222.【小説】男と女∶13(最終話) Here, There and Everywhere
『Here, There and Everywhere』
カフェには、春の終わりの柔らかな陽光が差し込んでいた。ランチタイムを過ぎた午後、ゆるやかに音楽が流れている。
マスターがグラスを磨いていると、扉が開いた。
「こんにちは。」
年配の夫婦が入ってきた。落ち着いた装いの、どこか品のある老夫婦。
「ここは初めてなんです。」
「近くに越してきましてね。よく噂は聞いていたんですが。」
ママがにこやかに笑った。
「それは嬉しいですね。もうすぐ20年になるんです、この店も。」
「まあ、そんなに。」
「娘夫婦と孫が帰省したときに、今度ぜひ連れてきたいわね。」
夫婦が奥の席に座ると、カウンターでは、マスターとママが静かに作業を続けた。店内には、控えめな音量で音楽が流れ続けている。
窓際の席では、新聞を読んでいた男が、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
この街に戻ってきたのは、つい最近のことだ。 あれから、いくつかの季節が過ぎた。 ここでは、誰も彼に余計なことを訊かない。それが、とても心地よかった。
少し遅れて、ドアが再び開く。
「こんにちは。」
やって来たのは、あの家族。
ラナンキュラスを咲かせた庭のある家。 娘が先に入ってきて、ママに手を振る。
「いらっしゃい。」
「今日は学校、早く終わったの?」
「うん。給食のあと下校だった。」
続いて母親が入ってきた。
「マスター、こんにちは。」
「よう。お疲れさま。」
母娘がいつものテーブルにつくと、マスターがホットココアとミルクを運んでくる。
店内には、ポール・マッカートニーの穏やかな歌声が流れ始めた。
『Here, There and Everywhere』
娘がふと、天井のスピーカーを見上げた。
「この歌、好き。」
「そう。ママも若い頃から好きだった、曲よ。今日は、きっと、いいことがあるわね。」
店の外では、雨上がりの舗道が陽に照らされ、きらめいていた。 通りを行き交う人々の足取りも、どこか軽やかに見えた。
マスターは、カウンター越しにママと視線を交わす。 ママはゆっくりと頷いた。
ラナンキュラスとカワセミの午後。 それぞれが、それぞれの時間を、静かに過ごしていた。
そして、風が、やわらかく、カーテンを揺らした。
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