日韓併合・京城デパート物語~消費はレジャーだ
繁栄する都市部では中間層が誕生し、「消費」という文化が花開いた。老若男女、内地人、朝鮮人の区別なく、お客様として迎えられる百貨店は、平等のシンボルでもあった。
京城5大百貨店
昭和の子供にとって、デパートは格別の場所であった。おもちゃ売り場でおもちゃをねだり、お好み食堂でお子様ランチかウエハースの乗っかったアイスクリームを食べ、屋上遊園地やミニ動物園で遊ぶというのが定番コースだ。そういえば、デパートへ行くときなぜか両親も含めてみなよそ行きを着ていた。デパートという空間は消費という行為を娯楽に変える劇場でもあったのだ。
併合時代の京城には5店の大型デパートが存在している。始業の古い順に、丁子屋百貨店本店、三中井(みなかい)百貨店本店、三越百貨店京城店、平田百貨店、それに唯一の朝鮮人経営である和信百貨店で、これらを総称して京城5大百貨店と呼んだという。
1930年ごろから、京城、釜山、平壌などの都市に人口が集中し始める。内地系の企業や工場が進出し、大量の雇用が生まれたのだ。わけても京城は朝鮮の政治と経済の中心地であり、その発展はめざましかった。人口が増えれば、当然消費も増える。人々の生活にも余裕が生まれて中流層が形成され、生活必需品だけでなく贅沢品を求めるようになった。こうして日本型の消費文化が朝鮮にも根付いていったのである。百貨店はまさに消費文化の象徴といえた。
併合前に朝鮮に根付いた日本商人がいた
丁子屋百貨店は三重県出身の洋服商・小林源六が釜山の地に構えた洋品店・丁子屋を前身とする。丁子屋の開業は1904年(明治37年)であるから、時は大韓帝国時代、日韓併合の6年も前ということになる。1921年(大正6年)、丁子屋百貨店として京城に移転。客の6割が朝鮮人で4割が日本人だったという。1935年(昭和10年)には、満州にも進出している。丁子屋百貨店は戦後、建物をそのままに未道波(ミドバ)百貨店になり、現在は超現代的に改装され、ロッテ百貨店ヤングプラザ館となっている。


三中井百貨店もまた大韓帝国時代の1905年(明治38年)、近江商人・中江勝次郎を長兄とする中江4兄弟(久次郎、富十郎、準五郎)が京城に開業した三中井呉服店を母胎としている。勝次郎は1924年(大正13年)、単身渡米し、アメリカの大手デパートを視察、その経営ノウハウから近代デパートの設計モデル、ディスプレイの仕方にいたるまでひととおりを学んで京城に帰還。1933年(昭和8年)に、同商店を百貨店へと経営拡大した。地上6階、地下1階の本店建物は朝鮮最大の都市・京城でも異彩を放っていた。最盛期には朝鮮・満州・大陸に計18店舗を持つまでに成長。京城での売り上げは三越をしのぐほどで、勝次郎はまさに外地雄飛のデパート王であった。
隆盛を極めた三中井グループだが、京城本店は日本敗戦の8月15日、即日朝鮮暴徒に襲われ商品略奪、朝鮮人店員による占拠、日本人幹部に対する吊し上げ、リンチが行われた。大田、大邱、平壌各支店も同様だったという。4兄弟は一代で築いた財産のすべてを一夜にして失い命からがら日本に逃げ帰ったのである。
ソウルの三中井百貨店本店の跡地は現在、ミリオーレというショッピング・モールが建ち、若者たちでにぎわっている。
三中井百貨店については、こちらも参照されたし。


日本人よりも朝鮮人に人気の高かった三越
5大百貨店の中でやはり一番メジャーなのは三越だ。現在では伊勢丹と経営統合、三越伊勢丹としてアメリカ、欧州、アジアにも数多く支店をもつ日本型百貨店の雄にして老舗である。
戦前の朝鮮へは1916年(大正5年)に進出、京城府本町1丁目に三越百貨店京城出張所として開業している。くしくも三中井呉服店の対面に位置していた。1930年(昭和5年)に本町通りに移転、1932年(昭和7年)に大幅な増改築がなされ、同地にルネッサンス様式・地上4階地下1階のビルディングとしてお目見えしている。同百貨店ビルは朝鮮半島の建物としては初めてエレベーターが設置されたことでも有名である。このエレベーターは物珍しさから口コミで広がり、当時休日となると地方からわざわざエレベーターに乗りにデパートへやってくる人々で混雑したという。

また、4階には三越ホールと大食堂、屋上には庭園、温室、茶室、児童遊園、美術ギャラリー、さらに京城府内を一望できる大展望台が設置され、これらも常に盛況だった。単に商品を売るのではなく、消費、娯楽、文化教養が三位一体となったサービス提供にこそ、デパートの使命がある、これは京城支店長・加藤常美のポリシーでもあった。
三越というブランド力の高さからか、新しいもの好きな京城っ子に熱烈に支持され、なんと顧客の7割強が朝鮮人だったという。これは5大百貨店の中でも突出している。



三越というブランド力の高さからか、新しいもの好きな京城っ子に熱烈に支持され、なんと客の7割強が朝鮮人だったという。これは5大百貨店の中でも突出している。
同志社大学大学院教授・林廣茂氏によれば、三越全店の中でも京城店は、年間売り上げで常に上位を記録しており、1941年(昭和16年)から、東京本店、大阪本店に次ぐ第3位を不動のものにしていたという。戦争末期の1944年(昭和19年)には、戦局の悪化で内地の消費が落ち込んだこともあり、大阪支店を抜いて第2位に躍り出ている。日本人のライフスタイルや消費文化は都市部の朝鮮人中流層の憧れの的であり、それをシェアすることは彼らのステータスであったのである。

一方で近年、併合時代を扱った映画、ドラマでは、日帝による朝鮮の資本支配のシンボルとして三越百貨店がよく登場する。実在した女性抗日テロリスト南慈賢(ナム・ジャヒョン)をモデルにした女スナイパーが活躍する全智賢(チョン・ビジョン)主演の映画『暗殺』(2015年)での総督狙撃シーンの舞台となったのが好例だ。


三越京城店は戦後、韓国人資本の新世界百貨店に引き継がれることになった。朝鮮戦争時はアメリカ軍のPX(酒保)として一時接収されるが、現在も新世界百貨店として営業は続いているようだ。建物の内部は何度か改装されているが、外観はほぼ三越時代の面影を維持しており、併合時代を今に伝える数少ない建造物となっている。

大然閣ホテルは平田百貨店跡に建てられた
平田百貨店に関しては現在、伝える資料が極端に少ない。創業者は洋服商・平田知恵人。先に紹介した3店が高級デパートだとしたら、平田はいわゆる量販店的なディスカウント商法で人気を博していたようである。
平田百貨店は戦後解体され、地上22階建ての大然閣(デヨンガク)ホテルに生まれ変わっている。当時としては韓国一の高さを誇る高層建築だったが、1971年(昭和46年)のクリスマスの日に、1階喫茶室のプロパンガス爆発という信じがたい事故により、死者163人を出す大火災事故を起こし焼失。ホテル火災としては最大のもので、当時日本でも大きく報じられている。
この大然閣ホテルの実質的オーナーと言われているのが、日本にもなじみの深い李厚洛(イ・フラク)という人物である。李は旧日本陸軍少年航空隊の元伍長で、朴正煕(ぼく・せいき/パク・チョンヒ)軍事政権下で大統領秘書室長(第3代)、在日大使、KCIA部長(第6代)を歴任し、日本の政府自民党とも太いパイプをもっていたという。大然閣ホテルの建築費600万ドルは、日本からの借款ともいわれ、朴軍事政権と自民党の癒着ぶりがうかがえる。
同ホテルの跡地には現在、高麗大然閣タワーというオフィスビルが新たに建てられている。

和信創業者・朴興植一代記
日本人資本がほぼ独占するデパート業界に、朝鮮人実業家として殴り込みをかけたのが、朴興植(パク・フンシク)である。朴は貧し小作人の子として生まれ、10代で米販売に従事、日本の米高騰によって最初の財を成した。その後、印刷業の傍らにはじめた紙相場でも大いに当て、若干30歳で身代を固めた。1931年(昭和6年)、申泰和(シン・テフファ)経営の和信(ファシン)商会を買収、これを母胎にして和信百貨店の経営に乗り出していく。ちなみに申泰和の和信商会は朝鮮におけるクレジット販売の先がけ的存在だった。


前記の日系デパート4店が明洞地区に集中しているのに対し、朴は、当時、京城の繁華街としてはぐっと大衆的な鐘路地区にあえて出店し、中流以下の朝鮮人顧客をターゲットにした販売戦略を打ち立てていく。「跳躍する朝鮮の和信」「 朝鮮のデパートメントストア」といった具合に、宣伝文句には必ずといっていいほど「朝鮮」の文字を入れた。丁子屋や三越のお客が内地の最新流行を追うためにデパートに行くのに対し、和信は顧客の民族心に訴えかける商法に徹したのである。
それは大食堂の売り物メニューからもうかがい知ることができる。三越が東京更科本店からわざわざ呼んだ職人による「三越そば」、三中井は浅草来々軒のちゃんぽんとシュウマイ、丁子屋は支那ランチや寿司をそれぞれ売り物にしていた。和信は軽洋食もあつかってはいたが朝鮮食を主に提供していた。(参考・平野隆『戦前期における日本百貨店の植民地進出』)


こういった商業ポリシーは、むろん朴興植の朝鮮人としての意地によるところも大きいだろうが、三越や丁子屋に飽きた、あるいは敷居が高いと感じているお客をごっそりいただこうという、したたかな計算あってのものだった。

1935年(昭和10年)、和信商会は火災で焼失するが、朴はめげることなく、隣接する崔楠(チェ・ナム)経営の中堅百貨店・東亜百貨店も買収し、1937年(昭和12年)、その土地に建築家・朴吉龍(パク・キルヨン)設計による地上6階地下1階の和信デパート・ビルを完成させた。和信ビルは当時、京城でもっとも高い建造物で、エレベーターの他にエスカレーターを完備、屋上には電光掲示板が設置されていた。朴吉龍は韓国初の近代建築家で、京城工業専門学校を卒業後、総督府建築技師となって腕を磨き、独立後は京城帝国大学本部や京城女子商業学校講堂などの設計で知られている。


▲映画『迷夢』
和信はチェーン展開し、一介の米売りから出発した朴興植は莫大な富を築き上げ、その威光は戦後もしばらく続いた。才覚と運さえあれば、小作人のせがれでも一代で巨万の富を築くことができる――朴興植はまさに併合時代のコリアン・ドリームの体現者であり、それは李朝時代では決して起こり得なかった奇跡である。





反民族行為の逮捕者第1号だった朴興植
一方で彼は、反民族行為特別調査委員会(反民特委)による1号逮捕者という不名誉な称号も頂戴している。いわゆる親日派(チムイルパ)の筆頭に挙げられたのである。
朴興植は、大東亜戦争勃発の翌年の1942年(昭和17年)、半島の有力実業家として昭和天皇に謁見を許され、その席上「聖戦完遂に全力を捧げたい」と誓い、事実、彼は、尹致昊(ユン・チホ)の主催する、朝鮮人有力者による皇民化と戦争協力のための組織・興亜報国団のメンバーとして軍需産業にも深くかかわっており、自らも戦費献納運動の先頭に立っていた。
逮捕はされたが、「朴の戦争協力は受動的だった」という当局の判断で起訴はまぬがれ、公民権2年停止の処分と引き換えに、拘束103日目に釈放されているが、釈放にはかなりの裏金が動いたといわれているのも事実である。

もっとも、朴興植にしても朴正煕軍事政権下では、サムスン財閥の李秉喆(イ・ビョンチョル)と組み、前出の李厚絡のソウルの土地ころがしビジネスに加担していたというから、どこまで身ギレイな人間かはわかったものではない。いわゆる政商という言葉は彼のためにあるのかもしれない。朴興植も李秉喆も米屋から身を起こして大富豪となったという点では似ている。
和信は1987(昭和62年)に経営破綻、和信本店の跡地は李秉喆の三男である李健煕(イ・ゴンヒ)サムスン会長に買収され、1999年(平成11年)、地上33階、総ガラス張りの近代的なランドマーク、鐘路タワーが建てられるが、サムスン・グループの業績悪化に伴い、これも売却が決まっている。
(初出)
※ただし、単行本掲載バージョンは短縮版。
おまけ・




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