188.【小説】男と女 ∶7 柔らかすぎるパン、再び
やあ、こんにちは。
僕は、この街で暮らすようになって、もうすぐ半年になる。
少しずつ気に入るものが増えてきたけれど、今日はそのひとつ──僕のお気に入りのカフェの話をしようと思う。
店の名前は、まぁ、いいだろう。
ラウンド型のカウンターが目印で、昼下がりにはちょうど光が入って、ママが気まぐれにジャズを流すんだ。
誰かの声と、珈琲の香りが静かに混ざる。店の外からは見えにくいけれど、中に入ると空気が変わるのが分かる。温かくて、そう、どこか懐かしい香りがする。
この時間帯には、常連らしき人たちが静かに過ごしている。ラウンドの左端には、30代半ばくらいの男性。スーツはきちんとしているが、ネクタイは少し緩められていて、表情もどこか柔らかい。
ママと一言、二言だけ交わしたあと、スマホではなく文庫本を取り出してページをめくっていた。
カウンターの奥には、若いカップル。向かい合って笑いながらスコーンをつついている。その皿の上には季節のフルーツが添えられている。
スコーンもこの店の名物らしい。
あの2人の笑顔を見ると、それだけで、どれほど美味しいかわかる気がするよ。
僕も、今度頼んでみようかなと思ったけれど。
──今日は、もう決まっているんだ。
そう、あのサンドイッチ。
表にメニューはないけれど、訊くと出てくることがある。ただし「今日はいいパンが手に入った日」限定なんだ。
ラウンドの端の席に腰を下ろすと、ママがちらりと目を上げて、少しだけ口角を上げた。
「お昼、まだだった?」
「ええ、ちょっと遅めで。あのパン、まだ残ってますか?」
「今日のは柔らかすぎて、本当は明日用だったけど……気が向いたら切るって決めてたの。少しだけ残ってるわよ」
「じゃあ、その気が向いたほうで、お願いします。」
「ふふ、わかったわ。」
ママがカウンターの奥へと姿を消すと、店内にはスピーカーからモニカ・ゼッタールンドが歌う“Waltz for Debby”が流れてきた。
初めて聴いたあの日から、女性JAZZボーカルは、僕の中ではこの店のテーマ曲みたいなものだ。
カウンターの向こう、いつか初めて来たとき、あの席でパンを頬張っていた女性の笑顔を思い出す。
あれから何度かこの店に通っているが、彼女に会ったのはあの一度きりだった。
それでもいい、と思った。
人は出会いに意味を求めがちだけど、ただその場に残る記憶があれば十分だ。
「お待たせ。柔らかすぎるパン、再びってことで。」
ママがサンドイッチの皿を前に置いて、ニヤリとした。
「ありがとうございます」
パンの香ばしさとハムの塩気、それにやわらかすぎるパンの食感。
あのときと同じ。けれど今は少しだけ、違って感じる。
「……やっぱり、この街に越してきて、よかったな。」
誰に言うでもなく、ぽつりとそうつぶやくと、ママが笑った気がした。
それでは、今日はこれで終わりにしよう。また、ここで、『柔らかすぎるパン』を頂こう。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます。
お気持ちが、大変励みになります。その、お気持ちに応えれる様な記事を引き続き作っていきたいと思います。
本当に、ありがとうございます。