見出し画像

追跡 独ソ戦 第四編「惨勝のレニングラード(2)」

 戦争により、レニングラード市民の日常は一変した。市民は、塹壕掘りや、建物や街の貴重な彫刻群を土嚢や合板で囲んで保護する作業に次々と駆り出された。灯火管制が敷かれ、レニングラードの象徴でもある教会の金色の高い塔には、敵の攻撃の標的になることを避けるためカムフラージュ・ネットが張り巡らされた。空襲と地上砲撃も毎日のように続いた。人々は、街の外からナチス軍が打ち込んでくる砲弾が、建物の陰になって当たらない部分を通って市中を移動した。

 封鎖による食糧難も、ひたひたと人々の足元に迫ってきた。

 開戦はしたものの、ナチス軍がまだレニングラードからはるか遠くにあった7月段階での一日の配給は、労働者はパン800グラム、事務員は600グラム、家族は400グラムだった。肉も、ひと月に、それぞれ2,200グラム、1,200グラム、600グラムもらえた。

 レニングラードが閉鎖状態に陥ったのが9月初頭。食料の備蓄は、1か月分しかなかった。さらに、9月8日には、市中最大の食糧庫であるバダーエフ倉庫に爆弾が落ち、大量の小麦と砂糖が焼けてしまった。

 食料の配給は徐々に減っていった。11月後半には、労働者でパン一日250g、それ以外は125gになった。250gといえば、食パン2枚半。125gなら、1枚とひとかけらである。一食ではなく、一日分の供給量がそれだけしかない。

 成人男性の基礎代謝は一日1500キロカロリー。何もしないでもこれだけのエネルギーが必要なのである。非労働者の配給量である125gは、350キロカロリー。必要量の4分の1にも満たない。 ちなみに、左記はあくまで普通のパンの場合である。この時期レニングラードで配給されていたパンには、足りない小麦を補うため、ふすま(麦糠)や、木屑からとったセルロース、かびた穀物の粉、穀物倉庫の床から掃き集めた塵まで混ぜられていた。「それは、あらゆる種類の屑と、ほんの少しの小麦粉を含んでいた。」と、後に市民は回想している。

 そのようなパンに、どれほどのカロリーがあっただろうか。肉の配給などは、もはや期待のしようもなかった。

 人々は、配給券を持って毎日パン屋に並び、もらったパンを首から下げた袋に入れたり、鍵のかかる戸棚にしまったりして、少しずつ大事に食べた。それ以外に口に入るものは、殆ど水ばかりのスープやカーシャ(粥)だった。それでも、貴重な栄養源だった。

 人々は、あまりの空腹のため、横になっていることがやっとであった。それでも、この街を守るため、市民は、塹壕掘りや兵器工場での武器製造という役務を果たす必要があった。絶え間なく鳴る空襲警報の合間を縫って、人々は、力を振り絞って自らの持ち場に通った。

 11月から、餓死者が増え始めた。その月には1万人。翌12月には5万人が餓死した。

 空腹が、容赦なく彼らを傷めつけた。血色が悪くなり、骨と皮だけになった。十代後半の少女が、老婆のような姿になった。

 多くの者が、歩きながら力尽きて道に倒れて死しんだ。家に残った人々も、座ったまま、横たわったまま、疲れて休んでいるような状態で、いつの間にか死んでいった。

 でも、クリスマスには増配もあった。労働者には150g(食パン1枚)、家族には75g(その半分)がプレゼントとして追加で与えられた。パン屋にきてその事実を知った人々は狂喜し、感極まって泣き出す人もいたという。

 1月、状況はいよいよ絶望的となり、半月に渡り労働者以外への食糧の配給が休止された。全くの、ゼロである。1日の餓死者は4千に上り、7000の死者が出る日もあった。

 極度の空腹が、人々を無気力にした。前を歩いている人がドサリと倒れて息絶えても、アパートの階段に住人の死体が横たわっていても、もう驚くこともなく、ただだまって、それを跨いでいくだけとなった。

 居住区も街路も死体で溢れた。生き残った家族が、布でくるんだ死体を橇に乗せて墓場まで歩いていく光景が、この街の日常になった。

 “白い地獄”、人々はそう呼んだ。

 街路の死体の多くは、そのまま吹雪に埋もれた。春になると、溶けた雪から出てきた死体が累々と街路に横たわった。

 集められた死体は、市の北部に設けられたピスカリョフ墓地に埋葬された。ダイナマイトによって凍った大地に穴が空けられ、土木工作機で穴の底が平らに馴らされた。何十体もの死体がそこに並べられた。その上に土をかけて台形状に馴らし、死者をそこに葬った年がかかれた墓碑が、一つづつおかれた。誰がどこに眠っているかはわからない。

 今でも、市の北部にあるピスカリョフの墓地に行くと、その光景を目にすることが出来る。世界最大の共同墓地である。50万人を超える市民と兵士が、そこに眠っているという。果てしなく連なる平らな台状の墓所の数に、圧倒される。

いいなと思ったら応援しよう!