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「平壌へ至る道」(10)

 一九九四年一月~二月 糸魚川市近郊等
 
 三回目の会合後、工作者一名を新たに加えた委員会のメンバーは、各々がそれぞれの役割を果たすべく、準備を重ねた。
 議長が擬似友人となったヤクザと親密に会食を続けるその同じ時期、朴も動き始めた。チョッパリに身を落としてもなお、自身を友人として扱ってくれる数少ないかつての同胞に土下座し、ある鍵を入手しその複製を作った。
 伊勢は鄭の身柄を預かり、朝は自らの魚肉加工工場で働かせ、時に漁船に乗せ、日焼けと潮で彼の労働者然とした雰囲気を作り上げる業務を担当すると同時に、鄭本人の身分は騙ったまま、被害者集会を通して以前から知人となっていた、一人の脱北者を匿う福井県内の組織に時折顔を出した。
 匿われた脱北者が本当にあの収容所国家からの純然たる逃亡者であるかどうかは本人以外神のみぞ知るだったが、伊勢も鄭相慶も目の前の機会にはさしあたって飛びつくしかなく、相慶は自らについて語ることなく毎回一時間程度、その脱北者と言葉を交わし、あの国のネイティブ特有の言い回しや隠語を新たに聞き、覚え、それが何らかの罠である可能性も考慮し、そうした言葉を次の機会に自分からさりげなく口にすることで相手の反応を観察し続けた。
 
 四回目の会合で、伊勢は工作員現地人化教育の進捗状況を報告した。
「冬の海中でも、ドライスーツを着込んで素潜で二百メートルは移動できるようになりました。体重は五十キロまで落とし、服を脱げば素人目にはもの凄い筋肉質の体ですが、着衣すればやせっぽちの男に変わりますので、外観上の体型は北朝鮮人民の平均値に近いものになっております。顔色や髪つやに関しては、清上防風湯という血液を下半身へと促す効果があると言われている漢方薬を毎日三回、食後に飲ませ、小石と少量の水での洗髪も習慣化させております。毎朝海にも出ておりますし、潮にも揉まれ髪質は確かに変化しております」
 言葉は?という質問に伊勢は胸を反らせた。
「先週末、三軒の韓国料理屋に鄭くんを連れて行きました。二軒が済州島、一軒が釜山出身、いずれも在日韓国人一世が経営している店を選びました。そこで鄭くんと主人に言葉を交わさせましたが、全ての店で『あんたは北の人間か』と聞かれ、釜山の店主からは追い出されましたよ」
「向こうに潜入したら、のべつまくなしに喋る機会もないだろうし、官憲に対しては聞かれたことだけに必要最小限の言葉で返事をすればよい、というかそうしなければならない。方言のレベルが上がったのなら、これ以上は目立たぬように。ただでさえ伊勢さんの住む地域は拉致工作に対して住民がセンシティブになっている場所ですから」
 伊勢は息を呑んだ。確かにこれは遊びではない。
「-分かりました」
「あと、意外と目立つのが歩き方です」
「歩き方、ですか?」
「そう、姿勢だけでなく歩行速度も。常に誰かに見張られている、という猜疑心は、北朝鮮の民衆にとっていわば外出時のお供のようなものだ。今この日本で、毎朝同等の覚悟を携えて電車に乗る人間など皆無だろうが、相慶くんはその数少ない例外です。常に警戒態勢にある生活を長い間送り、そういった意味で彼は北朝鮮人民に近い外出時の行動原則を既に身につけている。相慶くんにはあの国への渡航歴があり、平壌の上位階層者であるにせよ、少なくとも一般市民が町を歩く姿も目にしている。高校時代の彼が未来を予測し歩行者の動きに注視していたとは思えないが、それでも記憶を可能な限り鮮明に喚起させてください。その他にも賛成や異論を示す際の仕草、麺をすする時の音の立て方、といったものには、国ごとに共通する曖昧だが明確な普遍性というものがある。分かる限り現地の事情を調べ、その最大公約数に近い所作を体に染み込ませてほしい」
 元漁師は頷いた。
「朴さん、あなたの状況はどうでしょう?元山での相慶くんの隠れ家について、先日申し上げた通り私にもアテは一つある。逆に言えば一つしかないのです。朴さんの方でも準備頂けるものと期待しているが」
 議長の問いに、朴は首を振った。
 朝鮮籍だった頃、総連幹部だった頃、カネがうなるほど財布に入っていた頃、新潟から出港する万景峰号のゲートタウンであった元山に、彼は幾人もの知己がいた。
 独裁者親子と戦前からの強力なコネを持ち、心身をあの親子に捧げると誓うことで「核心階層」の一員となることを許された模範的プロレタリアートが集う平壌ほどではないにせよ、軍事、貿易、物流の拠点である元山市は、階層ピラミッドの中位から上に属する者の割合が地方都市の中でも高く、また帰国事業を通じて「地上の楽園」に渡ったかつての在日朝鮮人及びびその家族の多くが、朝鮮労働党に貢ぐ金品が続く限りそこに住むことを許されている町でもある。
「私の以前の知り合いは殆ど信用できませんが、市内最大の農民市場内にあった売春宿の現状について、残ったツテを辿って今調べております」
「売春宿?何のために?」
「万人が平等な国家公務員となる北朝鮮には、娼婦という職種は公式に存在しません。しかしですな、この世界最古の職業を消し去ることは、どのような時代でもどのような社会体制下でも不可能です。鄭くんには、元山で自由時間が取得できたら、真っ先に娼館に赴いてもらいます。彼女たちは北朝鮮の職業台帳から抹殺された層であり、『忌むべき者』であります。敵対階層並みに公民権は与えられません。しかしあの国の男たち、特に女を買う余裕のある男たちにとって、彼女たちの存在は必要不可欠なものです。彼女たちは社会的に金日成を支持する立場には転がらないと同時に、上級国民を顧客に持つことで、粛清から逃れつつ高度な社会機密を入手しやすい立場でもあるんですわ」
 朴の説明を、残りの二人は合点がいったように聞き続けた。
「お恥ずかしい話、私も総連時代に万景峰号で元山に行く度に出入りしていた店がおました。少なくとも私が贔屓にしていた頃、店の女将の平壌政府に対する姿勢は恭順でも反抗でもなく、彼女が信奉するのはただ米ドルだけでした。女将がまだ存命で、まだそこのマネージメントをやっているのなら、カネ次第で鄭くんへの協力を頼めます。そうした特殊業種のマネージャーなど、そうそう代わりが簡単に現れるものでもありませんしな。情報が入り次第共有しますよ」
 無表情に頷く議長に、朴は問いかけた。韓国との軍事境界線沿いにある板門店に行かれたことは?
「ない」
「軍事境界線のすぐ北側に、開城市という共和国政府直轄の自治体が広がっております。板門店の韓国側から望むことのできる、ベールに包まれた北の大地のいわば入口ですわ。そこに機井洞、キジョンドンと呼ばれる、いわゆる宣伝村がありますんや」
 共産主義と資本主義、二十世紀の世界を分割した機軸とも呼べる両イデオロギーの対立、その代理戦争たる朝鮮戦争が休戦となった一九五三年当時、北朝鮮の国力は韓国のそれを圧倒的に凌駕していた。ソ連から湯水のように送られてくる物資で、共和国は国境の町に続々と鉄筋コンクリートの高層建築を建てていった。
 我が「地上の楽園」にようこそ。偉大なる首領、金日成の無謬な指導のもと、私たちは鉄筋コンクリート六階建てという夢のようなタテモノで毎日を送っております。境界線の向こうから秘かに我々を眺めているあなた、米国帝国主義の傀儡政府に搾取され続けるばかりのあなた、思い切って栄光あふれるこの約束の地に越境してみませんか?
 それが、「宣伝村」だった。
 四十年が経ち、鉄筋コンクリート六階建て、という共同住宅がもはや夢の住まいでもなければ高層建築ともみなされなくなった韓国で、誰もが気軽に購入できるようになった双眼鏡を手に開城市を眺め、キジョンドンにピントを合わせてみれば、それらの建物にガラス窓が一枚もなく、建物内はおろかその周辺にも人っ子一人いないことが分かる。かつて自分たちの優位性を広く内外に知らしめる効果を狙って造られた施設は、長い年月を経て、逆に自分たちの立ち遅れを象徴する施設と変わり果てている。
「あの国には、そうした建物が無数にあります。総連幹部だった頃、私らには訪朝時の滞在用アパートが平壌に与えられていました。意外と思われるかもしれませんが、当時は部屋の監視、盗聴はされてませんでした。主要ホテルは別として、平壌中の全高級アパートの全部屋にそうした装置を取り付け、そこから送られてくる画像や音声、まあ仮に送られてきたとして、ですが、そんなものを常時分析するだけの材的余裕も人的余裕も、そもそものインフラも電力も、あの国にはありませんからな」
 朴はそして、次の言葉の効果を計るように、しばし沈黙を持った。
「平壌に行くことがあれば、アパートの鍵は最近、手に入れました。場所も無論覚えております。既に別の人間が常住している恐れはありますし、錠前が変えられていることも有り得ますわ。せやけど後者についてはそのままでしょう。大体誰が鍵を変えるコストを背負いますやろか。コブ親父一族を除けばどいつもこいつも困窮している、あの地上の楽園で」
 大男が尻に右手をやり、続けて前に伸ばした。そこには鍵の束があり、そのうちの一つを朴はつまんだ。これですわ。
「その総連幹部用アパートには、当時監視カメラはおろか、ガードマンもいなかった、ということですか」
「そんなもんおりますかいな。その時はまだ相互監視が徹底してましたよって、建物の住民自体がガードマンとカメラを兼ねてたようなもんですわ」
「建物は何階建てで、総連用の部屋はどこにありました?」
「十五階建てで、私らの部屋は八階でした。エレベーターはしょっちゅう止まるし、一度閉じ込められて以来、八階まで階段を上り下りしてました。あそこで暮らせば私の血圧は標準値に収まるでしょうな。あと議長、このアパートは十階より上は誰も住んでまへんで」
「どういうことでしょう?」
 朴は口元を緩めた。
「当該のアパートに限った話ではないですけど、下手すりゃ床すらないかも知れません。大事なのはガワだけですわ。栄えある共和国の偉大なる首都は、全市民が高層アパートで文化的先進的な暮らしを享受している、と外国のメディアに見せつけるため、中身スカスカの建築物をアホみたいに建てとるんです。開城市のキジョンドンと、コンセプトは何も変わらしまへん」
「つまり利用可能な確率は未知数ながら、少なくとも平壌に一軒、緊急避難用のアジトが用意できる、ということですか」
「そうです。元山にも準備できれば良かったんですがね。但しロシアや中国からの船員等が、他の町に比べれば多くが元山を訪問します。連中が国に帰って北朝鮮の繁栄ぶりを吹聴するよう、そういうハリボテのような建物を少なからずおっ建てているはずです。夜間はそうした場所に身を潜めることも可能でしょう」
 野犬に襲われる心配は、と尋ねようとした議長は、それが愚問だと気づいた。
 あの国の野良犬は一匹残らず、既に鍋の中だ。
「安全部や保衛部の連中に見つかる恐れは?」
「あるかも知れませんし、ないかも知れない。私は既に事情を詳しく知り得る立場ではないですから。ただ朝鮮が今も徹底した監視体制化にあるというのは間違いです。今やあの国は、一部の平壌市民を除けば国民総物乞いのようなもんですわ。田舎におっても食うもんがなければ、若い連中は当然、近くの都市へと流れます。それを警察機構が完全に制御することなどできません。身分証を持った市民は相互に監視し合い、何かあれば自身を守るために当局に告げ口しますが、その身分証を破棄し都市に流入してきた連中にとって、安全部や保衛部の奴らなど恐れるに足りません。何の実りもない農村で座したままゆっくり餓死していく恐怖に比べれば、ということです」
 そして朴は続けた。コッチェビという言葉は聞いたことありますわな?

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