216.【小説】Bar 3rd Friday ∣Chapter 5:Godfather
Chapter 5:Godfather

『ゴッドファーザー』
アマレットとスコッチを合わせた酒、ゴッドファーザー。 甘く、苦く、少し重い。
名前ほどには厳しくなく、けれど優しさだけでもない。
男が何かを去るとき、この酒を選ぶことがある。 それが「始まり」ではなく、「ちゃんと終えた」と思える夜になるように。
第3金曜日の夜。
少し遅れて、斎藤直樹が現れた。 スーツのジャケットを脱ぎ、いつもの席に腰を下ろす。
「今夜は、マスターのおすすめでお願いします。……少し、しんみりしてるやつで」
「了解」
俺はグラスを手に取り、アマレットとスコッチを静かに注ぎ始めた。 琥珀色の液体が、ゆっくりと満ちていく。
斎藤はそれをじっと見つめ、一口だけ含んで、ようやく言った。
「……異動が決まった。来月から、また名古屋」
IT男と沢渡が顔を上げる。
「しばらく、東京を離れる。たぶん、戻るのは当分先だ」
IT男がふっと笑った。
「斎藤さん、あんまり“去る”って感じじゃないよね。名古屋だし、たぶんここにも、また顔出すよね?」
「そりゃあ、仕事次第だな。……でも、たぶん、もう“毎月の第3金曜”には戻ってこれない」
斎藤は静かに言った。
「だから、今日はちゃんと2人に挨拶しておきたかったんだ」
沢渡がグラスを傾けながら言う。
「……まじめですね、やっぱり」
「悪かったな、誠実なもんで」
「おい、それより乾杯だ。 斎藤──いや、この場合は“斎藤直樹”だな。 斎藤直樹の輝ける前途を祝して。 皆さん、ご唱和ください、乾杯!」
IT男が、おどけて言った。
「乾杯!」
「フルネームで呼ぶな、恥ずかしい。 でも、ありがとうな」
3人で笑った。 そのあと、ふっと静寂が戻る。
斎藤はグラスの縁を親指でなぞりながら、ぽつりとこぼした。
「……俺、東京に来て、最初の2年、正直うまく馴染めなかったんだ。 職場は冷たいし、家でも会話は減っていくし……」
「この店に初めて来たのが、たぶん3年前の春」
「雨、降ってた日ですね」
マスターが言った。
斎藤は驚いたように顔を上げる。
「珍しかったからね。びしょ濡れで来たスーツ姿の人は、そんなにいない」
斎藤は笑って、首を振った。
「……助けられましたよ、この店に。 何がって言われると、うまく言えないんですけど。 ここに来ると、“元に戻れる”感じがしたんです。ちゃんとした自分に」
誰も口を挟まなかった。
その言葉が、この夜にふさわしいと、皆が感じていた。
斎藤は残ったゴッドファーザーを一気に飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
「名古屋、案外、悪くない街なんですよ。飯も意外とうまいし」
「海老フライ、味噌カツ、今は台湾ラーメンだっけ。 美味そうな土産、期待してるよ」
IT男がからかう。
「わかった。お前には、激辛のやつ用意しとく」
「誠、お前は、飲みすぎんなよ」
「そっちは、真面目すぎんなよ」
2人は軽く笑い合った。
斎藤はカウンターの内側へ、少しだけ身を傾け、マスターに言った。
「ありがとうございました、マスター。 ……この店があって、ほんとによかった」
マスターは、ただ静かに頷いた。 それが、最大の言葉だった。
Godfather。
甘さと苦みの間で、言葉にならなかったことを、そっと見送る酒。
斎藤直樹が去ったあと、カウンターには少しの余白と、 微かに残るアマレットの香りだけが漂っていた。
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