180.【小説】火を継ぐモノ:第6章「最後の火と夢」
第6章「最後の火と夢」
蝋燭の火が、小さく揺れていた。
ルカは石室の床に背を預け、まぶたを閉じていた。
まるで深く沈むような眠りが、ゆっくりと彼を包んでいった。
──彼は、逃げていた。
南門を越え、見張りの目をかいくぐり、森を抜け、遠い村へと向かっていた。
誰が運んだのか、それすらも定かではない。
だが、目を覚ましたとき、彼は確かに生きて、セレナの隣にいた。
「……なぜ、私を運んだ?」
ルカは怒りを抑えきれず、何日も口を利かなかった。
セレナは何も答えず、ただそっと手を握っていた。
季節が巡った。
荒れた手で野菜を洗い、子どもの産声に目を細め、家に灯る明かりを見つめながら──
ルカの心の中に、静かに何かが戻ってきていた。
ある春の日、赤子が産まれた。
「名は……ユリウスにしましょう」
セレナがそう言ったとき、ルカの手が止まった。
「……君が、そう名付けたいのか?」
「あなたが今も忘れていないのは、分かるから」
彼女は静かに微笑んだ。
ユリウス──書くことを愛し、地下工房で言葉を綴っていた少年。
あの夜、粛清の最中に連れて行かれ、助けることはできなかった。
ルカが最も後悔し、最も祈った名だった。
日々は流れた。
子どもは育ち、家は賑やかになり、ルカは村の学舎で教えた。
書き言葉、詩、そして火を絶やさぬ人の生き方を。
焚き火を囲んで、セレナとワインを分け合う夜、彼は言った。
「……俺は、ここに来て、良かったのかもしれない」
セレナは笑った。
「じゃあ、その火が消えないように、もう少しだけ居てくれる?」
彼は頷いた。
そのとき、自分の選んだ日々に、ようやく心が追いついた気がしていた。
だが、風が吹いた。
それは、あの工房で嗅いだインクと紙の匂いに似ていた。
──先生、どこですか。
誰かの声が聞こえた。
若い、震える声だった。
ルカが顔を上げたとき、世界の景色が、わずかに歪んで見えた。
書棚が燃え、本が破られ、工房が閉ざされる映像が脳裏に流れ込んできた。
そこに、一人の老人が現れた。
ベネディクト。
あの日のままの灰色の法衣をまとい、静かにこちらを見つめていた。
「君が選んだ世界は、美しいな」
「……はい」
「では、なぜ君は、ここで泣いている?」
ルカは、答えられなかった。
「君が築いたものが、ただの“逃げ道”でないことを願うよ」
ベネディクトはそう言い残し、霧のなかに消えた。
報せが届いた。
第2の声、捕縛。
工房、焼却。
若者たち、連行、処刑。
火は静かに、だが確実に広がっていた。
セレナがルカの手を取る。
その目は揺れていなかった。
「ありがとう。あなたがいたから、私は生きられた」
子どもたちが火の粉となって空に舞い、家は崩れ、世界が赤く染まっていく。
「神よ……なぜ、私を選んだのか?
なぜ、私でなければならなかったのか……」
ルカは地に膝をついた。
「なぜ、私もセレナと子供たちと共に、終えさせてくれないのか……」
そのとき、風のなかから、あの声が聞こえた。
だが、それはもうベネディクトではなかった。
ファウストの冷笑。
セレナのささやき。
ユリウスの瞳。
そして──エリシャの震える声。
すべての声が折り重なるように、胸の奥から響いてきた。
「先生、あの言葉を……僕たちに、残してください」
それは他者の声ではなかった。
もう、ルカ自身の意志だった。
「……神よ……なぜ、私をお見捨てになったのか」
それは嘆きではなく、祈りだった。
そして、ルカは、ゆっくりと立ち上がった。
蝋燭の火は、消えていた。
だが、胸の奥に灯るものは──確かに、まだ燃えていた。
扉が軋む音。
鉄の向こうに、エリシャが立っていた。
「先生……!」
その声に、迷いはなかった。
「ありがとう。お前たちの声が、私を目覚めさせてくれた」
「逃げましょう。今なら──」
ルカは静かに首を振った。
「私は、もう逃げない。
それが、かつて逃げた私にできる、唯一の贖いだ」
「でも、先生が……」
「私は死ぬんじゃない。
私は、“言葉”になるんだ」
「伝えてくれ。あの工房に火を戻せ。
紙が焼かれても、声が消えても──火は消えない。
私は、その証になる」
ルカは歩き出す。
朝の光が、扉の先で彼を待っていた。
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