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307.【小説】潮騒の港 -ひかりの海-6

第四話 東京·赤坂── 日常と、少し未来へ ──


羽田からタクシーで勝鬨のマンションに戻ったのは、午後を少し過ぎた頃だった。

数日空けただけの部屋は、静かで、ほんの少しよそよそしくもあった。

靴を脱ぎ、カメラバッグを置き、エスプレッソマシンに火を入れる。マキネッタで作る、濃いコーヒーが無償に飲みたくなった。

静かな湯の音とともに、旅の余韻が胸に満ちていく。

鹿児島で撮った写真を、PCのモニターに映し出す。桜島、磯庭園、フェリーの甲板──あの時間の匂いと音が、画面の奥から立ち上がってくるようだった。

窓際に、鹿児島の工芸店で買った薩摩切子の一輪挿しを置いた。

まだ、中は空っぽのままだった。

東京に戻ったら花を活けようと、旅先でふと思ったのを思い出す。

机の隅には、神戸の実母からの封筒。

封を切ると、便箋にはやわらかな筆跡でこう綴られていた。

「美佳ちゃん、中学生になったんだね。入学祝い、何か贈ってあげたいのだけど……慶彦は何がいいと思う?」

少し考えたあと、スマートフォンで母に電話をかけた。

「ありがとう、母さん。何がいいかな……文房具じゃ味気ないしな」

「おばあちゃんらしいものでいいのよ。いつか思い出すでしょう?」

受話器越しの声に、どこか遠く、神戸の空気が混じっていた。


数日後、仕事の打ち合わせが入った。

場所は赤坂。博報堂系の小さな代理店。

午前11時、勝鬨からタクシーに乗る。東京湾の風がビルの谷間を抜け、どこか湿り気を帯びていた。

赤坂見附で降りると、外堀通り沿いに新緑がまぶしく揺れていた。

春の東京は、足音の下に色を忍ばせてくる。

オフィスビルの受付を通り、エレベーターで9階へ。

会議室の窓越しに見えたのは、見慣れたオフィス街と、遠くの青い空だった。そして、顔なじみのクリエイティブ・ディレクターが待っていた。

「九鬼さん、今回もお願いできたらと思って。静物メインの広告撮影で。」

「了解です。商品中心なら、背景はやや抑えた方がいいですね。」

必要な会話だけを交わし、15分ほどで打ち合わせは終わった。

都市の仕事は、早く、正確で、感情を挟む余地が少ない。

シャッター音のないこの世界でも、なにかを“切り取る”ことはできるのだろうか──そんな考えがふとよぎった。

そして、鹿児島で撮った桜島の光景が蘇る。潮の香り、煙の匂い、対岸の静かな線。

──あれには、シャッターを切らない理由がなかった。

だからこそ、撮りたくなった。

赤坂からは、地下鉄で戻った。

夕方の車内には、背中を丸めた会社員たちと、数人の学生。

都市の時間は、少し早足だ。

勝鬨に戻ると、陽はもう傾いていた。

窓の向こうに東京湾のきらめきが滲みはじめていた。

部屋に入ると、薩摩切子の花瓶。

さっき立ち寄った花屋で買ってきた、黄色いガーベラを一輪、水を張った切子の器にそっと挿した。

その輪郭が、午後の光の中にふわりと浮かび上がった。

その隣に置かれたカメラが、ただそこに在るだけで、何かを物語っているようだった。

スマートフォンが震えた。

画面に「美佳」の名が表示される。

「パパ、GW、会える?」
「ママはその日いないから、一人でも行けるよ」

少し驚いた。
だが、すぐに頬が緩む。

ほんの少しずつ、距離が変わっていく。

「もちろん。横浜で会おう」

ほどなくして、もう一通のメッセージが届く。

「港の写真、今度見せてね。」

画面を見つめながら、

──次の旅の気配が、春の風にまぎれて、静かに輪郭を帯びはじめていた。


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