下町言葉・西東~ロイと手塚治虫
昭和の命司会者ロイ・ジェームスについて、いろんなところに書かせてもらっているし、いずれまとまった文章にしたいと思っていろいろ調べている。東京は下谷竹町生まれのチャキチャキの”江戸っ子の外人”の一人称は「あたし」。「わたし」でなく「あたし」。司会などではお行儀よく(?)「ボク」を使っていたが、ちょっと乗ってくると、すぐ「あたし」が出る。
三ノ輪生まれの写真家アラーキーこと荒木経惟の一人称も「あたし」だが、両者は微妙に違う。
ロイの「あたし」は職人言葉だが、アラーキーのそれは芸人言葉だ。ここいらへん、口では上手く説明できないが、下町育ちの耳にはなんとなくわかるのだ。ちなみに、僕は職人の血も芸人の血も継いでいる。祖父の彦三郎は腕のいい彫金職人だったという。残念ながら、僕の生まれる前に亡くなっているので、会ったことはない。テレビに出てくる女優さんなんかを指さして祖母が「この人も簪買いに来たよ」と言っていたから、稲荷町の彦三の作はそれなりに有名だったのだろう。

その祖父の従兄が、浪曲物まねで一世を風靡した(らしい)前田勝之助で、勝之助の女房が漫才師の隆の家百々竜。この二人とも僕の記憶では会ったことがないが、叔母によれば、「おとっつぁん、いるかい?」と稲荷町の家によく遊びに来ていたという。彦三郎の妹、つまり僕の大叔母は芸者上がりだったが、若いころは娘義太夫として高座に上がっていたらしい。
稲荷町と竹町は隣町で、ロイ・ジェームスの母校・竹町小学校と僕が小5まで通った西町小学校はいつの間にか統廃合され、平成小学校になっている。まったくの余談だが、西町小学校跡に移転してきたのが、コロナのころクラスター騒ぎを起こしニュースで有名になった永寿病院である。
▲『ロイ・ジェームスのいじわるジョッキー』。江戸っ子ロイのべらんめえ調をどうぞ。
よく、江戸っ子は巻き舌だなんてことをいうが、舌は巻かない。舌先で喋るのだ。僕などすっかり江戸っ子のなりそこないもいいところで、歯切れのいい啖呵なんぞ切れもしないが、さて子供のころ、どんな言葉を耳にし、自分も喋っていただろうか、祖母や当時の大人たちの顔とともに思い出してみる。
たとえば、うちでは「おしんこ」とは言わず「おこうこ」と言った。これは京都あたりでも通じるらしい。祖母はよく「〇〇屋のわかいしが…」という言い方をした。「わかいし」は若い衆で、店員のこと。一人でも”衆”だし、別に若くなくても「わかいし」なのだ。若い店員、特に配達や給仕のことは「小僧さん」と呼んでいたが、今ではすっかり差別語にされてしまった。給仕のことを英語でボーイ(boy)、フランス語でギャルソン(garçon)というが、直訳すれば「小僧」、これはいいらしい。ハンガーのことを「えもんかけ」という人は昭和人間でも見かけなくなったが、祖母にかかれば、これが「いもんかけ」になって、よけいに通じそうもない。下町でも使う人が少なかったレア語が、「しっくりかえっちょ」。「この子ったら、またしっくりかえっちょだよ」というふうに使う。(シャツなどを)裏返しに着ている、の意味だ。「ひっくり返る」の名詞形なのだろう。
江戸弁とは関係ないかもしれないが、同じ「大門」でも、吉原のそれは「おおもん」、芝は「だいもん」。こういうのは、周囲の大人から口やかましく教わる。そういえば、お江戸日本橋は「にほんばし」で大阪の日本橋は「にっぽんばし」である。

下町言葉というのは、東京だけのものではなく、当然上方にもあるもので、シリーズ何作目だったが忘れたが、映画『悪名』で朝吉(勝新太郎)と清次(田宮二郎)が足を洗い、止まり木ひとつの呑み屋を開くエピソードがあって、そのとき、清次と客のやりとりで出てくるセリフ「(お勘定は)〇〇円だ」の語尾の「~だ」が心地よく耳に残った。そして、手塚治虫が昔、何かで書いていた「まっちゃま言葉」とはこれのことかと合点したのである。
この「~だ」はむろん標準語のそれとは違い、「~だす」が訛った、くだけた商人言葉で、イメージとしては、「だ」の前に、発音するかしないかの微妙な小さなn(ン)が入った感じ。「~ンだ」である。
博徒からようやく堅気になれた、そんなささやかな喜びが「~だ」に現れているかのようで、田宮二郎ってホント上手い役者さんなんだなあと正直思ったものだ。
桂ざごば師匠も朝丸時代、『ウィークエンダー』のレポーターで「~だ」を連発していた記憶がある。この人の場合、「悪いやっちゃで」のフレーズの方がおなじみかもしれないが。
大阪府中央区・松屋町(まっちゃまち)は、ひな人形や花火、玩具や駄菓子の問屋、小売店が並ぶ典型的な浪花の下町で、東京でいえば、合羽橋道具街と浅草橋、それに日暮里の駄菓子問屋街を合わせたような街といえばいいのか。

また、古紙、再生紙を扱う業者も多く、敗戦直後の娯楽の乏しかった時代、それら古紙を利用して粗末な体裁の雑誌を作る零細出版社がこの地に雨後の筍のように出現した。経営者の多くは志ある出版人というよりも、ブームを当て込んだ一発屋で、問屋のオヤジが兼ねていることが多かったという。ブームの中心にあったのが、いわゆる赤本と呼ばれるチープな装丁の漫画本である。
当時、大阪大学医学部に通う手塚治虫は、講義が終わると漫画原稿をもって松屋町に通う日々が続いた。ただし、「医学生デス」なんて顔をしていると、この街では、いつまでもよそ者扱いでなので、いつしか手塚は、途中の橋のたもとで、学生服を脱ぎくたびれたジャンパーとベレー帽姿に着替えるようになった。この松屋町通いで、自然と「まっちゃま言葉」が身に着いたという。これが思わぬところで役に立った。インターン時代、診察の際つい、例の「~だ」が出たりすると、それまで緊張の面持ちでいた患者がとたんになごむ。「あの若いセンセイ、話わかるワ」ということで、年配、特に女性の患者からモテモテだったという。

※大阪の下町文化については、あくまで”知ったか”に過ぎないので、くわしい方がいれば、ぜひご教授ください。
・タイトル写真は、下谷稲荷町。画面向かって左が、8代目林家正蔵でおなじみの噺家長屋(彦六長屋)、右側が今はなき同潤会アパート。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければご支援お願いいたします!今後の創作活動の励みになります。どうかよろしくお願い申し上げます。