190.【小説】カタリナ坂で会いましょう-A面|第四話「ラベンダー・ウェンズデー」
第四話『ラベンダー・ウェンズデー』
午前九時半、質屋「大丸質店」の重厚なシャッターが開く音が、商店街の坂に静かに響いた。
黒漆喰の壁に、古いランプを模した街灯。華やかさの残る商店街の中で、その建物だけが時の流れを違う速度で生きているようだった。
長谷部シンヤは、今日も同じ手順で店を開け、ガラスケースに並んだ預かり物に一礼する。先代である父がそうしていた姿を、子どもの頃からずっと見ていた。
元は国立の理系大学院を修了し、大学の研究室に籍を置いていた。だが、父の急な病で、この店を継ぐことになったのは、六年前の春だった。
そして──町では「名士」と呼ばれていた家業の重さ。
研究職の道を断ち切るには、十分すぎるほどの現実だった。
「慣れました?」
声の主は、向かいの和菓子店·千草屋の奥さんだった。朝の挨拶がわりの会話も、すっかり日課になった。
「まあ、多少は。」
そう笑って返すと、奥さんは頷き、次の客に向き直る。
静かな水曜日。空はどんより曇っていた。
店内の時計は十時を少し回っていた。
そのとき扉が開き、背の高い、日に焼けた男が一人入ってくる。風雨に晒されたようなキャップを脱ぎながら、手元にはしっかりとした革の箱を手にしていた。
「これ、預けたいんだけど。」
低く抑えた声で言い、箱を差し出す。中には、金色の腕時計。
針は止まっていたが、手入れの行き届いた外装から、それが大切にされてきたことがわかる。
「新人賞もらったとき、自分への祝いで買ったやつで……」
そう言って、男は、ほんの少し目を伏せた。
「今は、坂の下の方で小さな喫茶店をやってます。肩も壊しちまってね。」
「……あの、もしかして──」
「昔、ちょっとプロで球を投げてました。安藤っていいます、安藤シュウ。」
「──やはり、プロ野球の安藤さん。」
長谷部は時計を手に取り、しばし黙する。
「……竜頭、巻いてみてもいいですか?」
安藤は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに頷いた。
「ええ、お願いします。」
長谷部が静かに竜頭を巻くと、内部のギアが小さく噛み合い、音もなく連動し始める。わずかな音とともに、針がゆっくりと動き出す。
「すごい……とても精巧な造りですね。」
その動きを見つめる長谷部の目に、素直な賞賛の色が浮かぶ。
その音を聞いた安藤の顔に、微かな安堵が滲んだ。
「時計は、止まってても“終わった”わけじゃありませんから。」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
安藤は静かに笑い、帽子をかぶり直し、深く一礼して店をあとにする。
誰もいなくなった質屋に、ふたたび静寂が戻る。 長谷部は帳簿に手をかけて、それからふと、棚の奥に目をやった。
──そのとき、どこからか微かな旋律が聞こえてくる。
ドビュッシーの《夢》。
先代が仕舞い忘れた古いオルゴールか、誰かが預けた品のひとつか。誰の記憶だったかは、もう定かではない。
けれどその旋律は、止まったままの何かを、そっと揺らすようだった。
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