれなかった。
「これからオマエにしようとしていた頼み事が上手く進めば、警察に未練はない」
 組長はソファに沈めていた体を前傾させた。興味深いね。
「逆にオマエが俺の依頼を断ったら、四課の人間を焚きつけてこのご立派な会社にガサを入れさせるのも吝かではない」
「最早そんな権限も力もねえだろと言いたいところだが、あんたに対してはそんな大見得を切れねえのがツラいところだ。だが協力の結果俺が捕まるようなことになれば、あんたも一蓮托生だぞ。依頼退職と懲戒免職じゃ、退職金も将来の人生設計も大きく違うはずだ」
「どちらでもいい。俺の失うものよりは、オマエの失うものの方が大きい」
 組長は溜息をついた。「俺に何をしてほしいんだ」
「次の取引に一人の若者を同行させて、向うに渡して欲しい。そいつを北朝鮮に密航させてくれ」

 安田は煙草を持つ手を止めたまま、本当にあんぐりと口を開けた。何を言ってる?
「ただ密航を手伝うだけじゃない。しばらくは元山の、オマエの取引相手のアジトに匿ってくれ。ジャンマダンという自由市場で必要な物資や身分証を揃え、準備が整えばそいつは多分、一週間ほどあの国を旅する。それ以上潜伏し続けられる国でもあるまい。その後また彼を日本海への船に乗せ、無事に日本へと帰国させて欲しい」
「ちょっと待ってくれ」組長は右手で議長の言葉を遮った。「あんたの娘さんのことは本当に気の毒に思うよ」
 安田は煙草を消し、背筋を伸ばした。
「俺は独り身だが、もし俺に所帯があってガキがいて、ガキ誰かに連れ去られるようなことがあれば、俺はそいつを地の果てまでも探し出すし、自分の子供にされたことは、そのままそいつに倍返しするよ。あんたの気持ちは察するに余りある。ただ外国人があの国で一人で何ができるっていうんだ。あいつらは異端者を簡単に見つけ出すぞ。三人集まって話しただけで、その日の夕方には投獄される国だ。これは大袈裟な話じゃねえ」
「工作員は向うの言葉を話すし、ある程度現地の人民に溶けてしまえるだけの工夫もしてきた」
「俺は賛成できないな」
「オマエが海を渡る訳ではない」
 組長は苦笑した。清廉潔白な刑事殿が俺みたいなのに近づいてきて、何を腹に溜めてやがるのかと思っていたら、いやはや参ったね。
「協力できるのか、できないのか」
「条件がある」
 短時間で決断するこの反射神経こそ、彼を生き馬の目を抜くアンダーグラウンドの世界で曲がりなりにも一家を構えさせるに至らしめた、最大の要素だった。
「まず、俺がそいつに会う。俺の気に入らない野郎-野郎でいいんだよな?-だった場合、その時点でこの話は終わりだ」
「異論はない」
 議長は頷き、安田は続けた。ジャンマダンなら俺も行ったことがある。
「オマエが?北朝鮮に?」
「向こうが来てくれというから、堂々とお天道様を眺めながら合法的に入国したんだよ、俺は。この組、じゃねえ、この会社があの国に毎年、どれだけ本物の円や米ドルをばら撒いてると思ってるんだ。ああ、今更言うまでもないが、この会話は完全にこの場限りのものだからな」
「その点は信用してもらって構わない」
「東北部の国境にある先鋒や羅津という町の市場は、ちょっとした見本市並の規模らしいぞ。さすがに俺もそこへは入れてもらえなかった。今、北朝鮮はあの地域を経済特区に仕立て上げようとしている。IBMやトヨタの社長には現地見学会の招待状が送られているかも知れんが、資本金三百万円の上越地方の一企業はお呼びでないらしい」
「オマエが招待されないのは、他に理由があるような気もするが」
「おいおい、俺の機嫌を損ねてどうする」
「冗談だ。続けろ」
 それが人様に頼みごとをする際の態度かね、とぼやきながらも、組長は話を進める。
「冬の気温が零下三十度、強制収容所しかなかった東北部の寒村は、今や北朝鮮の命運を握る光り輝く地域って訳だ。まあそんな所の活況とは比べるべくもねえが、元山のジャンマダンだってそこそこの規模だ。人間の欲なんてつまるところいいもん食っていい女を抱きたい、に集約されるからな」
「二十歳ぐらいの女は買えるか。どんな要求もカネ次第、といった女だ」
 組長は薄く笑った。あんたの仲間は変態か?
「そうじゃない。元山から平壌に移動する可能性もあるんだ。今の北朝鮮は地方と平壌間の移動に対する保安職員のチェックも相当甘くなっているとは聞いているが、伝聞情報を鵜吞みにはできない。現地に着いて、こんな時代でも若い男一人が食料を背負って平壌行きの列車の中に乗る光景はやはり異質なものと分かって焦るより、予め年齢の釣り合う商売女を雇いたい。妻の役割を演じ、数日フルタイムで行動を共にし、場合によっては平壌行きにも同意してくれる女だ。そういった相手までも市場で見つかると思うか?」
 俺は北朝鮮博士じゃない、と組長は首を振った。
「まあ、女も新たな取扱商品の一つとして考えてはいる。予備軍は無数にいるからな」
 議長は息をついた。では向うの商売相手に、その旨も伝えてくれ。
「おいおい、俺はまだそいつを元山に運ぶことに同意した覚えはねえぞ。あんたらしくもない焦りっぷりだな。そいつを引き取ることへの条件はまだ終わりじゃねえ」
 言ってくれ、と議長は続きを促した。
「向こうで仮に安全部や保衛部の連中に捕まったら、そいつは速攻で自決してくれるんだろうな。それともぺらぺら謳うような奴か?」
 そして安田は、じっと議長を見つめた。あんた、県警でバリバリのデカだった頃、信用していた部下はいたか?
 議長は首を振った。
「そんなあんたの、そいつへの入れ込み具合が気になる。事実そいつはそれだけの男かも知れないが、あんたの判断力が怒りだの加齢だの現場離れからの勘の衰えだの、といった要素で曇っているということはないだろうな?」
「そんな男かどうかを、自分の目で判断するんじゃなかったか」
「そうさせてもらう。俺はビジネスマンとして客観的にそいつを観察し、客観的な判断をくだす。結果がどう転ぼうとも後から文句は言うなよ」
 念押しを終えた安田は煙草を灰皿に押し付け、新たな一本に火をつける。
「いつから身柄を預かる?」
「明日からでも。オマエらの次の取引はいつだ?」
「来月、五月以降だ。夏休み前に需要が高まるから、六月にずれ込む可能性もある」
「すぐではないのか」
「三月に仕入れたばかりだからな。意味は分かるだろう?」
 警察の異動は原則的に大々的なものは三月に実施される。犯罪者にとって最も動きやすい時期だ。立ち去る警官はもう本気で追いかけてはこないし、来たばかりの警官はまだ勝手が分からない。
 組長は身を乗り出してきた。
「なあ、改めて聞かせてもらうよ。一体何をやらかそうとしている?」
 朴や伊勢には機密保持を強要してきた自分がここで謳うべきか、という議長の逡巡、は一瞬のものだった。
 今後目の前にいる男は、計画を進める上で欠かせないピースの一つとなる。しかもヤクザ者だ、何かあった際に類が及んだとしても、こちらが良心の呵責に苛まれる義理はない。
 議長は話した。

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