178.【小説】男と女∶4『喫茶サントスの午後 ―イペの咲く街角―』
『喫茶サントスの午後 ―イペの咲く街角―』
坂道の途中にある、小さな喫茶店「サントス」。
中心街の喧騒から少しだけ外れたその場所には、春の光と静けさが混じり合うような時間が流れていた。
通り沿いには、鮮やかな黄色い花が数本の並木となって立ち並ぶ。
イペ──それがその花の名前だ。
若者がスマートフォンで写真を撮りながら、呟く。
「……ハナミズキの変種かな?」
「イペ、だよ」
その声に振り返ると、店先で新聞を畳んでいた老人が、穏やかに目を細めていた。
「珍しいだろ?
南米──いや、ブラジルの花さ。あの木は、戦後に帰国した移民の一人が植えたんだ。自分たちの故郷を示す、静かな目印としてね」
若者は目が、ほんの少し見開かれた。
「そうなんですか……。こんなに明るいのに、どこか懐かしいというか……何だか寂しさもあるような花ですね」
「そう。派手に咲いて、すぐに散る。短いが、鮮やかな人生みたいだ。」
二人は、そのまま店内に入った。
「サントス」は古い喫茶店だった。
重厚な木製の家具、レコード棚、真空管アンプ。
壁には、映画『黒いオルフェ』のポスターと、ジョアン・ジルベルトのレコードが飾られている。静かに流れるのは、バーデン・パウエルのギター。
マスターが無言でコーヒーを淹れ始めた。
老人はカウンターに腰を下ろしながら、話し始めた。
「俺の叔父がね、ブラジル移民だった。出稼ぎで渡って、最後は向こうで事業をして……晩年に日本へ戻ってきたんだが。その時、自分のルーツに印を残したかったらしい。」
若者は頷いた。
「……イペは、その印、なんですね」
「同胞の誰かが、いつか戻ってきたとき、迷わぬように、ってね。」
コーヒーが二人の前に置かれた。
「ここ、昔からあるんですか?」
「もう50年にはなるよ。叔父がよくここに通っててな。マスターとは、ずっと付き合いがあった」
その時、ギターの調べが変わる。
ジョアン・ジルベルトの『イパネマの娘』がゆったりと流れ始めた。明るく、それでいてどこか切ない旋律だった。
若者は静かに目を閉じた。
──あの黄色い花が、風に揺れる光景が、心に浮かぶ。
「きっと、ここに戻ってきてよかったって思えるんでしょうね、叔父さん」
老人は、うなずいた。
「そうだな。少なくとも、俺はそう思ってるよ。」
春の午後の光。
カップに残る香り。
ゆっくりと、ブラジルの風が、坂道を抜けていくようだった。
若者は、もう一度イペの花を見つめた。 ──自分もいつか、何かをこの街に残せるだろうか。
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