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『私には浅田先生がいた』その後

高校時代の恩師、浅田修一先生が亡くなられて早25年となりました。
先生の思い出を綴った拙著『私には浅田先生がいた』(三一書房)を上梓してからも18年となります。

そんな今年の4月、神戸は塩屋にあるギャラリーカフェ「cafe3*8」で浅田先生のスケッチ展が開かれました。

先生は10冊余りの著書を遺されましたが、それとは別にたくさんのスケッチ画を遺されていたのです。

「cafe3*8」の店主菅智子さんは、以前浅田先生とともに「麓から。」という冊子をつくっておられたとのこと。先生が小説評を、菅さんが映画評を書き、13号まで発行されたそうです。

この度のスケッチ展を機に、その復刻版を出されましたが、そこに『私には浅田先生がいた』を書いた私にも何か書いてほしいと言われ、小文を寄せました。

今回は菅さんの承諾を得て、それをこの場に共有したいと思います。またこれとともに山田彰道先生の詩もぜひご紹介したく、これもご遺族の了解を得て掲載いたします。何度も読むうちにますます味わい深く、今では私にとってとても大切な詩となったものです。

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いつのことだったか、浅田先生から「僕と康(カン)さんとふたりで1冊、本を作りましょうか」と言われたことがある。その時は、私などにそんなことができるはずもないと思い、取り合うこともしなかった。

2001年1月13日は私たち夫婦の結婚20周年の記念日だった。出かけてお祝いするのは週末にと約束していたが、その日もとりあえずワインを買って帰るからと言われて、私は何か食事の用意をしていた。電話が鳴った。なつかしい高校時代の友人だ。久しぶり~とうれしい声を返すと、彼は暗い声で、今日先生が亡くなったのだと。キッチンに崩れるように膝をつき泣き続ける私の姿は子どもたちの記憶に刻まれた、と後に聞かされた。

その後、昔の日記や手紙や先生の本を読み返すうちに書き始めたものが第1回・賞「地に舟をこげ」を受け、『私には浅田先生がいた』(三一書房)という本になった。2008年のことだ。この書名は決して「他の人にはいなかったけれど私には……」という思いではなく、「私には他に誰もいなかったけれど浅田先生が……」という気持ちから出たフレーズだ。

ここでは拙著に書ききれなかったことを紹介したい。結婚した時に先生が「ぼくの心をこめたお祝い」として贈ってくださった詩、山田彰道「草のそよぎ―旧友藤田稔の霊位に」。それは藤田稔遺稿集『戦列の日に』(藤田稔遺稿集刊行委員会1980年)の冒頭に掲げられた詩のコピーだったようだ。この詩はまた山田彰道『仮の闘い―あるオルグノオト』(解放教育選書 明治図書1981年初版刊)にも収められている。

手紙には「詩でうたわれた一人の戦友をぼくは知りませんが、うたったもうひとりの戦友のことはよく知っています。この詩の思いは、今ぼくの思いでもあります。この苛酷な時代にあって、この思いは、『勝つまで負け続けるたたかい』をたたかっているあなたの思いでもあるだろうと、ぼくは思います。」とあったが、その時の私にはまったく響かなかった。一読して、これって亡き友に捧げる詩? それを結婚祝いに? なぜ? と思ったきり、コピーを封筒に戻し、しまい込んでしまったのだ。「四十代の男はどう死ぬかを考えるようになる。」という先生の言葉も、その後長い間思い出すことはなかった。

先生は想像されただろうか。この詩の通り「いつか二十年が過ぎ」て、私がこれを読み返す日が来ることを。先生は私が結婚したまさに20年後のその日、風になってしまわれたのだ。そのことに気づいて、私はまたどれほど泣いたことだろう。

私たちの結婚披露宴のビデオテープには、スピーチをしてくださる先生の姿が残っていた。普段スーツなど決して着ない先生が、この時は友人に借りてきたとおっしゃって、「ぼくは、康玲子(カンヨンジャ)さんという教え子を持ったことを誇りに思っています。」と、私には過ぎた言葉をくださっている。

私は今も先生の目を通して自身を顧みることがある。先生に恥ずかしくない生き方をできているだろうかと……。何というはたらきもできないままに年を取ってしまった私だ。ただ細々と、人権学習等の講演依頼を受けたら行ってお話をし、また文章を書き続けていることだけを、先生には報告したい。「あなたは今後、講演でも原稿でも、依頼を受けたら決して断ってはいけません」――これもいつか先生からいただいた言葉だが、今に至るまで私は守り続けているのだ。

講演は380回を超えた。『アジェンダ―未来への課題』という季刊誌に20年以上にわたって書いてきたものは、2022年に電子書籍(ペーパーバックでの購入も可)『時代の曲がり角で』Vol.1,Vol.2という形にしていただいた。(https://amzn.asia/d/0fC84o8m)現在も連載は継続している。最近はまた大阪文学学校に通って小説を書く試みをしている。「ウンチョル先生」という小品は2024年第50回部落解放文学賞(小説部門)を受賞した(2024年7月増刊号『部落解放』857号に掲載)。昨年からは時々だが「note」にエッセイを投稿することもしている。

話し、書くことは、私の「たたかい」とも言えるだろうか。むしろこの社会に愛を発信しているつもりなのだが。

先生が読んだら何と言われるだろう、きっと笑われるんだろうな、笑われてもいいから先生の批評を聞きたかったな、などと思いながら書き続けている。いつまで? きっと、私自身が風になる日まで、だろう。

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 草のそよぎ
   ―旧友藤田稔の霊位に
                          山田 彰道

   少し遠くで あなたも昔のように   
  闘っているという噂がときどきは舞
  いこんで いつか二十年が過ぎた   
  その調子で老いてゆけばいいのだと 
  一人ぎめにわたしは安心していた 
  たがいにわたしたちは 生きること
  の下手くそには不思議に自信があっ
  たから
   そしてある日 あなたは不意に死者
  であった あなたにわたしはいま初
  めての手紙を書 く 死者であるあな
  たにこの初めての手紙が 届くように
  祈る 鴉が届けてくれるかも知れ ぬ
  ではないか この手紙がどうぞ届く
  ように と祈る 半泣きになりつつそ
  れを祈る

多くの戦士たちがいた
彼らの上にも流れるものはながれて
いくつもの別れが訪れた
心に期した別れも
闘いの
苦楽を共にした者とのそれはさすがにきつく
人は
それぞれの若さのままひそかに老いていた

一つの闘争が起こるたびごとに
革命が後退(うしろず)さった
夕焼けのように

  (痣色ノ雲消エ残リ……)

一つの闘争が消えるたびごとに
だからわたしたちは別れた
手を振ることもなく

  (山ノ辺ノ躑躅(つつじ)ハ雪崩レ・・・・・・)

どれほどの別れを重ねて老いたかは
かぞえなかった
ただ 人と別れることに慣れようとした

そしてある日 あなたは不意に蹲る
際限もない別れを怒り 拒むかのように
あなたは蹲り
生きるかたちを拒むかのように
あなたは もう
風であった

生きて残った者は
だから ときに耳を傾ける
草のそよぎに
そうすれば 別れの苛酷に
慣れることができるかのように

              ――一九八〇・五・十四 

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