248.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第八話(最終話)『月曜日、春の陽射しの中で-』
第八話『月曜日、春の陽射しの中で』
川島陽菜は、目覚ましのベルが鳴るよりも少し早く目を覚ました。
窓の外には薄曇りの空と、静かな街の音があった。カーテンを開けると、まだ眠たげな坂道が見えた。
引っ越して一週間。やっと段ボールが片付いた部屋に、小さな朝が灯る。
窓の外に見える坂道が、少しずつ“いつもの風景”になり始めていた。
「彩花、起きる時間よ」
声をかけると、奥の部屋からまだ夢の続きを引きずった顔が覗いた。
「もう少しだけ……」
そんな甘えた声に、陽菜は笑って肩をすくめた。
新しい生活は、まだぎこちない。
けれど、前の生活よりも、ずっと息がしやすい気がする。誰の視線も、偏見も、ここにはなかった。
春の陽射しが、坂道を柔らかく照らしている。
川島陽菜は、娘・彩花を見送ったあと、十番駅前へと向かっていた。
勤め先のファミレス『グリルファミリア十番駅前店』には、春休み限定の家族連れで賑わいが戻りつつある。
エプロンのポケットには、小さく折りたたんだ手紙がある。彩花がこっそり仕込んだものだ。
「ママ、おしごとがんばってね。
いつかママのとこでバイトしたいな。
あや花より」
思わず笑ってしまいそうになる。彩花はまだ小学三年生だ。
坂の途中で、柴田陽子とすれ違う。陽菜は軽く会釈を交わす。相変わらず、彩花の事を気に掛けてくれる。彼女のその優しさと気遣いに、ふと笑みが浮かぶ。
その少し先、喫茶『Char Noir』の前で、元刑事・佐竹がマルを連れてひと息ついていた。陽菜が目礼すると、彼は帽子のつばに手をやるように軽く頷いた。
「おはようございます」
陽菜が声をかけると、佐竹はハンチング帽のつばを軽く押さえて、にこりと笑った。
「もう落ち着いたかい?」
「ええ、だいぶ片付きました。」
その少し後ろに、野球帽をかぶった安藤の姿もあった。今日は休日なのだろうか、ゆったりとした足取りで坂を下っている。
道の反対側では、香月美奈がスマホで何かをチェックしながら歩いている。
新しい取材先に向かうのだろうか。陽菜は声をかけず、そっと見送った。
信号待ちで立ち止まったとき、漢方薬の配送バンが脇を通り過ぎた。
運転席の男と、陽菜は一瞬目が合う。李明(あきら)だった。彼も気づいていたが、窓を開けることもなく、そのまま走り去った。
──互いに、それが一番いいと分かっていた。過去に深入りする必要などない。
勤務先の厨房では、若いスタッフが新しいメニューの準備に追われていた。
陽菜も手際よくエプロンを巻き直し、仕事へと戻る。何気ない日常、それこそが、何より欲しかった未来だった。
帰り道、陽菜は十番坂の中腹で、制服姿の少女とすれ違う。
杉本唯だ。
手に楽器ケースを持っている。あの形は、クラリネットだろうか。
──静かな夕暮れ。坂の上に、小さな灯りがまた一つ、灯った気がした。
川島陽菜は立ち止まり、少しだけ深呼吸をした。
家に戻ると、彩花が玄関まで走って出迎えた。
「おかえり、ママ」
「ただいま、彩花」
夕飯の支度をしながら、陽菜は思う。
いつかは、また嵐のような日が来るかもしれない。でも、今は──この坂の朝が、私たちを守ってくれている。
夜が明けるたびに、少しずつ、私たちの朝が始まっていく。
誰かの過去も、誰かの涙も、この坂はそっと受け入れてくれる。
この坂が、私は好きだ。
この街が、私は──大好きだ。
たとえ名前を呼ばれなくても、光の当たらない場所でも、この坂には誰かの人生が流れている。
そして、きっと今日も誰かの物語が、この坂で静かに始まっていく。
──ようこそ、カタリナ坂へ。
あとがき:
坂のふもとで暮らす人々には、名前がありませんでした。
呼ばれず、選ばれず、ただ今日をやり過ごすように生きていた人たち。
けれど私は、そうした彼らの姿にこそ、物語を見出したかった。
「光のある方へ」と坂を登るA面があったなら、B面は、「光がなくとも歩き続ける者たち」の記録です。
登らなかったからこそ、見える景色がある。登れなかったからこそ、触れる優しさがある。
名を呼ばれないまま、静かに灯りをともす生き方が、この街には確かにありました。
坂という風景の中に、誰かの記憶が残り、誰かのため息が風になり、誰かの一歩が、また誰かの明日へと繋がっていく。
あなたの心のどこかに、この坂の記憶がそっと残ってくれたなら、
この物語は、もう一度、今日を生きる力になると信じています。
──またいつか、カタリナ坂で会いましょう。
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