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「平壌へ至る道」(22)

 一九九四年五月 信越地方某県庁所在地

 ヤスダ興産の社長は、相席者の前にグラスが置かれるのを待って口を開いた。受入先のことだが。
「相手は俺たち『退廃した資本主義国家の豚』との日常的なコンタクトが許されている。それは中央への絶対的服従を誓った、思想教育の徹底した軍人にこそ与えられた特権だ」
「そういうことになるな」議長は応えた。
「だが、あいつらの忠誠心も今はどの程度のものかは分からねえ。相慶の不法滞在を破格の宿泊料と引き換えに請け負ったアイツらの対応は、少なくとも十年前じゃ考えられなかったことだ。階層を担保したチャチなバッヂと現ナマ、あの国で今どちらが緊急的に必要かは論ずるまでもねえし、状況に応じてどちらにだって転ぶ。与しやすいと言えば与しやすいが、腹の底が見えない分、ガチガチの原理共産主義者より厄介な側面もある。前にも伝えた通り、元山に三日滞在したら速やかに帰国しますという態度をまずは示しておくべきだろう」
「つまりオマエは」
 議長はアイリッシュウイスキーをゆっくりと喉に流し込んだ。相慶を向こうに送ること自体は認めた訳だ。
 そして二人は、しばし芳醇な樽酒の香りに時を委ねた。
 県庁所在地の町の雑居ビルの五階。その店は二人の貸切で、カウンターの向こうにいるバーテンを除けば、今日は一人のホステスもいなかった。
「こちらの幹部候補生を送ると伝えている。あの物腰ならそこらのヤクザよりもハッタリは効くだろうしな」
 議長は同意した。確かに。
「朝鮮語は一切話せないから通訳を手配しろと依頼済みだ。元山に着いたらその日じゅうにクスリの生成工場を視察させ、その後は敢えて何の予定も入れていない。向こうの幹部がよく利用する売春宿のことも聞いた」
「平壌出身、ソラという娘のことなら俺も既に別口から聞いている」
 安田はグラスを持ち上げた手を止め、まじまじと議長を眺めた。まさにその女の話をしようとしていたよ。
「世間は狭いな」
「北朝鮮のケチな地方都市の風俗事情が広い世界の訳ねえだろ」安田はそして、くつくつと笑った。
「えらく別嬪で、朝鮮労働党員や人民軍、保衛部員とは絶対寝ないらしい。普通なら反革命罪で銃殺になるところだが、ウチの取引相手の軍人さん面々も、一度はその姉ちゃんの股ぐらに突っ込むことを夢見てるから、今まで殺されることなく傍若無人に振舞えてるそうだ」
 議長は首肯した。朴泰平の話とも一致する。
「空き時間に相慶を何とかその嬢にコンタクトさせたいが、完全な一人歩きは大丈夫だと思うか?」
 安田は肩をすくめた。分からねえ。
「保衛部か安全部員に捕まった場合、人民軍の招聘状を見せるようにとは言った。しかしそれが却って火に油を注ぐ恐れもある」
「どういう意味だ」
「あの国は毎日が権力闘争だ」
 そう言って安田はグラスをカウンターに置いた。
「それが金日成を筆頭とした為政者、公務員の宿痾みたいなもんだ。警察と軍が根っこから共闘しているか、表面上繋がっているだけか、特に可も不可もない付き合いとなっているか、明らかに敵対中か、その時になってみなければ分からない。招聘状が足枷になる場合も考えられる」
「分かった。出発はいつだ」
「明後日の夜。いよいよだぞ」
 いよいよだな、と答え、議長は五十嵐の話をした。「県警の監察員が俺をマンマーク中だ。オマエにも火の粉が降りかかりかねん」
「どんな奴だ」
「キャリアだ」
「ああ、そいつか」安田はとある小さな港湾を抱える町の名を上げた。確かそこの副署長をしていたとか。
「その通り」
「キャリアで監察員、敬遠される要素には事欠かない。マル暴の間でも悪評さくさくだが、警官としての能力は決して低くはない。だからこそ余計に鼻つまみ者となっている」
「それもその通り。オマエの身柄も平気で押さえてくるぞ。仁義もクソもない」
 組長はブッシュミルズのロックを飲み干し、酷薄な笑みを浮かべた。それは困るな。
「腐ってもキャリアだ。海上保安庁との連携は電話一本で可能だ。この国の公海上で覚醒剤の受け取りがバレたら十年は喰らうぞ」
「あんたからのハシタ金と引き換えに懲役貰ってりゃ世話ねえな」
「俺に方法がある。オマエを守るためじゃない。相慶を無事向こうの船に乗せるためだ」
「どっちだっていい、聞かせてくれ」
 議長は話した。
 
 組長は溜息をついた。あんた、本当に警察を辞めるつもりか?
「今退職金を貰わないと、オマエに金が払えないからな」
 
 議長は一人、先に店を出た。
「五十嵐!」
 繁華街を歩く周囲の人間が、町中で突然叫ひ始めた初老の男を遠巻きに眺めてくる。どうしても潰せないニキビを鏡の中に見つけた女子中学生のような視線が身に刺さるのに構うことなく、議長は声を張り続けた。
「五十嵐!どうせどこかでドブネズミのようにこそこそ隠れてるんだろう、出てこい!」
 議長の携帯電話が鳴った。一九九四年当時、携帯の普及率は二パーセント未満で、まだ警察内部における保持の義務も、番号の届出義務も徹底されてはいなかったが、議長の睨んだ通り、彼は番号を知っていた。
『町の真ん中で私の名を呼ぶのはやめてもらいたい。呼び捨ても職務違反でしょう』
「こっそり後を尾けるような真似をあんたが先にしている」
『それが私の仕事ですから。それから一応、私はあなたの上官です。不適切な譬えにも気をつけてもらわないと、名誉棄損で告訴しますよ』
 五十嵐は三十秒後、議長の目の前に姿を現した。「ご希望通り、出てきましたよ」
「あんたの車の中で話す。どうせ近くに停めてんだろう?」

「なぜ今頃そんな話を?」
 運転席に座った五十嵐は煙草に火をつけた。
「俺の話は信用できないか」
「自宅待機が原則の休職期間であるにも関わらず、ヤクザの組長と今も性懲りもなく一献交わしていたあなたを、どう信用しろと?」
 議長は温めていたサイドストーリーを披露した。
「あの組が日本海の接続水域を超えた所で北朝鮮から覚醒剤を仕入れているのは、公然の事実だ」
 キャリアの警視は何も答えなかった。
「長年に渡って組が利用してきた漁船の船長が、昨年現役を退いた。その後その爺さんが交通事故に遭って死んだのが偶然か作為によるものか、もちろん安田が何らかの事情を知っていたとしても謳う訳はないだろうが、ともかく奴の企業、というか組にとって、ヤクザとのジョイントベンチャーを平気でこなせる胆力の持ち主で、口が固く、腕も立つ漁船長の確保はビジネスの命運をも左右する要素だ。そういう意味で安田が今の新しい『共同事業者』に満足していないことは、四課の人間からも聞いている」
「あなたにそんな人望があるとは意外ですね」
「嫌われ具合はお互い様だ。ともかく俺は安田に別の適任者を推薦すべく、近づいた」
 議長は酒臭い息を監察官に向かって吐き、キャリアは顔をしかめながら車の窓を開けた。それが糸魚川の伊勢さんという訳ですか。
「さすがに警視様は何でもお見通しだな。彼とは拉致被害者の会で知り合った。伊勢の兄がどういう状態にあるか、五十嵐さんなら既に調べているとは思いますがね」
「それはおかしな話ですね」警視は早口で指摘してきた。伊勢さんにとって、北朝鮮は肉親を奪った憎き相手でしょう。その国の利益に結びつくような業務に、なぜ従事するんです?
「五十嵐さん、あんた子供は?」
 警視はやや気色ばんだ。今はそんな話をしていない。
「関係あるんだ。子供は?」
「私は独身だ」
「あんたにいつか家族ができれば分かる。あの国は確かに伊勢にとっては憎悪の対象でしかないが、それでも協力を続ければ兄を返してもらえるのではないか、何らかの近況を教えてもらえるのではないか、という藁にもすがるような願いも同じだけある」
 その兄が既にこの世の者でないことは、この敏腕キャリアの耳にまだ届いていないという賭けに、議長は出た。賭けに負ければ驚いたフリをするだけのことだった。
「とはいえ一介の水産業者を紹介するだけにしては、随分あなた方は懇意に会っていたようだが」
「相性が良かったのは事実だ。それが軽率だったというのなら、その非難は甘んじて受ける」
 その言葉を値踏みするように警視は黙り、誰何する視線を注ぎ続けたが、そんな目線に屈する議長ではなかった。
「明後日、安田は組員数人を引き連れ、伊勢の船に乗る」
「ビジネスパートナーに相応かどうかの試験ですか。それともいきなり、実際の取引ですか?」
 議長は苛立たし気にダッシュボードを数回拳で叩いた。
「正確に奴の言葉をもう一度繰り返す。あいつはこう言った。明後日、組員数人を引き連れ、伊勢の船に乗る、と」
 警視は高ぶった神経を抑制するように、努めて静かに口を開いた。
「なぜ今更その話を私に?伊勢さんはあなたの仲間でしょう。安田はともかく、彼の身を売る意味が分からない」
「このタレ込みはもともと伊勢から持ちかけられた。最初のうちは彼も安田とのジョイントに乗り気だった。北朝鮮に貸しを作り、コネを作る千載一遇のチャンスだとね。だが念のため前任船長の交通事故死について教えてやったところ、やっこさんなりに当時の新聞記事や週刊誌の報道を集め始め、これはコロシだと伊勢なりに結論づけた」
「臆病風に吹かれた訳ですか」
「素人としては当然の反応だ。アンダーグラウンドな組織のアンダーグラウンドなビジネスに一度加担すれば、どれだけ秘密保持を誓ったところで、いずれ消されてしまうと思ったようだ。しかし今更ケツを捲くることもできない。そこで伊勢は現行犯逮捕されればいいと考えた。覚醒剤絡みの犯罪行為は執行猶予も付きにくいが、少なくとも殺されるよりはマシだし、テメエも逮捕されることで、密告者が自分だとは誰も思うまいという計算もあるようだ。俺も経験上、こうしたケースで船を貸した漁師までも送検される可能性は低いと伝えた。自分は何も知らなかったと惚け続ければ、警察もヤクザ組織一斉検挙の協力者に対して無体な真似はしないだろう、と」
 五十嵐がこの後伊勢を問い詰め裏を取ったとしても、彼が同じ話をすることは打合せ済みだ。また前船長の事故死に、隠された背景など全くないことも議長は知っていた。
 安田は大笑いしてその話をしてくれたのだ。
―あのねえ、少しの間ヤクザの仕事を手伝ったからといって、引退後いちいち消されていたら、誰も俺たちに協力なんてしてくれませんよ。
―ではあの事故とは完全に無関係なんだな。
―先祖の霊全てに誓ってもいい。ヨシさんが車に跳ねられて死んだのは、俺たちにとっても悲しい出来事だったし、はねた大学生が交通刑務所から出所したらきっちりカタにはめてやる、と言って大泣きしたモンもいたんだ、ウチの社内で。そもそも俺たちのような稼業の人間が、カネにならない殺しをやるはずがないだろ。

「今日のところはこれでいい。家まで送りますよ」
「結構だ。この国にはタクシーという便利なものがある」
 車を降りる議長の背中に、最後の声が浴びせられた。
「信じますよ」

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