日韓併合とフェミニズム~「新女性」の時代とウーマンリブ運動(上) 修徳寺の尼僧
現代朝鮮のフェミニズムの萌芽は日韓併合時代にあるといったら読者は信じてもらえるだろうか。その中心的役割をになったのが、新女性(シンニョソン)と呼ばれるモダンガールたちである。ここでは3人の新女性を中心に朝鮮の女性解放運動を振り返ってみる。
時代の先端をいった新女性
「貞操観念は愛のように固定されたものでなく、常に流動するものです」
「貞操は道徳でも法律でも何もない、趣味の問題だ。ご飯を食べたいときにご飯を食べて、お餅を食べたい時に餅を食べるのと同じことだ。洋服を着替えるように男を着替えるに過ぎない」
21世紀の現代でも充分過激で先端的な言葉ではないだろうか。これが、百年も前の、儒教道徳による男尊女卑の因習が強く残る朝鮮の女性が発した言葉であるとしたら、読者はどう思われるだろうか。さらに驚かれるとすれば、現代韓国人のいう「人類史上類例のない過酷な植民地支配」下で、このような自由な発言ができたということだ。前者が金一葉(きん・いちよう/キム・イルヨプ)、後者が羅恵錫(ら・けいしゃく/ナ・ヘソク)という女性の言葉である。それぞれ、1920年(大正9年)、1930年(昭和5年)に雑誌に発表された論文の一説だ。
彼女ら、朝鮮の女性解放運動(ウーマンリブ)の闘士たちはいずれも内地留学組である。大正デモクラシーの風吹く内地で自由の空気を吸い、平塚らいてうや市川房枝らによる女性参政権運動に感化され、モダンガールやフラッパーといった女性の新風俗に刺激を受けた彼女たちは、旧弊の儒教的家父長制度や道徳に公然と反旗を翻したのだった。自由恋愛主義を標榜した彼女たちは、不倫を謳歌し、夫を捨て、中には同時に複数の恋人をもつ者さえいた。これら、朝鮮女性の新人類たちは、彼女たちが集う雑誌の名前から「新女子(シンニョジャ)」「新女性(シンニョソン)」と呼ばれた。
当時、「新女性」の一般的なイメージは、《旧来の女性のように髷を結わず髪を束ね、スカートの丈を短くし、長い靴下に踵の高い靴をはき、日本語や英語を少ししゃべり、道を堂々と歩き、パラソルや香水を買い、アメリカの映画を見て外国の俳優の名前を知っている》(井桁碧著『「日本」国家と女』/青弓社)というものだった。当時の常識からすれば、かなり尖がった女性ということになるのだろう。短髪は新女性のシンボルともいえ、毛断と書いて「モダン」と当て字した。






「女性」がいなかった李朝時代
そもそも、「女性」という概念自体、併合による近代の流入によって生まれたものといっていいだろう。李氏朝鮮時代、女といえば、妻か妾か婢(はしため)であり、「女性」という主体をもった存在はいなかった。婢といっても単なる小間使いではなく、主人に生殺与奪を握られ牛馬のように売買される、文字通りの奴隷だったのである。奴婢(ノビ)の女はしばしば主人の慰み者になった。奴婢が主人の子をなしても、その子はやはり奴婢として売られた。女の子の場合は、やはり主人(父)に弄ばれる運命にあった。奴婢は人間ではないから、わが子という意識はなく、したがって近親相姦には当たらないのである。中には、主人の寵愛を一身に受け妾のポジションを得る奴婢もいたが、たいがいは悋気な奥方の毒牙にかかった。林鐘国著『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社)によると、李朝時代は、河川に若い女の死体が浮かんでいるという光景はごく日常的なものだったという。主人の奥方の逆鱗に触れてしまった哀れな婢のむくろである。こういう死体は決まって性器に棒や石が突っ込んであったそうだ。遺体を辱めるのは儒教文化の伝統である。奴婢を殺したところで主人も奥方にもお咎めは一切なかった。奴婢は人間ではないからだ。
このような原始奴隷制度から朝鮮の民を解放した朝鮮総督府の功績はもっと評価されてもされ過ぎることはないと断言する。そして総督府のもたらした近代化は朝鮮に「女性」を生み、大正昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスとモダニズムの空気が「新女性」を誕生させたのである。


当然とはいえるが、新女性になるのはそれなりに裕福で教育のある女性に限られた。当時、内地に留学すること自体、最先端なことだったのである。
面白いのは、金一葉も羅恵錫も、その他多くの新女性たちも、何かの形で三・一万歳運動に関与しているということだ。三・一運動を単なる抗日・独立運動とだけ解釈すると歴史を見誤る。併合朝鮮の文化的インパクトを前にして、内鮮がともに味わった陣痛であったというのが私の見方だ。
金一葉――新女性から尼僧へ
金一葉。もちろんこれはペンネームで、本名は金元周(キム・ウォンジュ)といった。元周は1896年(明治29年)、現在の北朝鮮中西部の平安南道に牧師の娘として生まれている。幼くして両親を亡くしたが、祖母の援助で梨花学堂(梨花女子高・梨花女子大の前身)大学予科を卒業後、東京の日新女学校に学んだ。帰郷後、延禧(ヨンヒ)専門学校の教師・李魯益(イ・ノイク)の求愛を受け結婚している。李は元周よりも18歳年上のやもめ男で、しかも片足がなかった。元周がそれに気が付いたのは結婚式前日だったという。元周は夫の義足姿をひどく嫌ったともいわれる。それでも結婚に踏み切ったのはひとえに祖母に楽をさせたいという思いからだった。李魯益の名誉のために記すが、元周のような進歩的な女性にほれ込むだけあって、彼自身も既成の結婚観に囚われない進歩的な考えをもった人物だったのは確かなようである。その証拠に新婦である元周に再留学を勧め、そのための援助を惜しまなかったのだ。古い儒教道徳に固執する亭主だったら、まずありえないことだろう。


元周は東京の英和学校に籍を置いた。女子美術学校に通っていた羅恵錫とはこの時に出会い意気投合している。羅恵錫は日本にいること既に6年。朝鮮初の女性西洋画家として知られる彼女だが、画家としての大成はもう少し待たなければならない。むしろ、朝鮮留学生の機関誌『学之光』に発表した「理想的婦人」という論文で注目された朝鮮女性運動の先駆者だった。また彼女自身、留学朝鮮女性のための雑誌『女子界』の主幹を務めていた。元周にとって羅恵錫との出会いは、その後の彼女のジャーナリスト人生に大きな影響を及ぼしたことだろう。

もうひとり、東京には彼女の人生にとって欠くことのできない人物との出会いが待っていた。新進作家の李光洙(り・こうしゅ/イ・グァンス)だ。李は早稲田大学に留学中、三・一万歳運動に先立つ朝鮮人留学生による「二・八独立運動」では独立宣言の草稿を執筆、三・一運動後は上海臨時政府の設立に参加するなど、独立派の若きリーダーの一人である。また、儒教的因習を批判する啓蒙主義的な小説を数多く発表している、「朝鮮の魯迅」ともいうべき存在であった。のちに親日派に転向、創氏改名令の発令に際しては積極的にこれを推進、自らも香山光郎と名乗っている。実は金元周のペンネーム「一葉」(イルヨプ)は、樋口一葉を敬愛する李から贈られたものである。

翌1919年(大正8年)に三・一万歳運動が勃発すると、金元周もこれに参加するために一時帰郷し、家の地下室で謄写したビラを撒くなどのデモ行動を行った。しかし、2か月にわたった三・一闘争は警察、軍隊の介入を招き、やがて霧散してしまう。このときの挫折感が、いよいよもって金元周を女性運動へとのめり込ませることになったようだ。そして翌1920年(大正9年)の『新女子』創刊につながるのである。金元周は晴れて金一葉を名乗ることになる。

《改造! これは5年間の悲惨な貝の中でうめき続けた人類の叫びであり、解放! これは千年暗闇部屋の中に閉じ込められていた私たち女性の叫びです。 (中略)
何から改造しなければならか? 何々することなく、あわせて社会を改造すべきです。 社会を改造するには、社会の元素である家を改造しなければならず、家を改造する家庭の所有者になる女性を解放しなければならないことはもちろんです。
私たちも男のように生きるため、人間らしく生きるため、すべてを女は改造する。そのためには、まず自らを解放する必要があるでしょう。》(創刊号に金一葉が寄せた言葉)
ここでいう「家」とはすなわち儒教的家父長制度であることは説明するまでもないだろう。

金一葉と男たち
三たび活動拠点を日本に戻した金一葉だが、彼女はここで恋愛事件を起こすことになる。
相手は、やはり留学組で詩人の林盧月(イム・ノウェル)である。林はフランス象徴詩に影響を受けた耽美的で背徳的な作風で知られた人物で自らを悪魔派と称していた。
この恋愛を機に、金一葉は夫・李魯益に対し一方的に別離を宣言する。李魯益は心地よく彼女を送り出し、以後しばらく雑誌作りのための援助も続けていたというから、お人よしというべきか大した度量の持ち主とほめるべきか。当の一葉は盧月と結婚するつもりだったが、盧月が実は妻帯者で、しかも盟友である金明淳(キム・ミョンスン)とも関係があることを知り断念している。金明淳については詳しく後述する。
金一葉は恋多き女であった。林との別れの傷も癒えぬ間に今度は、京都帝大生で銀行頭取の息子で太田道灌の血を引く太田淸藏という日本人青年と深い仲となり、彼との間には一子まで残している。結局、太田家の猛烈な反対にあい、清蔵との結婚も実を結ぶことはなかった。
体の不自由な夫を捨てて奔放に男を乗りかえる金一葉を小説家の金東仁(きん・とうじん/キム・ドンイン)は「すずめの巣作り」と揶揄した。しかし、そんなことで態度を改める一葉ではない。大衆小説家の方仁根(バン・イングン)と浮名を流したかと思えば、東亜日報の記者・鞠錡烈(クッ・キヨク)と同棲したりもした。なんと恩師・李光洙とも一時期、男女の関係があったというのだから恐れ入る。お世辞にも美人とはいえぬ金一葉が、なぜにそれほど男、それもインテリ男にモテるのか、その理由ははっきりわからない。いや、インテリ男ほど、自分を翻弄してくれそうな女に魅かれるものなのかもしれない。
貞操をめぐる討論会
《処女を失った女をまるで割れた器のように見る風潮が古来よりある。しかし、貞操とはそのような固形物ではない。貞操は肉体でなく精神にこそある。貞操が大事なのは愛があるときだけです。》
《女は男の性の人形ではない。朝鮮の男は母親と妻には純潔を求めるくせに他人の妻には欲情する。そしてセックスの快楽を独占物であるかのように思っている。女性にだけ貞操と純潔を強いるのは不当だ。》
金一葉の有名な『私の貞操観』という論文の中の言葉だ。もともと『私の貞操観』というタイトルからして与謝野晶子からのいただきである。それにしても、なぜに師・李光洙は元周に「一葉」の名を与えたか。彼女には一葉の諦念よりも晶子の熱情こそが似合うような気がするのだが。金晶子(キム・チョンジャ)では具合が悪かったのだろうか。
貞操ということでいえば、1930年(昭和5年)11月、雑誌『三千里(サムチョンリ)』主催によるこんなエキサイティングな公開討論会が行われている。パネリストは金一葉をはじめとするいずれも名うての新女性たち。むろん、女性解放運動の旗手である。彼女たちが三・一運動、あるいは独立派となんらかの形でコミットしていたということは先にも触れた。討論のテーマはずばり、「独立運動家が投獄、あるいは亡命を余儀なくされた場合、その妻は貞操を守りぬくべきか否か」である。

この討論会では、妓生から身を起こし社会主義運動家となった丁七星(チョン・チルソン)が「貞操を守ることこそが夫とともに独立運動を戦う証である」と主張すると、許貞淑(ホ・ジョンスク)は「体が離れると心も離れるものであり、夫婦関係が壊れない限りにおいて他の人との自由な恋愛も可能である」と反論した。許は実際、最初の夫・林元根(イムウォングン)の投獄中に孫某という他の同志と同棲している、いわば「経験者」の言葉だったのである。許の発言を後押しするように、劉英俊(ユ・ヨンジュン)も医科大生の立場から「経済的な問題と性欲的な問題で、空閨を守ることは不可能である」と分析。これら、熱い議論を受けて金一葉は両者を取り持つように「とりあえず1年から3年ぐらいは我慢しておくべきだ」と答えている。さすがの金一葉も後輩たちの過激な意見に腰が引け気味?といった感じである。



田栄沢の小説『運命』の主人公はある事件に連座し獄中にあったとき、内地留学生だった恋人の裏切りを知るというお話だった。新女性に泣かされた活動家も実際多かったことだろう。
こういった新女性たちの過激な討論会では、会場外に朱子学者のグループが押し寄せ怒号を浴びせるのが常だったが、このときばかりはテーマがテーマだけに、独立運動家からも大いに顰蹙を買ったようだ。
『新女子』に関わった女性たち
結局、金一葉が編集長を務める『新女子』は資金難もあって四号で終了してしまうが、朝鮮の女性に意識改革を呼び掛けたという意味で、歴史的役割は大きかった。一葉自身、小説や詩、評論を積極的に発表したが、多くの論客が同誌に健筆を振るった。羅恵錫、金明淳、朴仁徳(パク・イントク)、金活蘭(キム・ファルラン)、車美理士(チャ・ミリサ)、そして黒一点で李光洙。後述する羅恵錫、金明淳以外の3人の女性についてここで軽く触れておこう。
朴仁徳は教育者で思想家、ジャーナリスト、実業家、それにピアニストの顔をもつ才女。朝鮮で初めて夫に慰謝料を払って離婚した女性として知られ、「朝鮮のノラ」と呼ばれた。当時の朝鮮では離婚した女性は家を追い出され路頭に迷うのが当たり相場だったが、反対に彼女は金を渡して夫を追い出したのである。離婚の理由は、夫に妓生上がりの妾がいたことだった。慰謝料は9千ウォンだったという。その後は女子教育に尽力し徳和女学校、仁徳工業高校、慈善大学など多くの学校を設立している。

金活蘭も教育者で、大韓民国の政治家である。米国ボストン大学、コロンビア大学に留学、朝鮮女性として初めてアメリカの博士号(哲学博士)を収得している。留学中、「無知と旧習の打破」を理由に公開断髪をして話題になった。女性論壇誌『世論』を創刊。戦後は、「韓国のお茶の水女子大」といわれる名門・梨花女子大の初代総長を務め韓国の女子教育に半生を捧げた。しかし、併合時代、自ら進んで天城活蘭(あまぎかつらん)と改名、学生たちの徴兵・徴用を督励するなどの「親日行為」があったと近年問題視され、学内の初代総長銅像撤去騒動に発展している。



車美理士 はキリスト宣教師で女性運動家。「美里士(ミリサ)」は洗礼名である。アメリカ人宣教師を通じて、先進国の実情と女性の社会活動に関心をもつ。中国蘇州にあるヴァージニア女学校に留学。三・一運動時には国内外の朝鮮人をつなぐ秘密連絡係を担った。その後は、女性の啓蒙活動に従事。槿花(グンファ)女子学校を設立し校長となる。朝鮮女子教育会発行の『女性時論』の中心的メンバーでもあった。

修徳寺の尼僧
朝鮮に戻った金一葉は、毎日新報や東亜日報で記者活動をしながら講演活動を積極的にこなした。とりわけ、早婚の因習を打破することこそ女性解放の第一歩であるとして啓蒙に励んだ。朝鮮では女子は14、15歳で嫁ぐことが普通で、結婚後は夫の両親に仕え、よほどのことがなければ外出もままならなかったのである。早婚でいえば、男子も同じだ。旧両班の家庭では、年端もいかない長男に年上の嫁――つまり肉体的に成熟していて子供をよく生みそうな女――をあてがい、とりあえず跡取りをもうけるという風習がまだ残っていた。この場合、嫁は子供を生むためだけの道具ということになる。愛情もなく一緒にさせられた相手だから、長じれば夫は若い娘を妾にしたがるし、親もそれを容認することになる。これでは女性は家制度の奴隷ではないか、というのが金一葉をはじめ朝鮮の女性啓蒙家の主張だ。また、意識高い新女性たちの恋愛対象がいきおい妻帯者になるのもこの早婚因習が原因のひとつだという。内地にいたインテリ朝鮮男性の多くが故郷に妻子を残していた。
金一葉の男性関係も相変わらず華やかだった。かつての恋人・林盧月と再会、同棲を始めたかと思ったら、李光洙との関係が再燃したりもした。その二人との関係を清算すると、仏教学者で内務大臣経験者でもある白性郁(ペク・ソンウク)との生活をスタートさせる。一葉のインテリ殺しは健在だったのである。しかし、なぜが同棲一年目で白は書置きを残して出家してしまう。それまで男のもとから去ったことは幾度とあるが、男に去られたことは初めての経験だった。屈辱は悲しみを上まった。腹いせのように、僧侶某と再婚したが、これも長くは続かなかった。やがて、一葉は白を追うように仏門に身を投じていく。満空(マンゴン)和尚の導きにより得度し、曹渓宗の古刹・修徳寺の尼僧になる。
ある日、修徳寺に一人の少年が一葉を訪ねてきた。太田淸藏との間に生まれ、その後は父の友人に預けっぱなしで、一度も会ったこともない実の息子・泰伸(テシン)だった。14歳になっていた。
「オモニ(お母さん)」と呼びかけてきた息子に、一葉は「二度とオモニと呼ばないで。スニム(僧侶)と呼びなさい」と冷たく言い放ったという。
太田清蔵はその後、外交官となったが生涯を独身で過ごしたと伝えられている。

(続く)
単行本未収録
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