202.【小説】男と女∶10 坂の途中 ― ココアと君の手
『坂の途中 ― ココアと君の手』
午後の坂道を、三人で歩いていた。
春を知らせるように、街路のミモザが風に揺れている。ゆるやかな陽射しが街を包み、子どもの笑い声が春の空気を揺らしている。
「ねぇ、あの鳥の絵、きれいだね。」
店の前で足を止めた愛莉が、ショーウィンドウ越しに中を覗く。
そこには、ラナンキュラスの花とカワセミの絵が飾られていた。
「少し、休もうか。」
夫が言い、扉をそっと開ける。
風鈴のような音がして、コーヒーと焼きたてのパンの香りがふわりと鼻をくすぐった。
店内には、誰かが好んでかけたらしい、懐かしい英語のラブソングが流れていた。
「♪How deep is your love...」
昔なら選ばなかったかもしれないその曲が、なぜか今の午後にはよく似合っている気がした。
あの日も、こうして坂道を歩いていた。
離婚届を鞄に入れたまま、ひとりで訪れたカフェ。
「ココアください」
と頼んだ自分の声が、少しだけ震えていたことを覚えている。
カップの縁から立ち上る湯気を見つめながら、私は何かを終えようとしていた。
でも、そのココアのやさしさに、ほんの少しだけ迷いが差し込んだ。
「本当に、これでいいんだろうか」
何も起きなかった午後。けれど、それでも私は、一つの扉の前に立っていたのだと思う。
私の中で何かが揺れた時間だった。
「ママ、今日もココアにするの?」
「──あら、愛莉、よく知っているのね。」
「うん。シナモン、少しだけのでしょう。」
「愛莉は、すっかり常連さんだな。」
夫が笑ってそう言うと、娘は得意げにうなずいた。
カウンターの奥では、やわらかそうなパンを仕上げている女性と、パンの焼き具合を確かめている男性がいる。
目が合うと、二人は微笑み、軽く会釈をしてくれた。
娘はサンドイッチにかぶりつき、夫はブレンドをひとくち啜った。
私は、目の前に置かれたココアの湯気を見つめる。
──変わったのは、たぶん私の方だ。
過去の苦さに蓋をしたわけじゃない。ただ、あの頃の自分に「ありがとう」と言えるようになっただけ。
帰り道、愛莉が手をつなごうとしてくる。
私はその手を包みこみながら、もう一方の手で夫の袖を軽く引いた。
午後の坂道。
小さな手のぬくもりと、あたたかな光。
心のどこかで「きっと、大丈夫」と、もうひとりの私がつぶやいていた。坂を下りながら、ふと店の扉の向こうから音楽が漏れてきた。
「♪How deep is your love, how deep is your love...」
それは、まるで午後の光が、そっと背中を押してくれるような音だった。遠くで誰かが笑う声がして、坂の街は、静かに春を迎えていた。
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