197.【小説】男と女∶9 ラナンキュラスとカワセミの記憶
『ラナンキュラスとカワセミの記憶』
午後の光が、ゆるやかにカフェの窓辺を満たしていた。
サティの《グノシエンヌ第1番》が静かに流れる店内には、コーヒーとパンの香りがやわらかく溶けている。
「……あの絵、カワセミですよね。隣の花は……ラナンキュラス、かな?」
カウンターに座った女性が、壁に飾られた小さな絵を指さして言った。
ママは微笑み、ゆっくりとうなずく。
「ええ、よくご存知ですね。……少し、思い出がある絵なんですよ。」
言葉の端にだけ、懐かしさが滲んでいた。
──遠い昔、あの日の午後。
百貨店のショーウィンドウで、彼と出会った。
「チケット、余ってるんです。今週末までの展示会。もしよかったら……」
突然の誘いに少し驚きながらも、「土曜日なら空いてます」と答えていた。
展示会では、カワセミの鮮やかな青に見入る彼の横顔を、ふと見つめていた。
ラナンキュラスの前では、花の説明を真剣に読み上げる彼につられて、彼女も思わず花の名前と由来を覚えた。
展示のあとに訪れたのは、彼女の提案だった。古いカフェ。アンティークの時計が時を刻み、店内には木の香りが漂っていた。
「こういう雰囲気、好きなんです。」
「うん、とても落ち着くね。」
「……いつか、こんなお店ができたら素敵かも。」
思いつきのような言葉に、彼は少し驚いたように、けれどやさしく笑った。
「夢かな? でも、誰かとなら。」
「うん、きっとできるよ。」
その言葉は、遠いようで、どこか近くに灯っていた。
「柔らかすぎるパン、焼けた?」
マスターの声が、厨房から届く。
「ええ、そろそろ出せると思うわ」
ママは返事をしながら、焼きたてのパンをカウンターに並べる。
ふわりと立ち上る湯気の向こうに、あの午後の記憶がやわらかく重なる。ふたりは、あの後しばらくして、一緒の道を選んだ。
そして、“夢”はゆっくりと、確かに根を張っていた。
静かな坂の途中に見つけた、陽当たりのいい空き店舗。木の扉。少し無骨なカウンター。そして、ふたりで語った“絵”を、そっと壁に飾った。
ラナンキュラスとカワセミ。
交差点のような偶然のなかで、出会い、心をほどき、そして共になった。
カフェのドアが開くたび、午後の光が差し込む。
コーヒーの香りと、音楽と、やわらかいパンの湯気に包まれながら、ママは穏やかに微笑む。
「今日も、いい午後になりそうね。」
絵のなかの花と鳥が、静かに頷いたような気がした。
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