「平壌へ至る道」(25)
「ヤマダ同務、それでは視察に行きますか」
「どこに?」
通訳はかぶりを振った。「言っても分からないでしょう。私が同行し、この男が運転します」そして白特務上士を指した。
彼の階級ではまだ「この男」ということなのか、日本人に余計な情報は与えないという意図なのか、やはり名前を紹介されることはなく、相慶も何かの拍子に「白トンム」と呼びかけてしまわぬよう、胸中で自らを戒めた。
顔合わせは数分で終わり、相慶は外に出た。部屋の中では意識していなかったが、外気に体をあてた途端、脇の下に粘つく汗を感じた。
建物の裏手に回り、錆の浮いた青色のトラックを崔は指差した。
前方からエンジンの始動音が聞こえてくる。それはまるで平均年齢九十歳超の吹奏楽団が炎天下で奏でる演目の如く響き、自動車整備に関する知識が皆無の相慶の耳にさえ、この車の償却期間は遥か昔に閉じています、という掠れた合唱団の歌声が聞こえてくるようだった。
幌を隙間なく閉めて発車したトラックのサスペンションは既に機能を果たしておらず、揺れがダイレクトに伝えてくる道路のコンディションを容易に想像させた。相慶は幌を支える鉄棒につかまり、荷台の木のベンチに落ち着けていた尻を浮かせた。
「座っていたら骨盤が折れますよ」
崔は曖昧に微笑んだ。骨盤という単語が理解できなかったのか、この国の貴重な固定資産に対する揶揄への同意を避けたのか、そもそもエンジン音で声が聞こえなかったのか、判断はつかなかった。
トラックは一時間程度で停まった。「降りましょう」
幌を開けた瞬間、猛烈な刺激臭が鼻をついた。若き組幹部は思わず片手で顔を覆った。
「エフェドリンからメタンフェタミンを合成しています」
天然物質から抽出される興奮剤の原料、塩酸エフェドリンから水酸基マイナスOHを取り除けばメタンフェタミン、俗にスピードと呼ばれる白い粉に生まれ変わる。合成自体は理論上困難なものではないが、その実践に際しては触媒として使用するエーテルや塩酸といった薬品の発する悪臭が、ここが覚醒剤密造工場ですと宣伝する媒体になるため。
「この臭いがあるから人里離れた場所でなければならないのです」
崔の説明を聞きながら工場に近づく。周囲は何もない野原だが、緑一面という訳でもない。禿げ上がった土くれがあちこちに浮かぶ、どんな種の発芽をも許しそうにない地面だ。厚い雲に覆われた空が、この陰鬱な風景を更に救いのないものに仕立て上げていた。小規模な体育館のような建物の煙突から黒煙が吐き出されている。
建物の内部には入れません、と通訳は釘を刺してきた。
「それでは私も日本から来た意味がない」
「我が国の覚醒剤は最高の品質です。それ以上何を求めますか」
「ではこうしましょう」
相慶は建物の大きな扉を指さした。あの隙間から中を見せてください。
崔は瞬時にトラックを一瞥した。
そういうことか。運転手の白特務上士は、監視役も兼ねている訳だ。
「彼が気になりますか」
通訳は驚いたように目を丸めた。「私が?どうして?」
相慶は財布から米ドル札を出した。これは本物ですよ、という皮肉は通じなかったようだ。
「あなたに一ドル進呈します。あの運転者にも同額を渡し、一分間ほど靴紐を締め直すように指示してください」
「しかし…」
「階級はあなたのほうが上とお見受けしましたが、見込み違いですか」
崔は相慶を一瞬睨みつけ、トラックに向けて歩を進めた。
口論を始めた彼らは、日本からの客人は自分たちの会話など分からない、と心底信じているようだ。
-崔少尉、なぜあの僑胞野郎をあそこで一人にさせるのですか。
-ガキのくせに生意気なんだよ、工場の中を見せろと言っている。
-少尉殿の反動行為は、後ほど報告せねばなりません。
通訳は米ドル札を出し、親愛なる白トンムは息を呑んだ。
「扉の外から二、三秒中を見せるだけだ。入れさせはしない」
特務上士は射るような視線を相慶にぶつけてきた。日本人の見本のようなへらへらとした微笑で応じ、相慶は無意味なお辞儀をそこに加える。
白は唾を吐きながら、札を受け取った。
通訳が戻ってくる。「行きましょう」
相慶は心中でそっと嗤った。連中は現金で容易に動かせそうだ。
扉の間から垣間見ただけで追い立てられた建物内部の施設に関する何の予備知識も興味もなかったが、中で十人程度の労働者がせわしなく動いているのが目に入った。
時間帯から考えて、彼らは副業でここにいる訳ではない。この工場は立派な国営企業なのだ。
トラックに戻る。一ドル札をポケットに収めた白は、その後ろめたさを隠すように、舌打ちしながら運転席へと消えた。
「エフェドリンは、ここでは主に何から精製しますか」
「私は知りません。ただの通訳ですから」
でも少尉でしょう、その言葉を相慶は呑み込んだ。
「あなた方の国は、中国から麻黄を大量に輸入しているようですね。それで何を合成しているんです?ただの風邪薬ではないでしょう」
中国東北部の乾燥地帯に自生する一見枯れ草のような常緑低木、麻黄は古来から気管支を広げる効能で知られており、葛根湯などの漢方の原料にもなってきた。エフェドリンを高濃度に含むことでも知られている。
トラックに再び乗りこみ、崔はそこであからさまな溜息をついた。「ヤマダ同務は詳しいですね」
「私のビジネスの道具ですよ。それを言うなら崔さん、あなたは先程、骨盤という言葉は分からなかったようだが、精製だの合成だの、一般市民なら一年に一度口にすることがあるかないかといった単語はすぐに理解された。さすがです」
そして二人は声を揃えて笑った。その和やかな空気を利用して、相慶は次の言葉をぶつけた。
「工場の中を少し見た際、アルカロイドの香りがしました。ここではヘロインの精製も行っているのですか」
通訳の顔色が変わった。このチョッパリの言っている内容が理解できない、というフリをしようとしたが、その前の会話がそれを妨げた。
相慶はアルカロイドの香りを嗅いだ経験など現実にはなかったが、「ヤスダ興産」幹部候補生のメッキが剥がれないよう、事前に安田から違法薬物についての基礎知識は学んでいた。
黙したままの朝鮮人民軍少尉に、語り続ける。
「ヘロインの原料となるアヘンがケシの花から採れることはご存知でしょう。この国では首領様ご本人が伝統的にトウモロコシの栽培を推奨されていたはずです。最近では外貨を手っ取り早く稼げるケシ畑に転換されつつあるようだが、これでは皆さんの腹は膨らまない」
金日成の政策に言及する外国人の隣に座る現状に恐怖或いは怒り、またはその両方を覚えたのか、帰路、通訳の崔は口を貝のように閉ざした。
こいつは軍に戻った後、俺のことを糞味噌に伝えるだろう。口うるさいチョッパリでした、とでも。しかし少なくとも、奴はどうやら本物のヤクザではないようです、という報告は回避できたはずだ。
やがて閉ざされた幌の向こうからも、ざわめきが薄く伝わってくる。元山の町中に戻ってきたのだろう。
相慶は沈黙を続ける通訳に話しかけた。
「ジャンマダンの近くに、チャドゥという名称の娼館があるでしょう?安田社長から話は聞いています」
通訳は片眉を上げることで返事の代わりとした。
「そこにソラという反動的な女がいるそうですね。どれぐらい生意気なお嬢さんか、一度見てみたい」
崔少尉はようやく口を開いた。「仮にそんな女がいるとして、ヤマダ同務はどうしたいのですか?」
「密航船で今朝この国に着いたばかりで、気持ちが高ぶっています。私は酒もクスリも嗜まない。女で落ち着きたい」
「あなたでは相手にされませんよ」
その返答は娼館の存在も、女の存在も認めたようなものだったが、安田から聞いているのなら隠し通せるものでもないと判断したのだろう。
「なぜですか。私もあなた方軍人の仲間と看做されるからですか」
通訳は嘲るような視線を客人から離さず、運転席と荷台を仕切る窓ガラスを叩き、朝鮮語に切り替えて怒鳴った。
「この僑胞野郎、ソラのことを知ってやがった。生意気にも抱かせだとよ。メンツを潰してやろう!」
十分後、相慶はトラックを降ろされた。目の前に学校の校舎のような建物があった。事実以前はそうだったのかも知れない。ガラス窓は半分ほど木枠しか残っていないが、この国では平均的な状態なのだろう。
お手並み拝見とばかりに冷笑を隠そうともしない白特務上士が受付らしき扉を叩き、老齢の女性が顔を出した。
「おやおや、これは第二十四師団の皆様。日夜国土の防衛お疲れ様です」
これが朴泰平の顔馴染みという女将なのか。その労りの言葉には揶揄が透けて見えたが、それに気づいた風もなく、特務上士が冗談めかした口調で説明する。
「こいつは今朝日本から来た。お宅のソラ様は向こうでも有名人であらせられるらしい。まずはダメもとで彼女を呼んでよ」
女将からの強い一瞥。相慶はここでも日本人的曖昧な笑顔で応えた。
山田トンムには理解できないことになっている会話の後、女将が溜息をつきながら奥の部屋に向かって叫んだ。ソラ!
扉が開き、そこから出てきた若い女の顔は、迷惑そうに歪められていたことを差し引いても、確かに整っていた。
崔が彼女に向って同じ音量で続けた。「この日本からのスケベ野郎が、オマエのオマンコを眺めたいそうだ」
そして特務上士と一緒になって嗤った。女は部屋の扉を閉めた。
二人の軍人は嗤い続けた。相慶は通訳の耳元に口を寄せ、その胸ポケットに新たな一ドル札をねじ込んだ。
「崔さん、ここから何とか口説いてみますが、フラれる姿はお見せしたくないので、運転手さんと外で待っててもらえますか」
意図的な嘲笑を残して店の扉が閉まる音を背後に聞きながら、女将が事情を知らない客人に諭すような眼を向けた。
「あの娘が本当に日本でも知られた存在だというのなら、軍関係者が相手にされないことだって、知ってらっしゃいますわね?」
それはたどたどしい日本語で、不法入国者はただ一言、こう答えた。「朴泰平」
女将の表情が変わった。
「朴さんは元気?日本に帰化したんだってね」
相慶は頷いた。女将は皺だらけの口元からふうっと息を吐いた。
「それで正解よ。こんな国の国籍なんて、ゴキブリだって選ばない―ねえ、ソラ!」
女将が再び現地の言葉に切り替え声を張り上げ、ソラもまた再び自室の扉を開け、面倒そうに眉を寄せる。
「このお兄さんはカマキリだ!」
その世界の隠語の意味が相慶には理解できなかったが、おおかた「治安要員ではない」、「外国人だからボッタくれる」といったニュアンスなのだろう。
ソラは来訪者に何の感情も伺わせない視線を据えたまま、自分の部屋へと顎をしゃくった。
