280.創作秘話|誰のせいでもない ─ある刑事の記録─
初めての本格ミステリーとして構想を始めた本作は、当初まったく異なる物語になるはずだった。
出発点は、映画『市民ケーン』だった。
「多くの人に恨まれながらも、どこか憎めない男が、なぜか自殺していた──」
そんな、殺しても死ななそうな男が、なぜ死を選んだのか?を描くミステリーとして構想していた。
実際、初期の佐久間修という人物像は、“他人の感情を意に介さないカリスマ”だった。動機は全員にあるのに、事件性が認定されない──そんな構図を考えていた。
けれど、書いていて彼に愛着が持てなかった。
物語は一度、潰した。
そして改めて見えてきたのが、「誰も殺していないのに、全員が死に追いやった」という構造だった。
誰もが語るのに、誰も知らない男
物語は証言形式で進んでいく。
だが、それぞれが語る“佐久間修”は微妙に違い、重ならない。
妻は彼の理想を知らず、部下は離れ、画家は託された意味を見失い、政治家は都合よく利用した。
つまり、誰もが“見ていたつもり”になっていただけだったのだ。
有名人によくある話だ。
みんな知っている。みんな語れる。なのに、誰も“その人の中身”を知らない。
その“空洞”を描くために、語りの構造が生まれた。
主題の転移と、終盤のどんでん返し
書き進める中で浮かび上がってきたのは、「無関心が人を殺す」という主題だった。
情報はあふれている。
熱狂と称賛と誹謗中傷も日常だ。
SNSでは、匿名の声が一人の人間を持ち上げ、そして叩き潰す。
だからこそ、あえて“エピローグ”に冷水を浴びせた。
彼を讃えたはずの大衆が、数ヶ月後には言い放つ──
「自殺するくらいなら最初からやるな」
「今は佐久間じゃなく、◯◯でしょ?」
英雄を欲しながら、誰も英雄に寄り添わない社会。
その構図に、どうしても一石を投じたかった。
モデルとなったもの、そして実在する悲劇
大きな影響を受けたのは、マイケル・ジャクソンの人生だった。
彼は英雄だった。誰もが愛し、利用し、消費し尽くした。
そして、亡くなったとき──世界中が彼を悼んだ。
だが、その前に人々が何をしたのか、どれだけ孤独にしたか、覚えているだろうか。
本作の佐久間修も、「語られた像」だけが残り、「実像」はどこにもなかった。
最後に──読者への問いかけ
この物語はミステリーの皮を被っているが、実は現代社会へのドキュメントでもある。
「誰のせいでもない」──けれど、それで済ませていいのか?
無関心、軽薄な言葉、意味のない賞賛が、ある人間を追い詰める。
私たちはその“構造”の中で生きている。
そして、誰もが加担者になり得る。
それが、この物語を“いま”描く必要があった理由だ。
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