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日韓併合とフェミニズム~「新女性」の時代とウーマンリブ運動(中)世界を一周した女流画家

現代朝鮮のフェミニズムの萌芽は日韓併合時代にあるといったら読者は信じてもらえるだろうか。その中心的役割をになったのが、新女性(シンヨソン)と呼ばれるモダンガールたちである。ここでは3人の新女性を中心に朝鮮の女性解放運動を振り返ってみる。

理想的婦人

 羅恵錫(ら・けいしゃく/ナ・ヘソク)は1896年、現在の京畿道水原の裕福な家に生まれている。父はわが子に関して男女へだたりなく学問を修めることをよしとし、恵錫も兄らにまじって幼少から漢学に親しんだ。一方でその父は妻妾同衾の人で、多くの妾を囲い、そのうちの一人は娘・恵錫と同い年だったという。思春期の彼女を取り巻くこういった環境が、のちに女性運動へと走らせるきっかけのひとつとなったであろうことは想像に難くない。

羅恵錫自画像。1928年(昭和年)ごろのもの。

 1913年(大正2年)、地元の女学校を優秀な成績で卒業すると、のちに独立運動家として知られるようになる兄・羅景錫(ナ・ギョンソク)の薦めで東京の女子美術学校の油彩科に留学。当時、女子の留学はまだ珍しく地元の新聞でも紹介されたという。このころ、佐藤彌太という日本人画学生から熱烈な求愛を受けるが、これは退けている。同時期、朝鮮留学生学友会の機関紙『学之光』に寄稿し始める。1914年(大正3年)12月号に掲載された「理想的婦人」では、良妻賢母や婦徳という女性にだけ課せられた旧弊な道徳観を痛烈に批判している。
《良妻賢母を説くなら良夫賢父も説くべきだ。女性として生きることに必ずしも良妻賢母である必要はない。男たちは女を奴隷の身に置くために婦徳を奨励したいのだ。》
 この論文が李光洙(イ・グァンス)の目に留まり、これをきっかけに、李と田栄沢(チャ・ヨンテク)を顧問に迎えて「朝鮮女性留学生懇親会」が創立されるのである。ちなみに李光洙とは一時期恋人関係にあったという説もあるがさだかではない。恵錫が同人誌『女子界』を興したときの仲間・許英肅(ホ・ヨンスク)はのちの李光洙夫人。許は朝鮮初の開業女医としても知られ、自分がバイ・セクシャル傾向の持ち主であることも公言していている。李光洙と金一葉の関係については前述したが、羅恵錫ともそういう仲であってもおかしいことではないかもしれない。李光洙先生、なかなかどうして新女性キラーなのであった。 

『女子界』。創刊2号に羅恵錫(晶月名義)の代表作ともいえる小説『キョンヒ』が掲載される。
許英肅。羅の盟友で、女性運動の中核的存在の一人。

 兄の友人で慶應義塾に通う学生詩人・崔承九(チェ・スング)との恋は本物だった。崔は早婚で故郷に妻子がいたので、兄はこの交際を心から歓迎をしてはいなかったともいわれている。恵錫と承九はよき理解者同士であり、『学之光』誌上で議論を戦わせる仲で、ある意味、理想的なインテリカップルといえた。しかし、崔は既に肺病を患っており、25歳で早世してしまうのである。1916年(大正5年)のことだった。悲嘆のあまり、神経衰弱に陥った恵錫の前に現れたのが、10歳年上の京都帝大法科の学生・金雨英(キム・ウヨン)である。金は若くして妻とは死別しており独身だった。当初、金のことをまったく男性として意識していなかった恵錫だったが、二人を急激に近づけたのは1919年の三・一運動だったようだ。彼女は騒乱の先導者として逮捕され5か月の懲役刑を受けてしまうが、そのとき弁護人を買って出たのが金雨英だったのである。金は、初恋の人を失った羅の心の傷の癒えるのを待ち続けプロポーズにこぎつけたという。出会いから4年が経っていた。

羅恵錫の想い人・崔承九。絣の着物は当時の学生の流行りのスタイル。ニーチェに傾倒していたという。

 1920年(大正9年)、25歳の誕生日、貞洞チャペルで二人は結ばれるが、恵錫が結婚の条件として出したのは以下の4点だった。1「終生変わらぬ愛を誓うこと」、2「絵を描くことを邪魔しないこと」、3「姑と前妻の娘と同じ棟には住まないこと」、4「亡き恋人・崔承九の墓石を建てること」だった。1、2はともかく、3は当時の朝鮮の儒教道徳へのあからさまな反逆といえた。4にいたっては、新郎には何の義理もないことである。しかし、金雨英はすべてを呑んで恵錫と結婚した。新婚旅行は崔承九の眠る全羅南道高興にある共同墓地だったという。どうやら、妻の過去を気にするような男では新女性の夫になる資格はないらしい。

朝鮮における純キリスト教の結婚式の走りでもあった。

 同年、恵錫は金一葉『新女子』に参加。以後二人は盟友として朝鮮女性解放運動の中心的役割を果たすことになる。彼女の周囲は急にあわただしくなり、おそらくは甘い新婚生活などという実感はなかっただろうし、恵錫自身あまり興味もなかったのではないか。  

羅恵錫が『新女子』に寄せた漫画「金一葉先生の一日」。深夜を読書に、朝を家事に、昼を執筆にあてているのがわかる。この時期の恵錫と一葉は固い絆で結ばれていた同志だった。
新聞の漫評もこの時期の重要な仕事だった。若者の間でビリヤードが流行っているという。駅弁や出前持ちも今では、日本の風景からも消えかかっている。

画家として始動
 
 1921年(大正10年)、画業の傍ら進めていたイプセン『人形の家』の朝鮮語訳を完成させる。東京留学中、らいてうの雑誌『青鞜』を通してこの作品を知った恵錫は、日本語版の他、英語版、それに原版(ノルウェイ語版)まで取り寄せて徹底的に読み込んでいた。翌1922年(大正11年)、朝鮮総督府の外交官となった夫・雨英が満州副領事として赴任すると恵錫もあとを追う。満州では副領事夫人という地位を利用して、上海臨時政府や義烈団(抗日アナーキスト集団)と裏で接触、資金提供もしていたという。

羅恵錫による金雨英の肖像画。

 洋画家として本格始動するのもこの時期である。1921年3月、京城で2日間の日程で初の個展を開き5千人の観覧客を集めた。ただし、これは内地帰りの女が油絵を描く、という大衆の物珍しさが働いていたという意地悪な見方もあったようだ。その評価を覆したのは、翌1922年に始まる第一回朝鮮美術展覧会(鮮展)での「春が来た」の堂々の入選。この鮮展には斎藤実総督も訪れており、「羅くんは活動家だと聞いていたが絵も描くのか?」と随行員に尋ね、大いに感嘆した様子だったという。総督は三・一運動での羅恵錫の投獄を憶えていたのである。そもそも鮮展自体、三・一後に赴任してきた斎藤総督の文化統治の産物であった。羅恵錫はこの第一回を含め、鮮展では6年連続で入選を果たしている。
 むろん、これら創作活動は、金雨英の理解と協力があってのことだろう。

崔麟とパリの日々

 羅恵錫には「朝鮮人女流西洋画家」第一号とは別に、もうひとつ”第一号“の称号をもっている。「世界一周旅行をした朝鮮女性」第一号である。研修旅行という名目の欧米旅行は、5年間の外交官任務を忠実にこなした夫・金雨英に対する総督府のご褒美であった。1927年(昭和2年)6月、負債は釜山港を出発、平壌を経由してハルビン、シベリア横断鉄道でモスクワを経て7月にパリに到着している。スイスで開催された軍縮会議総会を参観し、ベルギー、オランダ、ドイツ、スウェーデン、ノルウェーなどを観光した。
 ヨーロッパ旅行中の英親王(李垠)夫妻とも知遇を得、軍縮会議に参加した斎藤実前朝鮮総督の主催する英親王ご夫妻のための晩餐会に出席する光栄にも浴している。画家で文人である恵錫にとって西洋の美術シーンに直接触れられるのも大きな収穫だった。特にパリで出会った印象派や野獣派には強烈なインパクトを受け、その技法に多くを学んだという。外交官の職務のために金雨英がベルリンに発つと恵錫はひとりパリに戻って創作に励む道を選んだ。

『舞姫』(カンカン)。羅恵錫の代表作のひとつ。パリ滞在中に描かれた。当初、田園風景などを好んで描いていた彼女は途中でがらりと画風を変え、積極的に人物を描くようになった。

 そのパリで恵錫は、夫の友人でやはり外交官として駐在していた崔麟(さい・りん/チェ・リン)と出会うのである。崔麟は天道教(カトリック)の幹部として三・一運動を主導。2年余の投獄を経て、独立よりも一歩引いた「朝鮮自治論」を唱え親日派に転じている。後年は朝鮮総督府の事実上の機関紙・毎日新報の社長に就任し内鮮一体を説いた。独立派のオピニオン・リーダーから親日派へ転向した朝鮮人文化人ということでいえば、李光洙と立場を同じくする。朝鮮戦争時、北朝鮮軍に拉致され38度線の向こうで非業の死を迎えるという運命も同じだ。
 羅恵錫と崔麟の関係は在仏朝鮮人の間では公然のものだったという。二人は誰はばかることなく腕を組み、美術館やレストラン、オペラに出かけ、双方の下宿で夜をともにした。
 恵錫は崔に「あなたを愛しているが、金雨と離婚する気はない」と言ったといわれる。結婚と恋愛は別であるというのが恵錫の考えであった。また、当時パリの知識人の間で流行っていた「実験結婚論」の信奉者でもあった。男女がとりあえず実験的に同居を始め、気が合えばそのまま婚姻し、気が合わなければ別れ、他のパートナーを探すというものだ。のちのサルトル、ボーヴォワールの「契約結婚」にも似ているが、やはりこういう発想はフランス流の合理主義、個人主義から生まれるものなのだろうか。大統領に隠し子がいても「エ・アロール?(だからどうしました?)」で済んでしまうフランスは、今も昔も多少の不貞も含めて他人様のアムールに関しては寛容だ。羅恵錫がこの国の水と合ったのは芸術的な土壌だけではなかったなかったに違いない。
 雨英が4カ月ぶりにパリにもどってきたとき、既に妻の不貞は彼の耳に届いていたようだ。夫妻はすぐにパリを後にし、ニューヨークに入港、アメリカを横断してサンフランシスコから横浜を経由、1929年(昭和4年)3月、21か月の世界一周旅行を終えて帰国の途につく。

不倫は夫婦円満の潤滑油?
 
 帰国後、夫婦は別居ののち離婚を選んだ。直接の原因はやはり恵錫の不倫につきるが、彼女はのちに、夫にも何人かの愛人がいたと暴露している。
 恵錫は1934年(昭和9年)、雑誌『三千里』に「離婚告白書」という手記を寄せ、離婚に至る経緯とともに崔麟との関係についても赤裸々に告白している。この中で彼女は、金一葉同様に「男は女にだけ貞淑を求める」と男性批判を展開しているが、自らの不倫に対するエクスキューズとしてはいささか説得力に欠ける。むしろ、以下の部分がなかなかかっ飛んでいて面白い。いかにもフランスかぶれといった感もある。
《私は決して私の夫をだまして、他の男を愛そうとしたしたのではない。むしろ夫に情を厚くむけられるであろうと信じてのことだ。欧米一般の男女カップルの間では、この程度の秘めごとがあるのは当然だ。夫や妻の信頼を裏切らない範囲での行動(不倫)は罪ではなく、真に進歩的な人にとって当然あるべきものなのだ。》
 崔麟との不倫はむしろ、夫を愛するためのちょっとした潤滑油の役目をはたしていた、と堂々と言ってのけたのだ。しかし、当の崔麟が彼女のそういった超急進的(?)な考えについていけず、既に彼女のもとを去っていた。残ったのは、世間からの非難の声だけだった。彼女は論壇から孤立し、それは画業にも少なからず影響を及ぼすことになる。

『三千里』に掲載された「友愛結婚、試験結婚」

 離婚後、恵錫は経済的にもひっぱくしていったようで、朝鮮女子留学生を多く後援していた実業家の柳原吉兵衛夫妻に自分の絵を買ってくれないか打診の手紙を出している。近年発見されたその手紙には流麗な日本語の筆致で「過渡期に生まれ、芸術のために生きようとしたが、姑、夫の理解を得られず当分は別居することにしました。これはすべて私の不徳の致すところと考えます」と記されていた。

羅恵錫と柳原夫妻(前列)。柳原は染色業界で財をなし、朝鮮人留学生のために多くの支援活動を展開した。3 回にわたっ て朝鮮人女子教員を内地(日本)に招く「学事視察」を実施している。

女流画家の寂しい最期
 
 すべてに行き詰まった恵錫は、自分を捨てた崔麟相手に慰謝料請求の訴訟を起こしているが、ちょっとここいらへんは、男社会に抗い「道の真ん中を堂々と歩く」新女性、いや女性解放運動家らしからぬ行動に見える。去る者は追わず。意地でも男に頼らないでほしかったと思うのは筆者だけだろうか。
 金一葉に比べれば、羅恵錫はどこか徹底しきれない弱さがあったような気がする。彼女の男性批判もやや私怨に傾いていたきらいがある。崔麟への慰謝料請求の理由が「貞操を蹂躙された」であるのは、どうみても自己矛盾でしかない。

羅恵錫が崔麟を提訴したことを伝える新聞記事。「慰謝料萬二千圓請求」とある。内鮮をゆるがす大スキャンダルだった。しかし、この騒動を境に彼女の創作活動も精彩を欠いていく。(東亜日報1934年9月20日)

 ちょうどこのころだろう、恵錫は修徳寺に金一葉を訪ねている。自分も仏門に入りたいのだが、という相談である。一葉はこのとき、「あなたはまだ俗世を捨てきれていない」とだけ言い、かつての同志をつれなく追い返したという。
 崔麟から得た和解金2千ウォンで恵錫は、パリ行きを決める。自分の芸術的風景の母胎、なつかしのパリで画家として再出発しようというのだ。もう二度と朝鮮の土は踏まぬと覚悟を決め、金雨英との間にもうけた4人の子供に向け、遺言めいた、こんな一文を残している。
 《四人の子供たちよ、お母さんを恨まないで、社会制度と道徳と法律と因習を恨みなさい。お前たちのお母さんは過渡期の先覚者として、その運命の犠牲になったんだよ。将来パリに来ることがあったら、お母さんの墓を訪ねて花を一輪差してちょうだい。》(「新生活に入って」『三千里』1935年2月号※引用部の日本語訳は久保田貴美子氏による)
 ちなみに先述の「離婚告白書」の中で、《母性愛は学習と洗脳の結果です。 結婚は女性の地獄であり、妊娠は不幸であり、子育ては呪いです。》とまで書いている。結婚、家庭生活だけでなく、母性をも否定する、というよりも、その呪詛を投げかけるような母の態度を子供たちはどう思っただろうか。
 しかし、どのような事情があったのかわからないが、パリ行きは叶わなかった。その代わり、郷里水原に小さな家を建てた恵錫は、そこをアトリエとし創作作業に励むが、作品からはかつての精彩は失われていた。再起をかけ同年行われた個展の評価も惨憺たるものだったという。
 その後、若くしてパーキンソン病と中風を患い、後年はうつ病まで併発していた。1948年(昭和23年)、羅恵錫はソウルの養護施設病院で誰に看取られることなく息を引き取った。52歳であった。


羅恵錫初期の漫画。断髪しバイオリンをもった女子に後ろ指を指す朝鮮の男たち。新女性を取り囲む世間の空気はこんなものだったようだ。

単行本未収録
(つづく)

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